学位論文要旨



No 111881
著者(漢字) 西尾,正幸
著者(英字)
著者(カナ) ニシオ,マサユキ
標題(和) 架橋カルコゲン配位子を有する貴金属複核錯体の合成と反応性に関する研究
標題(洋) A Study on Preparation and Reactions of Multinuclear Noble Metal Complexes Containing Bridging Chalcogen Ligands
報告番号 111881
報告番号 甲11881
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3679号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 助教授 荒木,孝二
 東京大学 助教授 溝部,裕司
 東京大学 講師 八代,盛夫
 東京大学 講師 橋本,幸彦
内容要旨

 [1] 多核金属錯体上では、各種基質は複数の金属中心と同時に相互作用し、特異な立体的および電子的効果を受けることによって単核錯体上とは異なる反応性を示すことが期待できる。我々は、硫黄が遷移金属との強い結合性や高い金属間架橋能を有することから、強固な遷移金属多核構造を構築するための良好な配位子となることに着目し、これまでに架橋硫黄配位子を有する多様な二核および多核錯体の合成を行い、その複核サイト上での特異な反応性ついて報告してきた。本研究では、中心金属としてRu、Irに注目し、硫黄をはじめとしたカルコゲン原子を架橋配位子とする複核錯体の合成と、その多中心の反応場での基質の活性化や変換反応について詳細に検討した。

 [2] 二核Ru錯体1は、2つの隣接した16電子の配位不飽和Ru(II)サイトを有することから、種々の基質に対し高い反応性を示すことが期待される。そこで、基質として末端アルキン類をとりあげ1との反応を検討した。錯体1はTHF中室温で過剰量のHC≡CTol(Tol=4-MeC6H4)、HC≡CH2と速やかに反応し、二核サイト上でのアルキンのRu-SPri結合への形式的な挿入を伴った三量化または二量化による生成物2、3を与えた(Scheme 1)。錯体2では2分子のアルキンが一方のRuとメタラサイクルを形成し、その一部が-アリル基として他方のRuに配位しているのに対し、3では錯体上に取り込まれた2分子のアルキンのうち1分子がエンーインとして一方のRuと反応して閉環し、2と類似のメタラサイクル骨格を生成している。

Scheme1a

 これらの反応においては、中間体に対応する錯体は全く得られなかったのに対して、アルキンとしてHC≡CCO2R(R=Me,Et,But)を用いた場合には反応が段階的に進行することが明らかとなった。すなわち、1とほぼ1当量のHC≡CCO2Rとを室温で反応させたところ1分子のアルキンがRu-SPri結合にシス型で挿入した二核Ru錯体4が得られ、4aに対してさらにHC≡CCO2MeやHC≡CTolを50℃で反応させたところ、2、3と類似のメタラサイクル骨格を有する二核錯体5が得られた(Scheme 2)。これに対し、興味深いことに4aとHC≡CSiMe3との室温の反応では、-C(CO2Me)=CHSPri部分の異性化を伴った全く異なるカップリング反応が進行して、Me3SiC≡CC(CO2Me)=CHSPriがアルキンとして2つのRu間に架橋配位した二核錯体6が得られた(Scheme2)。

Scheme2a

 次に1と末端アルキン類との反応から得られた一連の二核Ru錯体の反応性について検討した。錯体2、3はトルエン中80℃でButNCと反応し、架橋アルケニル配位子を有する二核錯体7、8をそれぞれ与えた(Scheme 3)。錯体7、8はメタラサイクルの開裂を伴った二核サイトからの還元的脱離反応を経て生成するものと考えられる。二核サイトからの還元的脱離反応は、二核あるいはそれ以上の金属中心を有する錯体を用いた合成反応を設計する上で重要な素反応の一つと考えられるが、単離された錯体上で自発的に進行する例はほとんど知られておらず、COやホスフィンなどとの反応により誘発されるものについての報告も限られている。本反応はイソシアニドとの反応により二核サイトからの還元的脱離反応が進行した初めての例であると考えられる。一方、5がMeIと容易に反応することも判明した。すなわち、5aとMeIとの室温での反応ではRu間に架橋配位したSPri基及びメタラサイクルを構成する有機配位子中のSPri基のいずれもが脱離し、新たに2つのヨウ素が一方のRuに配位した二核ルテナシクロペンタジエン錯体9を生成した。錯体9はLiCuMe2によって、Ru上に2つのメチル基を有する二核錯体10へと誘導できた(Scheme4)。これに対し、室温における5bとMeIとの反応では生成物を同定することができなかったが、THF中低温で反応させることによりメタラサイクル中のSPri基のみが脱離したカチオン性の二核ルテナシクロペンタジエン錯体11を得ている(Scheme 4)。また6については、ヨウ素と低温で反応させることにより架橋配位したアルキンMe3SiC≡CC(CO2Me)=CHSPriが遊離の有機物として得られることも見出した(式1)。

Scheme3Scheme4a

 [3] 我々はすでにカチオン性二核Ru錯体[Cp*(Cl)Ru(-SPri)2RuCp*][OTf](OTf=OSO2CF3)が末端アルキン類に対して特異な反応性を示すことを報告しているが、本研究ではこの錯体と過剰のEt3SiHとの反応により得られる二核ヒドリド錯体12とアルキン類との反応について検討した。その結果、錯体12とHC≡CPhとの反応では、当研究室ですでに単離・同定されているインダン骨格を有する錯体13を生成するのに対し、内部アルキンであるMeO2CC≡CCO2Meを用いた場合には、1分子のアルキンが金属-水素結合へトランス型で挿入した二核錯体15を生成することが判明した(Scheme 5)。錯体14では生成した-C(CO2Me)=CHCO2Me基が位のCO2Me基のカルボニル酸素によってもう一方のRuに配位しメタラサイクルを形成している。アルキン類の金属-水素結合への挿入反応は通常シス型で進行することが知られているが、二核サイトを用いた本反応では例の少ないトランス型でアルキンの挿入が起こっており興味深い。しかしながら、PhC≡CPh、MeC≡CPh、MeC≡CCO2Meなどの他の内部アルキンは加温条件下でも12とは反応しなかった。

Scheme5a

 [4] テルルを配位原子とする遷移金属錯体の合成例は同族の硫黄にくらべ限られている。そこで、新たな多核反応場の構築をめざしてテルロラート配位子を有する複核Ru錯体の合成について検討した。錯体15に対しテルル源として過剰のMe3SiTeArを加え、生成した反応混合物にMeOHを加えたところ、チオラート錯体1の場合と異なり3つの架橋テルロラート配位子を有する常磁性二核錯体16が得られた。錯体16は形式的にRu(II)/Ru(III)の化合物であるが、X線解析の結果からは2つのRu原子間で不対電子の非局在化が起こっていることが示唆された。錯体16bはヨウ素によって容易に酸化され反磁性二核錯体17を与えた(Scheme6)。

 一方、テルロラート源としてTolTeTeTolを用いて15と反応を行い生成物をトルエン-MeOHから再結晶したところ、Cp*基中の2つのメチル基のC-H結合活性化を伴った特異な構造のオキソ架橋三核Ruクラスター18aが生成していることが判明した(Scheme6)。同様の生成物は15とTolEETol(E=Se、S)との反応でも得られた。

Scheme6a

 [5] 9族の遷移元素は、Ruと同様に均一系錯体触媒の中心金属として様々な活性が知られている。そこで中心金属としてIrを取りあげ、架橋チオラート配位子を有する二核錯体の合成とその反応性について検討した。錯体19にCH2Cl2中室温でRSH(R=Pri、Cy)を加えると、各Ir上に末端Cl配位子が互いにシスの位置で結合したIr(III)のチオラート架橋二核錯体20が生成した。この錯体はナトリウムアマルガムによって容易に還元され、Ir(II)の二核錯体21を与えた(Scheme7)。X線解析により、21bは折れ曲がったIr2S2コアを有し2つのCy基はaxial-axialのsyn配置をとっていることが判明した。一方21aにおいては、2つのPri基はその1H NMRスペクトルからaxial-equatorialのantiの配向にあるものと推定される。錯体21はRu錯体1と異なり、CO、H2やMeI、HC≡CPhなどの基質とは50-80℃の加温条件下でも反応しない。これに対し、21とMeOTfとの反応により得られるチオラートとチオエーテルが架橋したカチオン性二核錯体22は、THF中60℃で容易に架橋配位したチオエーテルを遊離し、二核IrサイトにCO、H2などを取り込むことが明らかとなった。すなわち、22aとCOの反応では2つのCOが各Ir上に末端配位した錯体23が2つの異性体の混合物として得られた。一方、H2との反応ではH2の二核サイト上での酸化的付加が進行し、二つのヒドリド配位子で架橋され金属間に二重結合を有する錯体24が生成した(Scheme8)。

Scheme7aScheme8a

 次に21aをトルエン中室温で過剰量のS8と反応させたところ、直鎖状の架橋ノナスルフィド配位子を有する二核錯体25が生成した(Scheme 9)。このノナスルフイド配位子はこれまで報告されているもののなかで最も長い架橋ポリスルフィド配位子と考えられる。錯体25はさらにNaBPh4と反応し架橋ジスルフィド配位子を有する常磁性のカチオン性二核錯体26を与えた。錯体26は形式的にIr(III)/Ir(IV)の化合物であるが、実際にはふたつのIr間でS-S結合を介した不対電子の非局在化が起こっていることがX線解析より明らかとなった(Scheme9)。

Scheme9a
審査要旨

 遷移金属錯体は触媒あるいは試薬として有機合成化学及び有機工業化学の分野で広く利用されているが、それらは主に単核の化合物である。これに対し多核遷移金属錯体では、各種基質が近接した複数の金属中心と同時に相互作用できることや、多核金属骨格に起因する立体的・電子的な効果などによって従来の単核金属錯体とは異なる新規な反応性の発現が期待できる。硫黄は貴金属固体触媒の活性部位に強く吸着・配位し触媒毒となることが知られているが、その一方で、このような遷移金属との強い結合性や高い金属間架橋能によって様々な反応条件下でも分解しにくい多核金属骨格を構築するための良好な配位子になると考えられる。本論文はこうした観点から、多核金属上での基質の特異な活性化や変換反応の開発を目的として、硫黄を中心とするカルコゲン類を架橋配位原子に含み、均一系錯体触媒の中心金属として様々な有機合成反応における活性が知られているRu、Irなどの貴金属からなる複核錯体の合成やその反応性について検討した結果について述べており、序章に加えて以下の6章から構成されている。

 第2、第3章ではチオラート配位子によって架橋された配位不飽和なRu(II)の二核錯体と末端アルキン類との反応、および得られた二核Ru錯体上での末端アルキン由来の有機配位子の変換反応について述べている。第2章では、まず、末端アルキンとしてパラトリルアセチレン、シクロヘキセニルアセチレンを用いた反応について述べており、これらのアルキンの三量化又は二量化がRu-S結合への挿入を伴って置換基の種類により選択的に進行し、金属を含んだ特異な五員環骨格を有する二核錯体が得られることを見出している。さらに、このようにして生成した五員環骨格は、これまで例のないイソシアニド化合物の配位によって誘発される二核金属サイトからの還元的脱離反応を経て開裂し、架橋アルケニル配位子を有する二核錯体へと誘導されている。一方、第3章では末端アルキンとしてプロピオール酸エステル類を用いることによって、二核Ru上でのアルキンの三量化や二量化における中間体に相当する二核錯体の単離に成功し、本錯体と一連の末端アルキンとの反応生成物を詳細に検討することによって、二核Ru(II)錯体上での様々な末端アルキンの反応について、アルギンの置換基の種類によって全く異なる生成物が得られるという興味深い知見を明らかにするとともに、それらを合理的に説明する機構を提示している。

 第4章では、チオラート配位子とヒドリド配位子で架橋されたRu(III)のカチオン性二核錯体とアルキン類の反応について述べている。末端アルキン類との反応ではアルキンの二量化による架橋ブテニニル配位子の生成を示し、その機構として二核Ru上で互いにシスの配置で形成されるアルキニル配位子とビニリデン配位子のカップリング反応を提案している。また特にベンジルアセチレンとの反応においては、いったん生成した架橋ブテニニル配位子中での分子内環化反応によるインダン型骨格の形成を見出している。一方、内部アルキンであるアセチレンジカルボン酸ジメチルとの反応では、Ru二核サイトの特異性のために、まだあまり例のないアルキンのRu-H結合へのトランス型挿入がおこることを示している。

 第5章では、メトキシ基で架橋された二核Ru錯体を原料として用いたテルロラート、セレノラート配位子を有する複核Ru錯体の合成について述べている。アレーンテルロトリメチルシランとの反応では、架橋テルロラート配位子を有する形式的にRu(II)/Ru(III)の混合原子価二核錯体の合成に成功している。一方、カルコゲノラート源としてジトリルジカルコゲニドを用いた場合には、テルル、セレン、硫黄のいずれのジカルコゲニドにおいても、補助配位子であるペンタメチルシクロペンタジエニル基中の2つの隣り合ったメチル基のC-H結合活性化を経て特異な構造の三核Ruクラスターが生成することを示している。

 第6章では、架橋チオラート配位子を有する二核Ir錯体の合成と反応性について述べており、ペンタメチルシクロペンタジエニル基を補助配位子とする二核Ir錯体とアルカンチオール類との反応や、その生成物の還元により、架橋チオラート配位子を有するIr(III)およびIr(II)の二核錯体の合成法を確立している。また、得られた二核Ir錯体の反応性についても検討しており、二核Ir上に一酸化炭素や水素なとの小分子を取り込めることを述べている。

 第7章では、チオラート配位子で架橋された二核Ir上での無機化合物の変換反応について述べている。まず、二核Ir錯体と硫黄との反応を試み、直鎖状のノナスルフィド配位子が2つのIr間に架橋配位したこれまでに例のない構造をもつ二核錯体を合成している。また、この化合物とテトラフェニルほう酸ナトリウムとの反応により二核Ir上で架橋ノナスルフィド配位子が錯体の1電子酸化を伴って分解し、架橋ジスルフィド配位子となることも示している。この分解反応は、架橋ノナスルフィド配位子中のS-S結合がナトリウムイオンとの相互作用によって不均一に開裂することによって進行することを提案しており、各錯体のサイクリックボルタモグラムの測定によって架橋ノナスルフィド配位子を有する二核Ir錯体の1電子酸化体が不安定であり、ただちに分解して架橋ジスルフィド配位子を有する錯体を与えることを実証している。

 以上、本論文では硫黄を中心とするカルコゲン類を架橋配位原子として用いることにより分子内にRu、Irなどの貴金属中心を複数個有する一連の新規錯体の合成法を確立するとともに、それらの多中心反応場で各種基質の特異な変換反応が進行することを見出している。このように、本論文は有機金属化学の学術的基礎の発展に対して大きく貢献するものと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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