学位論文要旨



No 111882
著者(漢字) 李,成吉
著者(英字)
著者(カナ) イ,ソンギル
標題(和) 液膜輸送系におけるキャリアとしての金属錯体の機能設計
標題(洋) Functionality Design of Metal Complexes as a Carrier in Liquid Membrane Transport Systems
報告番号 111882
報告番号 甲11882
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3680号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 荒木,孝二
 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 教授 渡邊,正
 東京大学 助教授 篠塚,則子
 東京大学 講師 八代,盛夫
内容要旨 緒言

 生体内で重要な機能である能動輸送は利用可能な各種の自由エネルギーと共役することにより、基質を膜内外の濃度勾配に逆らい輸送(上り坂輸送)する過程を指す。生体膜輸送系の高い基質選択性、効率良い能動輸送機能は、人工膜輸送系を設計するうえで大きな目標となる。人工膜輸送系は、複雑な構造をもつタンパク質のかわりに、比較的簡単な構造を持つ低分子のキャリアが主に用いられる。様々な天然および合成のキャリアが知られており、これらの分子が示す多様な生理活性・高い基質選択性など、その機能の重要性は広く認識されている。本論文では、基質に対する親和性が制御可能なキャリアとなる機能性金属錯体を設計・合成し、pH差を利用して選択性が高く効率が良い上り坂輸送を実現することを目的とした。

結果および考察1.機能性金属錯体の分子設計

 高機能性キャリア分子中、高い基質選択性を示し、基質に対する親和性を取込み・放出過程で制御可能なキャリア分子は、効率良い選択輸送を可能とする。ここではプロトン(H+)濃度差つまりpH差を駆動力とした親和性(アフィニテイ)のスイッチングで陰イオンを上り坂輸送する系を対象とし、式(1)に示すようなビスアミド型配位子を持つ2価金属錯体をキャリア分子として設計・合成した。

式(1)

 この錯体は熱や化学反応に対し安定性が高く、また有機液腹中への溶解度を高めるために配位子部位にC6のアルキル鎖を持ち、クロロホルムなどの有機溶媒には溶けるが水にはまったく溶けない。この錯体にアルカリを加えてゆくと、配位子のアミド部位が可逆的に解離して中性の解離型金属錯体となる。つまり、アミドの解離に伴いキャリア錯体の電荷が+2から0に変化することになり、陰イオンとの静電相互作用をスイッチングできる。中心金属がCu(II)の場合は非解離型(CuLH22+)から片側のアミドプロトンが解離した1段階解離型(CuLH+)を経由して、もう一方のアミドプロトンが解離した2段階解離型(CuL)になり、Ni(II)では一度に解離が起きる(式(2))。

 

 またこの錯体の構造は、平面正方型であることを各種スペクトル法で確認しており、軸方向での基質との配位相互作用が可能であることが示された。このため、基質である陰イオンとの相互作用は、静電相互作用に加えて配位相互作用も関与することになり、基質選択性を決める重要な要因となると考えられる。またアミド解離型錯体は解離酸素の配位により平向方向の配位子場が強くなるため、軸方向での配位相互作用が非解離型錯体より弱くなることをCu(II)錯体のd-d吸収帯の吸収位置およびESR測定より明らかにした。これはアミドプロトンの可逆的解離が、静電相互作用に基づく基質親和性だけでなく配位相互作用に基づく基質親和性をもスイッチングすることを示す結果であり、輸送効率の向上を可能にする。実際に分光学的手法で調べた結果、非解離型錯体に対して配位性の高いチオシアン酸イオン(SCN-)が選択的に軸方向から二分子結合してその結合定数が大きいこと、しかし解離型錯体とは相互作用しないことを確認した。

 以上の結果、非常に安定な平面型金属錯体は水相のpHによる可逆的な配位子のアミドブロトンの解離平衡に伴い、非解離型錯体は静電相互作用によって陰イオンとの強い親和性を示し、解離型錯体になると親和性がなくなることを明らかにした。また、軸方向からの配位力による陰イオンとの相互作用も陰イオン親和性に寄与することが可能であることを示した。

2.機能性金属錯体を用いた陰イオンの上り坂輸送2-1.金属錯体をキャリアとする陰イオンの選択的上り坂輸送

 弱酸性の水相I(pH3.0-5.0)およびpH6.0の水相IIに同じ濃度の基質を加え、両水相を金属錯体キャリア(基質/キャリア=30)を含む有機液膜で隔てた三相系で輸送を行った。チオシアン酸イオン(SCN-)を基質とした場合、Cu(II)錯体、Ni(II)錯体いずれをキャリアとしても両水相のpH差が2以上というわずかな差で効率の良い上り坂輸送が進行し、最終的に水相IIの濃度が水相Iの濃度の10倍近くになった(図1)。輸送されたSCN-とほぼ同じ量のH+が同方向に輸送されており、H+の濃度勾配と効率よく共役してSCN-が濃度勾配に逆らって輸送されている。実際にNi(II)錯体を用いて72時間の輸送をおこなうと、H+濃度差に基づく自由エネルギー差Gの約90%に相当するSCN濃度差が形成され、輸送効率の高いことを示している。

図1.NiLH22+/CH2Cl2(1.11x10-4 mol dm-3)によるSCN-の上り坂輸送中水相I()と水相II(……)のSCN-濃度の時間変化。

 基質に配位性の弱いイオンを用いた場合、親水性の高い臭素イオン(Br-)はまったく輸送されず、疎水性のp-トルエンスルホン酸イオン(p-tol)は輸送された。しかし、p-tolとSCN-を同時に基質として加えると、SCN-のみが選択的に輸送されており、取込み過程での非解離型錯体への優先的なSCN-の配位で基質選択性が決まることが判明した。

2-2Ni(II)錯体によるSCN-上り坂輸送の機構の解析

 陰イオンを含みpHの異なる水相およびNi(II)錯体キャリアを含む有機相を激しく撹拌し、有機相中の錯体の解離型のモル分率を調べた結果を図2に示す。

図2.(a)様々なナトリウム塩の型 (b)違うNaSCNの濃度を含む水相緩衝液と撹拌後、有機相のNiLのモル分率のpHプロフィール。(a)ナトリウム塩の型(1.0x10-2mol dm-3);:No salt、:NaSCN、:Na(p-tol)、:NaClO4:NaBr。(b)NaSCN濃度;:1.0x10-3:3.0x10-3:5.0x10-3:1.0x10-2:2.0x10-2:4.0x10-2mol dm-3

 解離型錯体のモル分率は、水相のpHが高いほど大きくなり、また基質陰イオンの種類により異なる。これは、錯体キャリアのアミド解離が水相のpHに依存する結果であり、錯体キャリアの親和性が水相のpHや基質の種類や濃度で制御可能なことを示している。金属配位能の高いSCN-の場合に解離型の割合が減少するのは、非解離型にSCN-が配位して有機相に取り込まれる結果非解離型が安定化されたものと説明される。界面での溶質の取込み平衡は式(3)で記述できた。

 

 ここで、Kappは平衡定数であり、20℃でlogKapp=13.6となった。接尾辞aqとorgはそれぞれ水相と有機相を示す。式(3)より明らかなように錯体のアミド解離は水相のH+濃度の二次に依存しており、このためわずかな水相のpH差で有機相中の錯体の解離平衡が制御可能となることを示している。

 次に界面でのSCN-の取込み・放出過程を速度論的に解析した。取込み過程では、SCN-を含むpH4.0緩衝液と接触したときの有機相中のNiLがNi(LH2)(SCN)2に変換する速度を分光測光法で調べた。放出過程についてもNi(LH2)(SCN)2/CH2Cl2を有機相、SCN-を含むpH6緩衝液を水相として同様な検討を行った。いずれの場合も有機相中での錯体の変換速度は錯体濃度の一次に依存するが、水相中のH+濃度には全く依存せず、SCN-濃度に対してもあまり依存しない。錯体の水相への漏れがないことから、この結果は、錯体の解離・非解離が界面の水相近傍で起き、界向での錯体の拡散が界面物質移動の律速となることを示唆している。

 輸送の機構を式(4)に示す。機能性金属錯体キャリアによる効率の良いSCN-の上り坂輸送は、ほぼ定量的なH+共輸送との共役、水相のわずかなpH差でのキャリア錯体の基質親和性スイッチングなどによることを明らかにし、界面での物質移動の律速が界面での錯体の拡散によることを示した。

式(4)輸送の機構
3.Ni錯体を用いた生体分子の上り坂輸送

 機能性Ni(II)錯体と軸方向の配位相互作用がアミド解離に伴い変化することに注目し、陰イオンだけではなく配位性の基質を選択的かつ効率良く上り坂輸送する輸送系の構築について検討した。陰イオン以外の配位性分子の輸送系構築は、生体分子の多くが配位性の複素環などを含むことから、対象となる基質を様々な生体分子に拡張することが可能となる。

 Ni(II)錯体キャリア(NiLH22+)のジクロロメタン溶液の両側に、等濃度のアミノ酸誘導体と過塩素酸ナトリウムを含む水相I(pH3.0)および水相II(pH10.0)を接触させ、20℃でゆっくり撹拌しながら上り坂輸送を行った。基質としては配位性の高いイミダゾール環を持つcarbobennzoxy histidine(Cbz-His)を用いた。

 Ni(II)錯体が有機相に存在するとCbz-Hisの上り坂輸送が起き、キャリア錯体との配位相互作用を制御することで配位性基質の上り坂輸送が実現できることを実証した。この輸送系では共存塩としてNaClO4が必要であり、またその濃度が高すぎでも輸送が起きないなど複雑な挙動を示す。しかし、配位性の高いNaSCNを共存塩とすると輸送が全く起きず、イミダゾール部位のキャリア錯体への配位が輸送に重要な働きをしていることが確認された。

総括

 有機液膜中に存在するN2O2型平面錯体は、面内配位子のアミド解離平衡を水相のpHで制御することにより、陰イオンに対する静電および配位相互作用に基づく親和性をスイッチングすることが可能となる。このようなキャリア錯体の設計は、pH差を利用した効率良い選択的上り坂輸送系の構築に有効であることを実証した。また、配位子解離の平衡に伴って軸方向配位子との相互作用も変化することから、陰イオンだけではなく配位性の基質である生体分子も効率良く上り坂輸送する輸送系の構築が可能となった。

審査要旨

 生体膜輸送系の特徴的な機能の一つである能動輸送では、各種の自由エネルギーと共役して、膜内外の濃度勾配に逆らう基質の輸送(上り坂輸送)を可能にしており、生体の情報伝達などに不可欠な役割を果たしている。本論文は、基質親和性を取り込み・放出過程で変化させるというアフィニティ・スイッチングの概念に基づき、新規な金属錯体型キャリア分子を設計・合成し、わずかなpH差を利用した人工液膜系での上り坂輸送系をこれまでにない高い効率で実現している。

 第1章は序論であり、生体膜輸送系における能動輸送の重要性、人工液膜系の輸送機構やこれまでに知られているキャリア分子について解説し、アフィニティ・スイッチングの概念で設計した機能性キャリアが、人工液膜系での能動輸送系構築に有用であると主張し、本研究の目的・意義を明示している。

 第2章では、アフィニティ・スイッチング機能を持つ金属錯体型キャリア分子の分子設計指針を述べ、それに従い設計・合成した新規な金属錯体型キャリアの性質を明らかにしている。ビスアシルアミノビピリジンを配位子とする金属錯体は、平面正方型の構造を持ち、配位子部位の二つのアミドプロトンが可逆的に解離して2価カチオン型錯体から中性錯体となるため、陰イオンとの静電相互作用および軸方向での配位相互作用が大きく変化することを指摘し、アミドプロトンの解離をスイッチとする陰イオンキャリアへの応用が可能であると述べている。さらに機能性陰イオンキャリア分子に要求される性質を順次検討し、適切な疎水性を付与するための分子設計をおこなった6,6’-ビス(ヘキシルベンゾイルアミノ)-2,2’-ビピリジン配位子およびその鋼およびニッケル錯体を合成している。得られた錯体は十分な疎水性を持ち、二つのアミドプロトンが可逆的に解離することを確認している。さらに、カチオン性錯体である非解離型が配位性の高いチオシアン酸イオン2分子と軸方向からの配位で強く相互作用すること、しかし中性の解離型錯体には配位しないことを確認し、両者で親和性が大きく異なることを示している。

 第3章では、前章でのべた新規な金属錯体型キャリア分子を用いて、効率の良いチオシアン酸イオンの上り坂輸送が起きることを実証し、界面物質移動過程の平衡論的および動力学的解析から効率の良い上り坂輸送を可能とした要因を解明している。まず銅錯体を用いた水/有機二相系では、有機相中のカチオン性の非解離型錯体によりpH3および4の水相から疎水性の高いパラトルエンスルホン酸や配位性の高いチオシアン酸イオンが効率よく抽出され、pH6の水相との接触で中性の解離型となる際に抽出した陰イオンがほぼ定量的に再放出されることを示している。また水相1(pH3・5)/有機液膜/水相2(pH6)という三相輸送系で両水相に等濃度の陰イオンを含む系では、両水相のpH差が2というわずかな差でも効率の良いチオシアン酸イオンの輸送が起こり、水相2の濃度が10倍以上も高くなる結果を得ている。これは、このようなわずかなpH差で上り坂輸送を誘起した初めての例である。

 この効率の高さを可能とする要因を解析するために、ニッケル錯体を用いた輸送系で界面物質移動過程の平衡論的および動力学的検討を行い、チオシアン酸イオンの輸送とプロトンの同行輸送とのほぼ定量的な共役、陰イオン結合部位とスイッチング部位の分離、有機液膜中の錯体種の変換が水相のプロトン濃度の2次に比例することなどが、わずかなpH差でも効率良い上り坂輸送が起きる要因であると結論している。

 第4章では、静電相互作用だけでなく基質との配位相互作用のスイッチングも可能であることに注目し、アミノ酸誘導体のうち基質に金属配位部を持つヒスチジン誘導体の上り坂輸送を行っている。この場合も有機溶媒中での基質の配位の確認、二相系での取り込み・放出の挙動解析を行った上で、三相液膜系での上り坂輸送を行っており、金属錯体型キャリアへの基質の配位を水相のpHでスイッチングすることにより生体分子であるアミノ酸誘導体の上り坂輸送を実現している。多くの生体分子は金属配位部位を持つことから、この成果は配位性生体分子の上り坂輸送系構築に途を拓くものであり、新規な金属錯体型キャリアの有用性を高めている。

 第5章は、総括である。

 以上述べたように、本論文はアフィニティ・スイッチングの概念に基づくキャリア分子の設計が効率の良い上り坂輸送系の構築に有用であることを実証しており、得られた機能性分子および分子システムに関する新しい知見は、化学生命工学の分野に寄与するところ大である。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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