生体膜輸送系の特徴的な機能の一つである能動輸送では、各種の自由エネルギーと共役して、膜内外の濃度勾配に逆らう基質の輸送(上り坂輸送)を可能にしており、生体の情報伝達などに不可欠な役割を果たしている。本論文は、基質親和性を取り込み・放出過程で変化させるというアフィニティ・スイッチングの概念に基づき、新規な金属錯体型キャリア分子を設計・合成し、わずかなpH差を利用した人工液膜系での上り坂輸送系をこれまでにない高い効率で実現している。 第1章は序論であり、生体膜輸送系における能動輸送の重要性、人工液膜系の輸送機構やこれまでに知られているキャリア分子について解説し、アフィニティ・スイッチングの概念で設計した機能性キャリアが、人工液膜系での能動輸送系構築に有用であると主張し、本研究の目的・意義を明示している。 第2章では、アフィニティ・スイッチング機能を持つ金属錯体型キャリア分子の分子設計指針を述べ、それに従い設計・合成した新規な金属錯体型キャリアの性質を明らかにしている。ビスアシルアミノビピリジンを配位子とする金属錯体は、平面正方型の構造を持ち、配位子部位の二つのアミドプロトンが可逆的に解離して2価カチオン型錯体から中性錯体となるため、陰イオンとの静電相互作用および軸方向での配位相互作用が大きく変化することを指摘し、アミドプロトンの解離をスイッチとする陰イオンキャリアへの応用が可能であると述べている。さらに機能性陰イオンキャリア分子に要求される性質を順次検討し、適切な疎水性を付与するための分子設計をおこなった6,6’-ビス(ヘキシルベンゾイルアミノ)-2,2’-ビピリジン配位子およびその鋼およびニッケル錯体を合成している。得られた錯体は十分な疎水性を持ち、二つのアミドプロトンが可逆的に解離することを確認している。さらに、カチオン性錯体である非解離型が配位性の高いチオシアン酸イオン2分子と軸方向からの配位で強く相互作用すること、しかし中性の解離型錯体には配位しないことを確認し、両者で親和性が大きく異なることを示している。 第3章では、前章でのべた新規な金属錯体型キャリア分子を用いて、効率の良いチオシアン酸イオンの上り坂輸送が起きることを実証し、界面物質移動過程の平衡論的および動力学的解析から効率の良い上り坂輸送を可能とした要因を解明している。まず銅錯体を用いた水/有機二相系では、有機相中のカチオン性の非解離型錯体によりpH3および4の水相から疎水性の高いパラトルエンスルホン酸や配位性の高いチオシアン酸イオンが効率よく抽出され、pH6の水相との接触で中性の解離型となる際に抽出した陰イオンがほぼ定量的に再放出されることを示している。また水相1(pH3・5)/有機液膜/水相2(pH6)という三相輸送系で両水相に等濃度の陰イオンを含む系では、両水相のpH差が2というわずかな差でも効率の良いチオシアン酸イオンの輸送が起こり、水相2の濃度が10倍以上も高くなる結果を得ている。これは、このようなわずかなpH差で上り坂輸送を誘起した初めての例である。 この効率の高さを可能とする要因を解析するために、ニッケル錯体を用いた輸送系で界面物質移動過程の平衡論的および動力学的検討を行い、チオシアン酸イオンの輸送とプロトンの同行輸送とのほぼ定量的な共役、陰イオン結合部位とスイッチング部位の分離、有機液膜中の錯体種の変換が水相のプロトン濃度の2次に比例することなどが、わずかなpH差でも効率良い上り坂輸送が起きる要因であると結論している。 第4章では、静電相互作用だけでなく基質との配位相互作用のスイッチングも可能であることに注目し、アミノ酸誘導体のうち基質に金属配位部を持つヒスチジン誘導体の上り坂輸送を行っている。この場合も有機溶媒中での基質の配位の確認、二相系での取り込み・放出の挙動解析を行った上で、三相液膜系での上り坂輸送を行っており、金属錯体型キャリアへの基質の配位を水相のpHでスイッチングすることにより生体分子であるアミノ酸誘導体の上り坂輸送を実現している。多くの生体分子は金属配位部位を持つことから、この成果は配位性生体分子の上り坂輸送系構築に途を拓くものであり、新規な金属錯体型キャリアの有用性を高めている。 第5章は、総括である。 以上述べたように、本論文はアフィニティ・スイッチングの概念に基づくキャリア分子の設計が効率の良い上り坂輸送系の構築に有用であることを実証しており、得られた機能性分子および分子システムに関する新しい知見は、化学生命工学の分野に寄与するところ大である。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |