学位論文要旨



No 111884
著者(漢字) 高橋,一成
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,カズナリ
標題(和) 動物細胞培養による蛋白質生産のための増殖制御方法の研究
標題(洋)
報告番号 111884
報告番号 甲11884
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3682号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 鈴木,栄二
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 古崎,新太郎
 東京大学 教授 戸田,清
 東京大学 教授 渡辺,正
内容要旨

 抗体生産をはじめとする有用蛋白質生産向上の研究は工業化が発達するにつれてより必要となってきた。有用蛋白質とは抗体、エリスロポエチン(EPO)、組織型プラスミノゲン活性化蛋白(t-PA)、顆粒球コロニー刺激因子(G-CSF)、インターフェロン、補体系成分の蛋白質、インターロイキン類、等の医薬、試薬等として使われる機能性蛋白質である。これらの有用蛋白質の多くはその遺伝子を導入した不死化動物細胞の大量培養により生産されている。そのため、動物細胞培養により生産される有用蛋白質の需要が増すにつれて有用蛋白質生産性を向上させる技術が工学的な意義から重要視されてきている。有用蛋白質生産性の向上で最も重要な事項は培地当りの有用蛋白質生産の向上である。本研究は動物細胞の培養で培地当たりの有用蛋白質生産性を向上させることを目的にしている。培地当たりの有用蛋白質生産性を向上する手法は次の2通りに分けられる。

 (a)細胞密度の最大化

 (b)1細胞当りの有用蛋白質生産量の向上

 (a)の細胞密度の最大化は例えば高密度培養装置の開発がある。この研究は細胞をできるだけ高密度で培養することにより、培地体積あたりの有用蛋白質生産量の向上を目指している。これまで、多くの高密度培養装置が研究されており多数市販もされている。一方、本研究では装置ではなく培養条件の観点から、生細胞密度と培養持続時間の積を最大化する方法を検討した。即ち、培養温度の適正化により細胞密度が向上すること、それによって培地当たりの有用蛋白質生産性が向上できないか、を研究し、

 (7章)培養温度変化による有用蛋白質生産最適化

 として示した。それに比べて(b)については現在まではあまり研究はされていない。しかし、近い将来この研究はより重要視されると考えられる。(b)は一例として次の5つに分類される。

 (A)有用蛋白質をコードするDNAの重複化

 (B)有用蛋白質mRNA合成速度の促進

 (C)有用蛋白質mRNAの安定化

 (D)細胞の増殖制御と細胞死の少ない増殖抑制条件の確立

 (E)細胞当たりの有用蛋白質生産性を向上させる要因の検索

 (A)についてはDHFR遺伝子を用いたMTX存在下の培養による遺伝子増幅の研究が進んでいる。(B)については強力なプロモーターの開発研究が進んでいる。(C)については基礎研究は行われているが、実用研究はあまり進んでおらず、これからの発展が期待される。この中で本研究は(D)(E)を目的にしたものである。(D)の細胞の増殖制御は主に次の2つの効果がある。

 (1)増殖速度を抑えることにより1細胞当りの有用蛋白質生産速度が上昇する。

 (2)充分に高い細胞密度を実現した後に増殖抑制をし、オーバーグロースによる細胞死を防ぐ。

 本研究では上記(1)、(2)の効果を実現するため、

 (5章)培地中の成分を変化させることによる増殖制御方法

 (8章)温度感受性変異株を利用した有用蛋白質生産

 (9章)接触阻害によりG0期で停止する細胞を利用した有用蛋白質生産

 の研究を行った。

 (E)は培養温度の最適化を目指し(7章)に示した。本要旨では(5章)(7章)(8章)(9章)を示す。なお、細胞は複数の細胞を用いたが勿論この細胞が全ての動物細胞の傾向を示しているわけではない。しかし一般的な動物細胞の性質を導くための指標になると考えられる。また、簡便のため、本研究で用いた細胞を総称して動物細胞とする。

 (5章)の研究の目的は有用蛋白質の生産性の向上方法の開発であり、つぎの3つの観点から研究を行った。1つは培地成分を変化させることによる増殖抑制である。鈴木らはセルサイクル原理により蛋白質の合成を阻害しない条件下での増殖抑制ではmRNAが安定な場合はmRNAの蓄積効果等により細胞当りの蛋白質生産性が向上し、ひいては培地当りの蛋白質生産性を向上させることを見いだした1]。増殖抑制によりアポトーシスをひきおこすオーバーグロースに達しない細胞濃度を維持する方法の開発が望まれる。(5章)ではオーバーグロースに達しない対数増殖期で高密度で培養でき、また細胞当りの蛋白質生産性が最大となる増殖抑制方法を探索した。細胞はハイブリドーマ2E3細胞を用いた。

 本研究では培地中に増殖抑制剤を添加する方法、培地中の必要成分を低減する方法、を検討した。又、蛋白質生産性向上には不適な排除すべき増殖抑制方法の条件も調べた。各条件での効果の有無を表1に示す。

表1 各増殖抑制条件での実験結果

 この結果よりカフェイン2mMでコントロールの2.4倍、過剰チミジン8mMでコントロールの3.4倍、培地の増殖に必要な増殖因子であるインシュリン、アルブミン、トランスフェリンを30%に低減した培養条件でコントロールの3.0倍、グルコースを含まない培地でグルタミン0.04mMで1.8倍の細胞当たりの有用蛋白質生産の向上があることがわかった。これらの条件ではあらかじめ抗体生産性の上昇が予想されている条件であり、一例として培地中のグルタミンを低減させる条件について述べる。グルタミンは蛋白質合成以外にエネルギー源となる。エネルギー源に必要な濃度は蛋白質合成に必要な濃度より高いので、グルタミンをエネルギー源に必要な濃度以下で蛋白質合成に必要な濃度以上に制御して増殖制御を行った。グルコースもエネルギー源となるのでグルコースを含まない培地でグルタミンを低減させる方法がより増殖抑制の効果を向上させると考えられるのでこの条件で実験を行ったところ上記の効果があった。この結果は蛋白質生産を阻害しない増殖抑制方法は細胞当たりの有用蛋白質生産性を向上させるモデル(セルサイクル理論に基づいた)の予測と一致した。カフェインは単価が安く細胞当りの有用蛋白質生産量を通常の2.4倍に増加させることができ、かつ培地交換等の複雑な操作を必要としないため工業的応用に最も適した方法の1つと言える。増殖因子のインシュリン、アルブミン、トランスフェリンを30%に低減した方法では通常の3.0倍に増加するが細胞は自身で増殖因子を生産することができるので、数日の培養後には増殖効果が低減することが分かった。よって、工業的な応用としては短期間の培養で生産する場合に適当な方法である。

 (7章)では培地当たりの有用蛋白質生産量が最大となる温度を探索する研究を行った。細胞培養では体温に近い37℃での培養が一般的であるが、著者は37℃よりも数℃低い温度で培養すると有用蛋白質生産量が増大することを発見した。この効果の主な要因が、細胞濃度が増大することによるものか、細胞当たりの有用蛋白質生産量の増大によるものかを調べた。具体的には、2E3細胞、FM3A1細胞(外来のベクターにより1を生産するマウス乳癌細胞FM3A)を半潅流式(一日一回半量ずつ交換する培養方法)で培養を行い、培地当りの蛋白質生産量が最大となる培養温度Tt、細胞当りの有用蛋白質生産が最大となる温度Tp、細胞濃度が最大となる温度Tvを求め、Ttがどちらに依存するかを調べた。細胞濃度が定常状態になった状態で、経時的な細胞濃度の積算、有用蛋白質(抗体、1)生産量の積算を培養温度毎に求めて細胞毎にプロットした。温度はで31℃〜39℃で検討した。細胞濃度の定常状態は2E3は培養開始後140時間近辺、FM3A1細胞は280時間近辺であった。一例として2E3での生細胞濃度、生存率、培地当たりの有用蛋白質生産速度、細胞当たりの有用蛋白質生産速度と各温度毎との関係を図1に示す。実験の結果2E3ではTt:37℃、Tp:37℃、Tv:33℃、FM3A1ではTt:33℃、Tp:33℃〜35℃、Tv:31℃、であることが分かった。これらの結果からTt、Tp、Tvは2E3とFM3A1とでは大きく異なるが、主な原因は細胞の特性の違いなのではないかと思われる。特にTvのTtに対する寄与はかなり両者で異なり、FM3A1はTpとTvの両者が協調してTtが決定されているのではないかと思われる。それに対して2E3ではTtはTpに大きく依存することが分かった。低温の方が細胞濃度が高くなる原因として細胞当りに要する栄養分が少なくなると考えられ、結果として多数の細胞が維持できる事及び低温の方が細胞死滅速度が小さいことが考えられる。又、工業的な応用として連続培養で通常Ttで培養し、長期間の培養時間を経て細胞濃度が低下すればTvで培養し細胞濃度を増加させる増殖制御方法が考えられる。

図1 2E3細胞を半潅流培養で培養したときの各特性値の培養温度毎の変化(培養開始後140時間経過後)

 (8章)(7章)では高温で増殖は停止するが死滅しないと言われる細胞株(長寿命温度感受性変異株2])を利用し、高温における増殖抑制時に細胞当りの有用蛋白質生産性が向上するかどうかを調べた。本研究ではFM3A細胞の長寿命温度感受性変異株tsFT210を工学的に応用した研究を行い、結果は長寿命温度感受性変異株の効果は見られたが前項で述べた低温による効果よりも下回ることがわかった。また、2E3細胞を長寿命温度感受性変異株に改変する方法を確立した。

 (9章)では接触阻害によりG0期で停止する3Y11(フィッシャー系ラット胎児由来の3Y1細胞に1を生産させるベクターを導入した細胞)を利用した有用蛋白質生産について検討した。

 接触阻害を起こす細胞では増殖制御を行うまでもなく接触阻害によりG0/G1期で細胞増殖が停止する。そこで、このG0/G1期で有用蛋白質生産が行うことができれば浮遊細胞の様に増殖制御を行うまでもなく細胞数を一定に保ちながら有用蛋白質生産を行うことができる。(9章)では対数増殖期と接触阻害により増殖を停止した状態で有用蛋白質生産はどの程度の差があるかを調べた(図2.1)。また生産が可能な期間についても調べた(図2.2)。

図表図2.1 各条件での1生産量条件A、Bは対数増殖期 C、Dは初期の停止期 / 図2.2 G0/G1期での1生産量図2.1の条件Dでの時間を0として経過時間をX軸に示す。

 この結果から増殖停止期初期の有用蛋白質生産速度は対数増殖期の1/5程度であり増殖停止期のはじめから急速に1生産量は低下するが、停止期初期の1/2で安定し、結果として対数増殖期の1/10の生産量であるが長期間の1生産が可能であることが分かった。G0/G1期での外来からのベクターによる有用蛋白質の生産は以上の観点から長期的に可能であり、筆者の別の研究からグルコース消費(栄養分の指標になる)が非常に少なく、工業的な応用は少量を継続的に生産する用途に適すると考えられる。

参考文献1]Suzuki,E.and D.F.Ollis:Biotechnol.Prog.6,231-236(1990)2]山田耕路:細胞制御工学(村上浩紀編)p39-p48 学窓社 (1986)
審査要旨

 抗体やサイトカイン等の有用蛋白質の動物細胞培養による生産の重要性が近年高まり、工業的な見地から有用蛋白質生産性を向上させる技術が要求されている。本論文では、細胞の過増殖によりもたらされる栄養飢餓や細胞毒性代謝産物の蓄積による細胞死を防ぎ、有効生産期間を延長するとともに、細胞当たりの有用蛋白質生産速度も向上させることを目指し、必要な細胞密度に到達した時点で増殖を抑制する技術を探求している。細胞増殖の抑制は細胞死と蛋白質合成の停止を伴う場合が多いため、この点を回避しながら増殖抑制できる方法を細胞周期制御の考え方に基づいて研究している。

 本論文は全体で10章からなり、第1章は緒言、第10章はまとめである。

 第2章では研究め目的を示し、関連する既往の研究を解説した。また、研究で用いる増殖阻害剤や増殖抑制条件が作用する細胞周期上の時点および細胞内の位置、器官の種類を論じている。

 第3章では、増殖抑制で抗体mRNAが細胞内に蓄積し、その結果、細胞当たりの抗体生産性が向上する機構について、実測値とモデルを用いて説明している。また、細胞周期理論に基づいたセルサイクルモデルを用いて、比増殖速度と比抗体生産速度の関係について説明している。

 第4章には実験材料と実験方法をまとめている。動物細胞の例として抗体を生産するマウスのハイプリドーマ細胞2E3、遺伝子導入によりラムダ1鎖を生産する乳癌細胞FM3Aおよび繊維芽細胞3Y1を用いている。

 第5章では培地成分の変更による増殖抑制方法について実験的に検討し、蛋白質生産を阻害しない増殖抑制方法が抗体生産性の向上に有効であるという予想と一致する結果が得られている。カフェインの培地添加による細胞のG1期停止による増殖抑制で、細胞当たりの有用蛋白質(抗体)生産速度はコントロールの最大3.7倍、グルコース不含培地でグルタミンを低減する増殖抑制方法でコントロールの最大1.7倍、培地中の増殖因子低減による増殖抑制では3.4倍となる結果を得ている。過剰チミジンによる細胞のS期停止による増殖抑制でもカフェイン添加と類似の結果が得られている。カフェイン添加による増殖抑制では、細胞当たりの抗体生産量が最も向上し、増殖抑制効果が持続し、カフェインが比較的安価なことから、工業生産における増殖抑制方法に適すると判断している。培地中の増殖因子低減による増殖抑制が、カフェイン添加に準じて細胞当たり抗体生産量を向上させるが、増殖抑制効果が、耐性の獲得によって時間の経過とともに減少することを見いだしている。この方法の応用としては、一過性の増殖抑制効果しかないが細胞当たり抗体生産量が大きく向上することから、回分培養の対数増殖期後半に培地中の増殖因子を低減させる方法を提案している。グルコース不含培地で、TCA回路ヘグルタミンをエネルギー源として供給しつつ、その濃度により増殖を制御する方法は、グルコース代謝物である細胞毒性の乳酸の蓄積を防ぐ効果と合わせて実用価値が高いとしている。細胞周期促進遺伝子c-mycのアンチセンスDNAによる増殖抑制は細胞死を誘導したため有用蛋白質生産には不適としている。培地中のロイシンを低減した条件では、増殖抑制は細胞当たりの抗体生産速度にほぼ中立で、セルサイクルモデルによるロイシン低減時の定性的予測が示す傾向と一致している(比増殖速度0の付近を除いては)。

 第6章ではセルサイクルモデルでは説明出来ない実験結果について、抗体mRNAの転写速度や分解安定性の変化の可能性を論じている。

 第7章では温度による増殖制御と細胞の有用蛋白質生産性の関係について述べている。動物細胞培養による有用蛋白質生産において培地当たり生産量を最大とする最適培養温度は生細胞濃度が最大になる温度と細胞当たり有用蛋白質生産速度が最大になる温度のバランスで決定されるが、FM3A細胞では31℃以下の増殖抑制状態で生細胞密度が最大となり、培地当たり生産量は33℃で最大となることを報告し、従来言われてきたように体温に近い37℃が最適培養温度であるとは限らないことを明らかにしている。

 第8章では、細胞周期制御遺伝子cdc2キナーゼの変異により、数℃の温度上昇でG2期に停止する温度感受性変異株を用いて、増殖抑制による有用蛋白質生産性向上を試み、増殖抑制による生産性向上はあるが、高すぎる培養温度に起因する蛋白質合成速度の低下の影響が大きく、実用上のメリットは無いとしている。また、ハイブリドーマの温度感受性変異株を新たに樹立している。

 第9章では接触阻害によるG0期停止を利用した増殖抑制と有用蛋白質生産の関係を3Y1細胞を用いて研究している。その結果、(1)対数増殖期に比べて時間当たり、培地当たりの有用蛋白質生産が10%に低下し、(2)1500時間を越える長期間で安定に生産が可能であった。G0期での生産の工業的有用性について、もし長期間一定量を取り出せる生産が望まれ、この程度の蛋白質生産性で良ければ、実用の可能性があると結論している。

 以上本論文は、動物細胞培養による有用蛋白質生産において、過増殖に起因する細胞死を回避しながら細胞当たり蛋白質生産性を向上させるための増殖抑制技術を、細胞周期制御の観点から検討し、工業的に応用可能な方法を提案しており、細胞工学の分野に貢献するところが大きい。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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