学位論文要旨



No 111898
著者(漢字) 黒澤,一吉
著者(英字)
著者(カナ) クロサワ,カズヨシ
標題(和) 機能性表面硬化プロセスの開発における転換電子メスバウアースペクトロメトリーの応用
標題(洋)
報告番号 111898
報告番号 甲11898
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3696号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 氏平,祐輔
 東京大学 教授 岸,輝雄
 東京大学 教授 須賀,唯知
 東京大学 教授 井野,博満
 東京大学 助教授 宮山,勝
内容要旨

 鋼製の摺動性部品においては,耐摩耗性や摺動性,疲労強度といったトライボロジー性能とともに,耐食性や耐熱性,意匠性,リサイクル性等の性能が同時に要求される時代となっている。また,バブル経済が終焉し,右肩上がりの経済成長が不可能になった現在,産業界の表面硬化法採用の基本姿勢は上記要求性能を満足させるのはもちろん,処理コストが低廉であることが必須条件になりつつある。特に自動車産業では米国や韓国からの低価格車の日本上陸という脅威から,「部品製造コストの低減」が最重要課題であり,そのための方法を必死に追い求めている。このような背景から,摺動部品の表面硬化処理においても複合化された性能を満足させ得る廉価な表面硬化法の開発が望まれている。そこで,鋼製摺動部品を対象に広く産業界で応用されている廉価な表面硬化法である,塩浴浸炭窒化法(タフトライド法)が現在かかえている問題点をふまえて,それを解決することを目的に新しい機能性表面硬化プロセスを開発した際の研究結果をまとめた。本論文内容は,生成した表面硬化層の状態を転換電子メスバウアー分光法(CEMS)を主体に,そのほかX線回折法(XRD),X線光電子分析法(XPS)電子線プローブマイクロアナライザー(EPMA)等の機器分析を使って測定して得られた知見と,それを活用して開発した表面硬化プロセスに関するものである。

 また,低燃費対策手段の一つとしての自動車用摺動部品の軽量化が世界規模で進行している。軽量化を目的として鋼製部品の薄肉化やサイズダウンが図られているがもはや限界に達したと言われる。最近ではシリンダーやピストン等のエンジン摺動部品材料を,鉄鋼材料から非鉄材料へ変更する動きが活発である。アルミ材料摺動部品の表面硬化には分散めっき法の応用が進んでいるが,軽量で耐熱性に優れたチタン材料には密着性に優れた硬化皮膜を形成させることが困難である。そこで,電気めっき法に真空熱処理を組み合わせて密着性に優れた硬質皮膜をチタン合金上に形成させる廉価で大量生産向きの表面硬化プロセスを開発した。ニッケルめっき皮膜を生成した後に,450〜600℃程度の比較的低温で真空熱処理して,チタン素材とニッケルめっき皮膜との界面に合金層を生成させて皮膜密着性を確保するが,本プロセスの開発にあたり,3点折り曲げ試験や摺動摩耗試験により密着性の良否を確認しながら,転換電子メスバウアー分光法(CEMS)やX線回折(XRD),電子線マイクロアナライザ(EPMA)等により界面の状態分析を行ない皮膜密着性向上機構を解析した研究内容も本論文にまとめた。

 (第1章)現在の産業界が摺動部品の表面硬化に求めている機能を概説して本研究の社会的背景を述べ,本研究の目的と意義をあきらかにした。

 (第2章)本研究において,硬化層の状態分析にはおもに転換電子メスバウアースペクトロメトリー(CEMS)利用した。そこでメスバウアースペクトロメトリーの基本原理や測定データから得られる情報について概説した。また,本研究に使用した測定装置の概略も説明した。

 (第3章)現在工業的に利用されている表面硬化法を分類し,各々の特徴を述べるとともにその応用例を概説した。さらに,本研究で硬化層の生成に用いた溶融塩浸炭窒化法と電気めっき法(分散)の内容を詳細に説明し,これらの硬化法によって付与される性能のレベルをあきらかにした。

 (第4章)本研究に用いたCEMSの測定対象元素である鉄鋼の特性をあきらかにし,さらに硬化層中に生成される種々の化合物(窒化物,炭化物,酸化物等)についても,その特性をあきらかにするとともにメスバウアースペクトロメトリーによる研究事例を概説した。

 (第5章)トライボロジー特性と耐食性を同時に付与できる廉価な表面硬化プロセス「浸炭窒化+酸化」の開発における,窒化・酸化層の状態分析結果をまとめた。溶融塩浸炭窒化では,発生するCO2により硬化層(化合物層)に無数の穴(ポア)が生成し,腐食環境下このポアを通しての孔食を無くすことは不可能である。しかし,浸炭窒化後に酸化すると表面はFe3O4や微細酸化鉄により構成された酸化膜で被覆されると同時に,化合物層中の無数のポア部にも微細酸化鉄が析出してポアを封孔することにより耐食性と耐孔食性が著しく改善された。

 溶融塩と水溶液の2種類の硝酸/亜硝酸系酸化浴を検討したが,400℃溶融塩の酸化では浸炭窒化層が有る無しに関らずFe3O4と微細酸化鉄が酸化膜中に生成し,化合物層内ポア部にも微細酸化鉄が析出した。いっぽう,130℃の水溶液の酸化では,浸炭窒化層が存在する場合は表面と化合物層内ポア部に微細酸化鉄のみが生成し,この微細酸化鉄からなる緻密な酸化膜による表面被覆とポア部の封孔効果により,塩水噴霧試験200時間後でも錆の発生が皆無の優れた耐食性が得られた。ただし,浸炭窒化層が存在しない場合は,耐食性や酸化膜の密着性が非常に悪く,わずか3時間の塩水噴霧試験で錆が発生した。この酸化膜は密着性が悪く,Fe3O4FeOOHで構成されおり微細酸化鉄は確認されなかった。

 浸炭窒化後に5分間溶融塩酸化した試料をXPS測定すると,酸素は化合物層の中心部,さらにはその内部の拡散層まで確認された。また,’Fe4NのXRDピークは酸化時間の増加とともに低角度側へ移動しかつブロード化した。そこで,’Fe4N格子(220)に注目して試料を化学的にエッチングしながら断面の応力をX線で測定すると,表面から7.0m深さ部でも’Fe4N格子は約1000MPaの圧縮応力を受けた状態で,酸素の拡散侵入により試料内部でも大きな歪が発生していることが確認された。

 本研究で,CEMSによる状態分析が重要な役割を担った。XRD測定では,溶融塩酸化および水溶液酸化試料ともにXRDピークが重複してFe3O4以外の酸化鉄を確定できなかったし,酸化法の違いにより生成された酸化鉄粒子径の差も確認できなかった。CEMSでの測定から酸化鉄の超常磁性情報が得られた結果として,酸化法の違いにより生成する酸化鉄粒子径の差が判明し,塩水噴霧試験での優劣の理由もあきらかとなった。現在市場展開している溶融塩酸化(QP,QPQプロセス)よりも,水溶液酸化との組合せのほうが廉価であり,微細酸化鉄で構成された皮膜が生成しより高耐食性表面が得られることが見いだされた。

 (第6章)ステンレス鋼摺動部品も最近ではトライボロジー特性と耐食性を同時要求されるが,要求に答え得る廉価な表面硬化法は存在しない。そこで,代表的なステンレス鋼の硬化層を状態分析するとともにアノード分極曲線を測定して硬化層の状態と耐食性レベルを対応させた。

 浸炭窒化初期の試料表面には炭化物と炭窒化物,Cr窒化物が生成されることを確認した。そして,処理時間が増すと表面は炭窒化物が主成分となった。SUS304鋼硬化層をマーブル試薬でエッチングすると黒層と白層の2層として顕微鏡観察された。CEMSやThermo-Calc法の状態図計算から,黒層中にはCrN,炭窒化物,M7C3炭化物(M:FeCr)等が生成されていることが判明したが,白層中には一般的な窒化物や炭化物は認められず,XRD測定で低角度側(2=30〜50゜)にブロードなピークが現れ,CEMSではシングレット状のピークが現れた。また,EPMA測定で白層中には炭素が確認されたが窒素は検出されなかった。CEMSでの詳細な解析から,白層のスペクトルはダブレットピークであることが判明し,白層は微細な炭化物を含んだ歪んだオーステナイト相()であると推定された。また,5%硫酸水溶液中でのアノード分極曲線測定から,黒層の耐食性は非常に悪いが,白層は未処理のSUS304鋼にほぼ匹敵する耐食性があることが確認された。SUS304鋼を浸炭窒化した後に機械的研削あるいは化学的エッチングして黒層を除去して白層表面とし,耐食性に優れた硬化層として利用できることを見いだした。

 フェライト系やマルテンサイト系の浸炭窒化層もおもにM2+x(C,N),M2Nで構成されており,SUS304鋼の浸炭窒化層(黒層)と組成的には大差がないことが判明した。しかし,フェライト系は120分以上処理すると浸炭窒化層内に亀裂が発生することをSEM観察で確認した。結晶粒界の炭化物の周囲に存在する歪場によりフェライト相には窒素が過飽和に固溶し,体積膨張が起こり圧縮応力が発生するが,過剰に固溶した窒素は拡散し難く亜粒界に濃縮し,この窒素がN2にガス化することによりボイドが発生する。このボイドが集合して亀裂を生じて応力を解放すると考えられる。硬度はHmV1100程度ありオーステナイト系と比べて遜色ないが,硬化層は1層でオーステナイト系の白層利用のようなことは不可能であった。

 (第7章)皮膜密着性に優れためっき皮膜を形成させる廉価な表面硬化プロセス「めっき法+真空熱処理」を開発した。チタン素材とめっき皮膜界面の合金層の状態分析から,界面にはNi3Ti,NiTi,NiTi2の金属間化合物が順次生成していた。また,純Fe上にスパッタリング法でNi,Cu,Ti薄膜を生成した試料をCEMSで測定してスペクトルの半値幅の広がりを確認した。FeとNi,Cu,Tiの相互拡散が進んだことを示すが,ISやQS,Hintの値の変化からはTi/Cu/Ni系の高速拡散現象を明瞭に確認することはできなかった。メスバウアー分光法による拡散の研究にはインビームメスバウアー分光法を利用する必要であると考える。Ti/Cu/Ni系の高速拡散と,温度依存性の少ない異常拡散現象により,550℃程度の低温処理でもTi/Cu/Ni系の数種類の金属間化合物層が界面部に生成し,これらの合金層を形成することによりめっき皮膜の密着性が確保される。6.3mmのTi-6Al-4V合金棒を6mmまでたわませてもめっき皮膜剥離は起こらず,摺動摩擦試験(油潤滑)での摺動摩擦係数は=0.10〜0.15と低い優れた摺動性能が得られた。

 (第8章)本研究結果を要約し,得られた成果を総括した。

審査要旨

 鋼の摺動性部品には,耐摩耗性,摺動性,疲労強度などのトライボロジー性能と同時に耐食性,耐熱性,意匠性,リサイクル性などが要求され,また産業では処理コストの低廉性が必須である。本論文は,塩浴浸炭窒化法(タフトライド法)の問題点を解決する新しい表面硬化プロセスの開発と生成した表面硬化層の状態の分析結果をまとめたものであり,測定には転換電子メスバウアースベクトロメトリー(CEMS)を主体に,X線回折分析,X線光電子分析,電子線プローブマイクロアナリシスなどを用いている。

 シリンダーやピストンなどのエンジン摺動部品材料を非鉄材料へ変更する一環として,ニッケルめっき皮膜を生成したのち500℃程度で真空熱処理し,チタン素材とめっき皮膜との界面に合金層を生成させ皮膜密着性に優れた硬質皮膜をチタン合金上に形成させる廉価で大量生産向きの表面硬化プロセスの開発にも成功している。全体は8章からなる。

 第1章では,摺動部品の表面硬化に求められる機能を概説し,本研究の社会的背景,目的と意義を述べている。

 第2章では,硬化層の状態分析に利用された転換電子メスバウアースベクトロメトリーの基本,測定装置の概略,得られる情報について概説している。

 第3章では,工業的に利用されている各種表面硬化法の特徴と応用例,硬化層の生成に用いた溶融塩浸炭窒化法と分散めっき法を概説し,これら硬化法によって付与される性能を示している。

 第4章では,使用した鉄鋼の特性,硬化層に生成する窒化物,炭化物,酸化物の特性を解説し,CEMSによる研究事例を紹介している。

 第5章では,トライボロジー特性と耐食性を付与できる「浸炭窒化+酸化」プロセスの開発と窒化・酸化層の状態分析結果をまとめている。溶融塩浸炭窒化では発生CO2により硬化層(化合物層)に無数の孔(ポア)が生成し,ポアを通しての孔食は不可避であるが,浸炭窒化層に酸化するとFe3O4などの酸化膜でポアが封孔され耐食性と耐孔食性が著しく改善することを示している。溶融塩と水溶液の硝酸/亜硝酸系酸化浴が検討され,溶融塩酸化では浸炭窒化層の有無に関らず酸化膜中にFe3O4と微細酸化鉄が生成すること,130℃水溶液酸化では浸炭窒化層が存在すると表面とポアに微細酸化鉄が生成し,緻密な酸化膜とポアの封孔効果により優れた耐食性が得られることを示している。’Fe4NのXRDピークは酸化につれて低角度側ヘシフトし,ブロード化しているが,’Fe4N(220)に注目して断面の応力を測定して,表面から7.0m深さでも’Fe4N格子には約1000MPaの圧縮応力がかかり,酸素の拡散侵入により試料内部でも大きな歪が発生することを確認している。CEMSから,酸化法のちがいにより生成する酸化鉄粒子径のちがいを求め,塩水噴霧試験の優劣の理由を明らかにしている。また,溶融塩酸化より水溶液酸化との組合せのほうが廉価で,微細酸化鉄皮膜が生成し高耐食性表面が得られることを見いだしている。

 第6章では,SUS鋼の硬化層の状態分析結果とアノード分極曲線の結果から硬化層の状態と耐食性レベルを対応させ,浸炭窒化の初期試料表面には炭化物,炭窒化物,Cr窒化物が生成することを確認している。硬化層は黒層と白層で構成され,黒層にはCrN,炭窒化物,Fe7C3やCr7C3などが,白層には窒化物はなく,XRDの低角度側(2=30〜50°)にブロードなピークが現れ,CEMSではシングレット状のピークが現れること,EPMAでは窒素が検出されないこと,白層は微細な炭化物を含んた歪んたオーステナイト相であると推定している。アノード分極曲線を測定し,黒層の耐食性は非常に悪いこと,白層は未処理鋼に匹敵する耐食性があることも確認している。SUS304鋼を浸炭窒化したのちに研削やエッチングで黒層を除去し白層表面とすると,耐食性に優れた硬化層として利用できることも見いだしている。

 フェライト系やマルテンサイト系SUS鋼の浸炭窒化層もオーステナイト系の黒層と組成には大差がないが,フェライト系は120分以上処理すると浸炭窒化層内に亀裂が発生すること,結晶粒界の炭化物の周囲に存在する歪により窒素が過飽和に固溶し,体積膨張が起こって圧縮応力が発生するが過剰に固溶した窒素は拡散せず亜粒界に濃縮しガス化してボイドが発生すること,ボイドが集合して亀裂を生じ応力を解放することを明らかにしている。

 第7章では,めっきと真空熱処理を組み合わせた方法の開発について述べている。純Fe上にNi,Cu,Ti薄膜を生成した試料では,FeとNi,Cu,Tiの相互拡散が進み,Ti/Cu/Ni系の高速拡散現象は確認できないものの温度依存性のない異常拡散現象により550℃程度でも界面部に数種類の金属間化合物層が生成し,合金層を形成して皮膜の密着性をよくすること,6.3mmのTi-6Al-4V合金棒を6mmたわませてもめつき皮膜は剥離せず,摺動摩擦係数が0.10〜0.15と低く,優れた表面層を形成することを見いだしている。

 第8章では,本研究の結果を要約し,得られた成果を総括している。

 以上,本論文は新しい硬化処理法の開発により自動車の摺動性部品の表面性能の向上に成功し,表面硬化層の状態を主としてメスバウアースペクトロメトリーによって明らかにしたもので,多くの新しい知見を得ており,先端材料工学を始め学術上の寄与が大である。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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