本論文は、重要性は指摘されながら、ほとんど明らかにされてこなかったイネの発芽種子、幼植物体の冠水耐性機構を新しいアイデアと精密な実験に基づいて主として生理学的観点から解明したオリジナリティーの高いものである。内容の要旨は以下の通りである。 まず、日本型水稲品種金南風を用いて冠水条件での種子の発芽過程における子葉鞘伸長に影響を及ぼす要因の解明及び子葉鞘伸長とATP量との関係を調べた。その結果、酸素濃度、ガスの通気、冠水、播種密度など様々な要因が冠水条件での子葉鞘伸長やATP量に影響を与えていることが明らかとなった。またATP量はある一定レベル以下になると子葉鞘伸長を抑制したが、このレベル以上のATP量は伸長促進に効果を示さないと推測された。好気条件で播種後7日目のイネ幼植物体は好気条件で播種後3日目のオオムギ品種はるな2条の幼植物体よりも冠水条件でのATP量の低下が抑えられ、強い生存力を示した。さらに主にインド型品種を含む国外の20品種の冠水条件下での発芽種子では播種後3日目の子葉鞘長およびATP量に品種間差が認められたが、両者の間に有意な相関は見られなかった。 以上より、冠水条件での生存に必要なATPのレベルがあり、さらに生長に必要なATPのレベルが存在するが、それ以上のATP量は冠水条件での生長を左右するものではないと考えられる。 次に、嫌気条件での誘導が知られているアルコール発酵およびこの反応系を担うアルコール脱水素酵素(ADH)について解析した。金南風の種子の冠水条件下での発芽時または幼植物体では冠水処理によりADH活性や植物体及び水中に排出されたエタノール量は増加したことから、種子の発芽または植物体の冠水後の初期からアルコール発酵が行われていることが示唆された。冠水条件の発芽過程で4-methylpyrazole(4-MP)によってADH活性を阻害すると、子葉鞘伸長は抑制されたことから、冠水発芽過程でのADH活性は子葉鞘伸長に必要な量であることが分かった。またイネの各品種の冠水条件で播種後3日目の1個体当たりのADH活性およびエタノール量は子葉鞘長と有意な相関を示したことから、本研究の供試品種ではアルコール発酵の活性化により子葉鞘伸長が促進される可能性が示唆された。 アルコール発酵とともに他の作物で嫌気条件による誘導が知られている乳酸発酵についても解析した。イネ種子の冠水条件下の発芽過程では好気条件よりもかなり低い乳酸脱水素酵素(LDH)活性を示し、好気条件で播種後7日目の幼植物体のLDH活性も冠水条件での増加は見られなかった。発芽過程のLDH活性は先に供試した20品種のイネでも金南風と同様に冠水条件で低いことが明らかになった。また幼植物体の冠水条件での乳酸生成量にも増加は見られなかった。これらは過去のオオムギなどの結果とは異なり、イネでは嫌気条件で乳酸生成が行われないため、細胞に障害となり得る細胞質酸性化が起きず、冠水条件での長期の生存が可能であると考えられた。 イネでは冠水耐性に関わる突然変異体が知られていないため、遺伝的調節機構については全く不明であった。本研究では、冠水条件下で発芽不良を示す突然変異体を同定し、冠水耐性に関与する遺伝子の機能解析を行った。変異原処理した後代のM2世代およびM3世代の種子を用いて、冠水条件で播種したときは不発芽または生育不良を示すが、好気条件では正常に発芽する系統を選抜した。その結果、6系統の単因子劣性の突然変異体が得られた。それらの冠水条件での発芽特性や解糖系の酵素活性は互いに異なっていた。そのうち1系統(92K-2S-40)はADH活性が低下した突然変異体であった。92K-2S-40では主に根に弱いADH活性があり、そのアイソザイムも野生型と異なるパターンを示したため、複数のAdh遺伝子の発現が影響を受けていると考えられた。また92K-2S-40の冠水発芽種子ではエタノール量は増加せず、フルクトース1.6ニリン酸の蓄積、グルコース量の低下がみられ、これらはATP合成能の低下を防ぐ調節とも考えられた。 以上、本論文は、イネの冠水耐性の生理学的機構を詳細に明らかにするとともに、その遺伝的調節機構解明の端緒を切り拓いたものであり、応用上のみならず学術上も価値が高い。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。 |