学位論文要旨



No 111913
著者(漢字) 松村,英生
著者(英字)
著者(カナ) マツムラ,ヒデオ
標題(和) イネの生育初期における冠水耐性機構の生理学的研究
標題(洋)
報告番号 111913
報告番号 甲11913
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1629号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 平井,篤志
 東京大学 教授 内宮,博文
 東京大学 助教授 高野,哲夫
内容要旨

 多くの高等植物は冠水条件におかれると、酸素不足すなわち嫌気条件となるためその生育が阻害される。このような冠水条件に対してイネはオオムギ、コムギなどの植物よりも耐性を示すことがよく知られている。一般に冠水耐性は複数の形態的、生理的な特性から成り立つと考えられ、生理的にはアルコール発酵や乳酸発酵などの嫌気的呼吸によるエネルギー(ATP)の獲得が重要な形質である。イネ以外の植物とイネとでは冠水耐性のレベルは異なり、従って耐性能の強化のための改良点も異なると考えられる。また、日本型の水稲品種間でも環境条件の違いなどにより耐性の程度が異なると考えられる。本研究では、イネの冠水条件下での嫌気的呼吸の能力及びその調節機構を解明し、さらに冠水耐性向上のための改良点を展望することを目的として、イネの生育初期すなわち種子の発芽過程と幼植物体の冠水条件での嫌気的呼吸経路の酵素、特にアルコール脱水素酵素(ADH)および乳酸脱水素酵素(LDH)の活性や代謝産物の変化などを調べた。またこれらADHなどの酵素の生理的機能の解明や、冠水条件での種子の発芽に必要な遺伝子の同定を目的として、冠水条件下で発芽不良を示す突然変異体のスクリーニングを行った。

1.冠水条件におけるイネ種子の発芽および幼植物体の生育とATP量の変化

 日本型水稲品種金南風を用いて種子の発芽過程での子葉鞘伸長と酸素濃度、ATP量の関係を調べた。各酸素濃度のガスを冠水せず通気、冠水させて通気、または冠水させるが直接通気しないという3つの実験区を設けた。直接通気を行わない冠水条件では酸素濃度によらず子葉鞘伸長は悪く、これに対して通気した時の子葉鞘伸長は酸素濃度に比例したが、酸素能度5%以上では子葉鞘伸長は阻害された。ATP量は通気したときに酸素濃度に伴って増加したが、直接通気をしなかった冠水条件では無酸素条件と同程度であった。播種前に窒素ガスで溶存酸素を除いて冠水発芽させても播種後7日目での子葉鞘伸長、ATP量は溶存酸素濃度が高いときと同程度であった。冠水発芽時に播種密度を変えると子葉鞘伸長、ATP量に違いが見られ、溶存酸素濃度の変化や酸素呼吸の阻害の結果から、その違いは発芽初期の溶存酸素の利用能力の違いによるものと推測された。これらの結果から、冠水条件での発芽過程における子葉鞘伸長には溶存酸素濃度以外の要因の影響が強く、ATP量も一定量(1個体当たりlnmol)以下では伸長を抑制するが、それ以上では特に子葉鞘伸長に影響を与えないと考えられる。

 好気条件で播種後7日目のイネ幼植物体と好気条件で播種後3日目のオオムギ品種はるな2条の幼植物体を冠水処理すると、イネは7日後でも生存していたが、オオムギは12時間後には致死していた。この時のイネ幼植物体のATP量は冠水後12時間までは低下したが、それ以後は72時間後まで一定であった。しかし、オオムギでは冠水後6時間でATP量は大幅に低下し、それ以後も非常に僅かな量しか示さなかった。

 冠水条件下での種子の発芽についてインド型品種を含む国外の20品種を用いて比較を行った。冠水条件で播種後3、5、7日目の子葉鞘長および3日目のATP量にはかなりの品種間差が認められたが、子葉鞘長とATP量の間に有意な相関は見られなかった。

 以上の結果から、冠水条件で生存し続けるために必要なATPのレベルがあり、イネの発芽種子ではさらにその上に生長に必要なATPのレベルが存在するが、それ以上のATP量は冠水条件での生長を左右するものではないと考えられる。

2.嫌気条件下でのアルコール脱水素酵素(ADH)活性とアルコール発酵

 金南風の種子の発芽時の冠水処埋または幼植物体の冠水処理により各器官のADH活性は増加したが、冠水後1〜2日以降は増加の割合が抑えられていた。この時の植物体及び水中に排出されたエタノール量の結果から、種子の発芽後または植物体の冠水後の早い段階からアルコール発酵が行われていることが示唆された。種子の胚盤由来のカルスでは冠水前後のADH活性に差は見られず、カルス中のエタノール量は冠水により大きく低下したが、水中のエタノール濃度は一定の増加が見られた。冠水条件の発芽過程で4-methylpyrazole(4-MP)によってADH活性を阻害すると、エタノール量の低下とともに子葉鞘伸長は抑制されたことから、通常の冠水発芽過程におけるADH活性はアルコール発酵及び子葉鞘伸長を行うために必要な量であることが分かった。またイネの各品種の発芽種子のADH活性を測定したところ、全ての品種で冠水条件の方が好気条件より高い活性を示した。それらを冠水条件で播種後3日目のタンパク質量当たりのADH活性は品種KaluBalaweeを除いてほぼ同程度であり、同時期の子葉鞘長、ATP量との相関は見られなかったが、1個体当たりのADH活性及び全タンパク質量は子葉鞘長やATP量と有意な相関を示した。冠水条件で播種後3日目の各品種のエタノール量は子葉鞘長や1個体当たりのADH活性と有意な相関を示したが、ATP量との有意な相関は見られなかった。これらの結果から、本実験の供試品種では、発芽種子のADHを含む酵素の遺伝子発現量が増加し、アルコール発酵の反応が活性化することによって子葉鞘伸長が促進される可能性が示唆された。

3.乳酸脱水素酵素(LDH)の発現の解析

 オオムギ、トウモロコシなどで嫌気条件による発現の誘導が知られているLDHについて、その活性及び乳酸発酵の産物である乳酸の蓄積量をイネについて調べた。好気条件下の発芽過程でLDH活性は増加したが、冠水条件では播種後7日目でもほとんど活性は見られなかった。好気条件で播種後7日目の幼植物体の各器官のLDH活性は冠水あるいは無酸素条件でも増加はせず、むしろ低下していく傾向が見られた。この時に乳酸の植物体中の含量および水中への排出量も、活性の結果と同様に特に増加する傾向は見られなかった。LDH活性、乳酸含量の増加が見られる植物では嫌気条件下での乳酸の蓄積により細胞質を酸性化してアルコール発酵の開始を促す、またはATP合成に乳酸発酵が寄与する可能性が推定されているが、イネにはこのような現象は見られなかった。この結果から、イネでは、細胞に障害となり得る乳酸による細胞質酸性化が起きないことが長期の冠水に耐えられる一つの要因と考えられる。

4.冠水条件下で発芽不良を示す突然変異体の選抜と解析

 イネにおけるADHなどの酵素の生理的機能の解明や冠水条件での種子発芽に必要な遺伝子の同定を目的として、冠水条件下で発芽不良を示す突然変異体のスクリーニングを行った。金南風の受精卵にN-methyl-N-nitrosourca処理した後代のM2世代およびM3世代の種子を用いて、冠水条件で播種したときは不発芽または生育不良を示すが、好気条件では正常に発芽する系統を選抜し、一部の系統については各個体のADH、LDH活性を調査した。その結果、目的の表現型を示す6系統が得られ、そのうち1系統(92K-2S-40)はADH活性が低下した突然変異体であった。どの系統も単因子劣性の遺伝様式を示す突然変異であり、発芽特性や酵素活性を比較した結果、異なる特徴を持つ系統に分けられた。これらの内、ADHの発現が異常である92K-2S-40についてはさらに詳細な解析を行った。

 92K-2S-40の好気条件での発芽過程におけるADH活性は野生型の1/10であったが、冠水条件下でのADH活性の増加は見られた。好気条件で播種後7日目の92K-2S-40では根と胚盤でのみ弱いADH活性があり、冠水後2日目では根のADH活性が野生型のレベルまで増加していたが、その他の器官ではわずかしか増加していなかった。92K-2S-40の幼植物体は冠水後3日目では野生型と同様に生存し、同程度のATP量を示したが、5日目以降になると葉身の枯死がみられた。92K-2S-40のADHアイソザイムは好気条件で全く検出されず、また冠水条件の発芽種子や幼植物体では、野生型に見られる発現の強い2つのADHアイソザイムは見られなかったが、移動度の速い2本のバンドが観察された。このように92K-2S-40では各アイソザイムの発現パターンに変化が見られたことから複数のAdh遺伝子の発現が影響を受けていると考えられる。

 92K-2S-40の冠水発芽種子の子葉鞘はほとんど伸長しないが、少なくとも5日間は生存し続けた。この冠水発芽過程でエタノール生成量は増加せず、またADHの基質であるアセトアルデヒドの蓄積も見られなかった。そのかわりにフルクトース1,6ニリン酸が蓄積しており、これはADH活性の低下による補酵素NAD量の低下が原因であると推測した。また92K-2S-40を冠水条件で発芽させた種子ではグルコース量が低下しており、これはデンブン分解過程の-グルコシダーゼ活性の低下に起因することが明かとなった。冠水条件で播種後3日目の92K-2S-40の1個体当たりのATP量は野生型の60%程度であり、さらに4-MPを与えてADHを完全に阻害すると致死してしまうことから、低レベルでもADH活性は冠水条件の生存に必須であり、グルコース量の低下は中間代謝産物の蓄積を防ぎ、ATP合成能力の低下を抑えるための調節によるとも考えられる。

 本研究の結果から、以下のような結論を導くことができる。冠水条件に感受性の植物では冠水後の早い段階で生存に必要なATP量を維持すること、乳酸による細胞質酸性化を防ぐことが冠水耐性獲得の要因と考えられる。また冠水発芽時に子葉鞘伸長が劣る品種ではアルコール発酵能力の向上により生長が促進される可能性がある。日本型水稲の金南風の冠水条件における発芽種子の子葉鞘伸長はATPが一定量以上に増加しても影響を受けないと推測されるため、その子葉鞘伸長能力の改良には呼吸によるエネルギー合成以外の要因が重要であると考えられる。今後は、遺伝学的、生理学的解析により、以上に述べたようなの要因を解明し、冠水耐性に直接結び付く形質であることを実証する必要がある。

審査要旨

 本論文は、重要性は指摘されながら、ほとんど明らかにされてこなかったイネの発芽種子、幼植物体の冠水耐性機構を新しいアイデアと精密な実験に基づいて主として生理学的観点から解明したオリジナリティーの高いものである。内容の要旨は以下の通りである。

 まず、日本型水稲品種金南風を用いて冠水条件での種子の発芽過程における子葉鞘伸長に影響を及ぼす要因の解明及び子葉鞘伸長とATP量との関係を調べた。その結果、酸素濃度、ガスの通気、冠水、播種密度など様々な要因が冠水条件での子葉鞘伸長やATP量に影響を与えていることが明らかとなった。またATP量はある一定レベル以下になると子葉鞘伸長を抑制したが、このレベル以上のATP量は伸長促進に効果を示さないと推測された。好気条件で播種後7日目のイネ幼植物体は好気条件で播種後3日目のオオムギ品種はるな2条の幼植物体よりも冠水条件でのATP量の低下が抑えられ、強い生存力を示した。さらに主にインド型品種を含む国外の20品種の冠水条件下での発芽種子では播種後3日目の子葉鞘長およびATP量に品種間差が認められたが、両者の間に有意な相関は見られなかった。

 以上より、冠水条件での生存に必要なATPのレベルがあり、さらに生長に必要なATPのレベルが存在するが、それ以上のATP量は冠水条件での生長を左右するものではないと考えられる。

 次に、嫌気条件での誘導が知られているアルコール発酵およびこの反応系を担うアルコール脱水素酵素(ADH)について解析した。金南風の種子の冠水条件下での発芽時または幼植物体では冠水処理によりADH活性や植物体及び水中に排出されたエタノール量は増加したことから、種子の発芽または植物体の冠水後の初期からアルコール発酵が行われていることが示唆された。冠水条件の発芽過程で4-methylpyrazole(4-MP)によってADH活性を阻害すると、子葉鞘伸長は抑制されたことから、冠水発芽過程でのADH活性は子葉鞘伸長に必要な量であることが分かった。またイネの各品種の冠水条件で播種後3日目の1個体当たりのADH活性およびエタノール量は子葉鞘長と有意な相関を示したことから、本研究の供試品種ではアルコール発酵の活性化により子葉鞘伸長が促進される可能性が示唆された。

 アルコール発酵とともに他の作物で嫌気条件による誘導が知られている乳酸発酵についても解析した。イネ種子の冠水条件下の発芽過程では好気条件よりもかなり低い乳酸脱水素酵素(LDH)活性を示し、好気条件で播種後7日目の幼植物体のLDH活性も冠水条件での増加は見られなかった。発芽過程のLDH活性は先に供試した20品種のイネでも金南風と同様に冠水条件で低いことが明らかになった。また幼植物体の冠水条件での乳酸生成量にも増加は見られなかった。これらは過去のオオムギなどの結果とは異なり、イネでは嫌気条件で乳酸生成が行われないため、細胞に障害となり得る細胞質酸性化が起きず、冠水条件での長期の生存が可能であると考えられた。

 イネでは冠水耐性に関わる突然変異体が知られていないため、遺伝的調節機構については全く不明であった。本研究では、冠水条件下で発芽不良を示す突然変異体を同定し、冠水耐性に関与する遺伝子の機能解析を行った。変異原処理した後代のM2世代およびM3世代の種子を用いて、冠水条件で播種したときは不発芽または生育不良を示すが、好気条件では正常に発芽する系統を選抜した。その結果、6系統の単因子劣性の突然変異体が得られた。それらの冠水条件での発芽特性や解糖系の酵素活性は互いに異なっていた。そのうち1系統(92K-2S-40)はADH活性が低下した突然変異体であった。92K-2S-40では主に根に弱いADH活性があり、そのアイソザイムも野生型と異なるパターンを示したため、複数のAdh遺伝子の発現が影響を受けていると考えられた。また92K-2S-40の冠水発芽種子ではエタノール量は増加せず、フルクトース1.6ニリン酸の蓄積、グルコース量の低下がみられ、これらはATP合成能の低下を防ぐ調節とも考えられた。

 以上、本論文は、イネの冠水耐性の生理学的機構を詳細に明らかにするとともに、その遺伝的調節機構解明の端緒を切り拓いたものであり、応用上のみならず学術上も価値が高い。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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