本論文はイネの塩ストレス応答に関する新知見を含んでおり、オリジナリティの高い内容である。論文の内容は以下の通りである。 塩ストレスは作物の生育にとって有害であり、長年にわたり研究が進められてきた。耐塩性イネの育種はこの意味からも重要視されているが、有効な遺伝学的解決法は今のところ知られていないのが現状である。その背景としては、塩ストレスがイネに及ばす生化学的、ならびに細胞生物学的研究の立ち遅れにもよるものと思われる。 本研究では、第1章において発生生物学的観点からイネの通気組織形成に及ぼす塩の効果を解析した。通気組織はイネ個体にとって酸素の供給組織として重要である。すなわち、地上部より地下部へ空気を送り込み、水中の根の生育を助ける役割を有している。サマラジーワ君は、本研究において、塩処理されたイネの根では通気組織の形成が著しく阻害されることを見出した。そこで、根における通気組織形成の機構を組織学的に明らかにすることをまず試みた。その為、根子根を用いて根端から上位部の切片像を作成し、皮層細胞における通気組織の占める比率を計測した。その結果、通気組織は細胞分裂から伸長生長期を過ぎた上位の皮層細胞層において、より顕著に発達することが判明した。経時的発達を調べたところ、発芽後12時間後に皮層細胞の中心部からの細胞崩壊が認められ、以後、時間の進行に伴って崩壊部位が拡大することが明らかになった。いわゆる皮層細胞死は発芽後12時間後に誘導がかかることから、皮層内細胞の細胞死は厳密な時間的ブラグラムのもとに制御されていると考えられた。また、通気組織の形成時に崩壊する皮層中心部の数細胞は、細胞崩壊に先だち急激に細胞巾を増していることが細胞長の計測により示され、細胞死と何らかの関係が有ることが示唆された。 次に、塩(1%NaCl)処理した根においては細胞死そのものが遅延し、発芽後60時間目にようやく空隙が現れた。そこで塩ストレスが根の細胞分裂・伸長に及ぼす効果を異なるステージの種子根を用いて調べた。その結果、塩は根の細胞分裂を阻害するが伸長成長には影響を与えないことが明らかになった。そして、塩処理された細胞では最終的な細胞長(縦、横ともに)に変化は認められなかった。以上の結果は、塩処理下の根における細胞分裂の阻害が皮層細胞死の阻害と何らかの関係を有することを示しており興味深い。なお、エバンスプルーを用いることにより、塩処理された細胞は死細胞化していないことも示された。 本研究により皮層細胞の死のプログラムに塩ストレスが阻害的に働き、その結果、通気細胞形成の遅延、酸素欠乏による生育阻害を起こすというモデルが提唱された。 さらに、エネルギーのホメオスタシスの鍵酵素であるアデニレートキナーゼの発現消長について、生化学的に解析した。本酵素は分子量2万7千ダルトンのモノマーとして働き、アデニンヌクレオチド(ATP、ADP、AMP)のバランスを維持しており、主として細胞質に存在している。組織レベルでは、通常は維管束組織に多量に存在していることが確かめられている。本タンパク質を特異的に認識する抗体を用いた解析は、塩処理されたイネの根において本酵素タンパク質が大量に存在していることを示した。すなわち、5日間異なった塩濃度(0、0.1、0.3、0.5%NaCl溶液)で育てたイネの芽生えをシュートと根に分けサンプリングを行った。これらをSDS-PAGE電気泳動に供し、ウェスタンプロット解析を行った。その結果、アデニレートキナーゼタンパク質はシュートにおいては弱い発現上昇しか示さないが、根においては0.5%NaCl溶液で処理した場合に非常に高い発現を示した。更にアデニレートキナーゼの酵素活性を、ピルベートキナーゼ、及びラクテートデヒドロゲナーゼをカップリングさせ、分光光度計を用いて計測した結果、ウェスタン解析と同様、根における活性上昇が検出された。また、塩処理による根でのアデニレートキナーゼ活性上昇は、根の基部と先端部で同様に検出された。さらに、本酵素の塩処理下での発現を塩ストレス耐性品種、感受性品種を用いて調べた結果、アデニレートキナーゼの発現上昇は耐塩性イネ品種には見られず、塩感受性品種に認められた。また、維管束細胞以外にも皮層細胞において発現が上昇することが、抗-アデニレートキナーゼ抗体を用いたティッシュプリント解析により明らかになった。 これらの結果は、植物の塩への適応性に代謝上必須な酵素が関与している可能性を示すものである。 以上、本研究により、塩ストレスがイネ種子根の皮層細胞の死の阻害、ならびにエネルギー・ホメオスタシス系酵素の発現誘導に関与するという新知見が得られた。 よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。 |