学位論文要旨



No 111916
著者(漢字) 中井,雄治
著者(英字)
著者(カナ) ナカイ,ユウジ
標題(和) 牛肉の解凍熟成に関する食品学的・酵素学的研究
標題(洋) Conditioning of Beef after Freeze-Thaw Treatment:Studies from the Aspect of Food Science
報告番号 111916
報告番号 甲11916
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1632号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,綜一
 東京大学 教授 中村,厚三
 東京大学 教授 野口,忠
 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 助教授 清水,誠
内容要旨

 食肉は栄養的・嗜好的に優れた食品であり、わが国の食生活の欧米化によって、現在では最も一般的な食品のひとつとなっている。食肉は屠殺後すぐに食用に供されることはほとんどなく、ある一定期間低温に貯蔵された後に食用となる。この過程を「熟成」といい、この間に肉質の軟化、風味の向上といった食肉として好ましい変化が起こる。特に牛肉は、他の畜肉と異なり死後硬直が著しく、長時間の熟成を要することが知られており、その熟成管理は牛肉の品質に関わる重要な因子である。

 1990年に牛肉の輸入が自由化されて以来、海外からわが国に大量の凍結牛肉が輸入されるようになった。しかし、凍結輸入牛肉は国産牛肉に比べてやや味が劣るといわれている。その原因のひとつとして考えられるのが、熟成管理の問題である。従来の非凍結牛肉の熟成に関しては非常に多くの研究がなされてきたが、凍結処理を施した牛肉の解凍後の熟成に関する研究はほとんどなく、熟成という現象が凍結処理によってどのような影響を受けるかについては明らかとなっていない。また、凍結輸入牛肉が凍結前にどの程度熟成されているかを知る手段は確立されていないため、解凍後の熟成管理のために凍結牛肉・非凍結牛肉両者に共通の熟成の指標を見いだすことも必要となる。

 こうした背景から、本研究では熟成中に起こる主要な生化学的変化として食肉蛋白質のプロテオリシスに着目し、凍結牛肉を解凍した後に熟成した場合のプロテオリシスが凍結処理によりどのような影響を受けるかについて検討し、さらにその原因の解析を行った。また、同時に凍結牛肉・非凍結牛肉に共通な熟成の指標となり得るペプチドについて検討した。

1.凍結処理が牛肉の解凍後熟成に及ぼす影響

 凍結処理牛肉を解凍後4℃に貯蔵し、経時的に筋漿蛋白質・筋原線維蛋白質を調製し、蛋白質のパターンの変化をSDS-PAGEで解析した。その結果、凍結肉においても蛋白質の分解が認められ、解凍後に熟成が進行していると判断された。また、凍結肉・非凍結肉の両者に共通する熟成の指標を検索する目的で、熟成に伴って肉中に蓄積してくるペプチドを逆相HPLCによって分析した結果、APPPPAEVPEVHEEVという配列の15アミノ酸残基からなるペプチドが見いだされた。このペプチドはホモロジー検索の結果、トロボニンT由来であることが推定された。

 さらに、凍結処理牛肉の解凍後の遊離アミノ酸およびペプチドの増加量の変化を測定した結果、凍結肉では非凍結肉に比べ、遊離アミノ酸およびペプチドの生成速度が増大し、特にペプチドの増加が顕著であることが明らかとなった。実際、凍結肉の解凍後熟成中のアミノペプチダーゼ活性の変化を調べた結果、凍結・非凍結処理のみならず、熟成期間によっても活性にほとんど変化はなかった。

 以上の結果より、凍結処理牛肉の解凍後熟成中のプロテオリシスにおいては、エンドペプチダーゼの寄与が大きいことが示唆された。

2.凍結処理牛肉の解凍後熟成に大きく寄与するカテプシンの検索

 食肉の熟成において主として働くエンドペプチダーゼにはカテプシンB、H、L、カルパインが知られている。しかし、牛肉は熟成中に低いpHに長期間置かれることとなるため、中性付近に至適pHを持つカルパインよりも、より酸性側に至適pHを持つカテプシンの働きが重要であると考えられる。しかし、カテプシンB、H、Lのうちいずれが最も熟成に寄与しているかという知見はまだない。

 そこで、カテプシンBに特異的な阻害剤であるCA-074を、牛骨格筋から抽出した粗カテプシンに加えたところ、活性がほとんど抑えられた。ただし、粗抽出物には内在性のシスタチンが存在し、活性の評価が正しくできていない可能性がある。そこで、さらに粗カテプシンをSephadexG-75にかけて得た画分にCA-074を加え、活性を測定したところ、カテプシンL活性のピークとカテプシンB活性のピークが分離され、カテプシンBの活性が非常に大きいことが判明した。

 さらに、牛骨格筋ホモジネートをCA-074存在下・非存在下において、4℃で10日間貯蔵し、5%トリクロロ酢酸可溶性画分を逆相HPLCで分析した結果、カテプシンBの阻害により、筋原線維蛋白質であるアクチン由来のペプチドフラグメントの生成が抑制され、アクチンの切断にカテプシンBが関与していることが明らかとなった。

 また、粗精製したカテプシンB、H、Lを凍結したときの活性の変化を調べた結果、カテプシンLのみがやや不安定であることが明らかとなった。

 以上の結果より、凍結牛肉の解凍後熟成においては、カテプシンBが非常に重要な役割を果たしていると考えられた。

3.牛骨格筋からのカテプシンBの精製および凍結処理筋肉蛋白質に対する作用

 凍結処理牛肉において解凍後のプロテオリシスの促進がみられる原因について、二つの可能性が考えられた。一つは凍結処理により筋肉蛋白質が変性を起こし、プロテアーゼの作用を受けやすくなるということ、もう一つは凍結処理によってリソゾームが破壊され、内部の酵素が漏出することで基質と接触する機会が増大し、結果としてプロテオリシスが促進されるということである。そこで以下の実験を行った。

 凍結処理牛肉の熟成で重要であると考えられるカテプシンBの精製を牛骨格筋から行なった。屠殺後1日冷蔵した牛骨格筋を挽肉にした後、2倍量の15mM HCl-3%NaClを加え、粗カテプシンを調製した。この25-65%硫安飽和画分をSephadex G-75カラムにかけた後、活性画分をP-cellulose、DE-52、Sephadex G-75の各カラムに順次かけることにより比活性が約500倍となり、活性として単一な酵素が得られた。この精製カテプシンBを非凍結牛肉から調製した筋原線維を凍結したものに加え、37℃、24時間反応させた後、生じたオリゴペプチドの量を調べた。その結果、筋原線維が凍結処理によってカテプシンの作用を受けやすくなるわけではないことが明らかとなり、第一の可能性は否定された。

4.凍結処理によるリソゾーム酵素の局在性の変化

 基質側の凍結変性が解凍後のプロテオリシス促進の原因ではないことが明らかになったので、第二の可能性として、リソゾームが凍結処理によって破壊されているか否かを検討した。まず、牛骨格筋を-50℃で1日凍結したものと、非凍結のものとについて、解凍直後および熟成中に生じるドリップ量と、ドリップ中のリソゾーム酵素活性を測定した。その結果、凍結肉では、ドリップ量・酵素活性共に非凍結肉よりも有意に高い値を示した。このことから、凍結処理によってリソゾームが破壊されていることが示唆された。

 さらに凍結肉・非凍結肉それぞれを固定した後、切片を作製し、カテプシンBに対する抗体で組織染色を行った。その結果、非凍結肉では染色される細胞がほとんど認められないのに対し、凍結肉では非凍結肉よりも組織が崩れており、一部の細胞が染色されることが認められた。従って、凍結処理によってカテプシンBの局在性に変化が起こることが示唆された。

まとめ

 1)牛肉を凍結処理しても、解凍後に熟成が進行することが明らかとなり、凍結肉・非凍結肉共通の熟成の指標になり得るペプチドが見いだされた。また、凍結処理することにより、解凍後のプロテオリシスが促進されることが明らかとなり、その際ペプチドの増加量が遊離アミノ酸の増加量に比べて顕著であるため、エンドプロテアーゼの関与が大きいことが示唆された。

 2)牛肉中ではカテプシンB、H、Lのうち、カテプシンBが最も大きな活性を有していることが明らかとなった。また、筋肉中でのアクチンの切断にカテプシンBが関与していることが明らかとなった。

 3)凍結処理による解凍後プロテオリシスの促進は、凍結変性によって筋原線維蛋白質がプロテアーゼの作用を受けやすくなっていることが原因ではないことが明らかとなった。

 4)凍結処理によってリソゾームが破壊され、内部の酵素の漏出により基質蛋白質とリソゾーム酵素との接触の機会が増大することが、解凍後のプロテオリシスの促進の原因であることが示唆された。

審査要旨

 本論文は凍結輸入牛肉が国産牛肉に比べてやや味が劣るといわれている原因として考えられる、凍結処理が解凍後の熟成に及ぼす影響に関する論文で、4章から構成されている。著者は従来ほとんど研究がなされていなかった凍結処理牛肉の解凍後の熟成について、生化学的変化であるプロテオリシスに着目し、牛肉の凍結-解凍後の適切な熟成管理を目的として以下の研究を行なった。

 序論で本研究の背景や意義を概説した後、第1章では、牛肉の凍結処理が解凍後の熟成にいかなる影響を及ぼすか、現象について述べている。

 まず、凍結処理による物性の変化として、凍結牛肉の解凍後の硬さの変化を調べ、解凍後でも初期の段階では熟成に伴う軟化が起こることを明らかにするとともに、さらに熟成すると水分を失って逆に硬くなる傾向があることを明らかにした。このことから凍結牛肉を非凍結肉と同程度の期間熟成することはテクスチャーの面から考えて不利であり、これが凍結牛肉の味が劣る原因の一つになっている可能性を指摘している。

 次に、呈味性と密接に関係すると考えられている熟成中に起こる筋肉蛋白質のプロテオリシスについて、SDS-PAGEおよびアミノ酸分析によって解析している。そして、凍結処理によって解凍後のプロテオリシスが促進されることを明らかにした。

 さらに、凍結肉・非凍結肉に共通する熟度指標として、熟成中に牛肉中に蓄積するペプチドを新しい候補として提唱し、その一つの例としてAPPPPAEVPEVHEEVという15アミノ酸残基からなるペプチドを単離し、凍結肉のプロフィールを知るための実用性について述べている。

 第2章では、第1章の結果で解凍後のプロテオリシスの促進が認められた際にペプチドの増加量が顕著であったことを受けて、解凍後のプロテオリシスにおいて大きく寄与していると考えられるエンドペプチダーゼの検索を行なった。牛肉が他の畜肉に比べて長期の熟成期間を要し、低pHにさらされる期間も長くなることから、酸性側に至適pHを持つカテプシン群に限定して検索している。

 カテプシンBに特異的な阻害剤であるCA-074を利用し、牛肉中でカテプシンBが大きな活性を持っていることを明らかにし、凍結処理に対しても安定であることから解凍後の熟成においてカテプシンBの寄与が大であると結論している。

 さらに、ホモジネートを4℃で貯蔵中の自己分解中に生成するオリゴペプチドを逆相HPLCで分析し、CA-074を作用させてカテプシンBを阻害した際に顕著に減少するピークについてアミノ酸配列の分析を行ない、アクチンの分解にカテプシンBが関与していることを明らかにした。

 第3章・第4章では、解凍後のプロテオリシスが促進される原因として、筋原線維が凍結変性することにより、プロテアーゼの作用を受けやすくなるという可能性と、凍結処理によって破壊されたリソゾームからの酵素の漏出が原因であるという2つの可能性を挙げ、それぞれについて解明している。

 第3章では、凍結処理牛肉の熟成のモデル系として、牛骨格筋から精製したカテプシンBを凍結処理した筋原線維に作用させている。酵素反応によって可溶化してくるオリゴペプチドを定量した結果、筋原線維は凍結変性してもプロテアーゼの作用を受けやすくなるわけではないことを明らかにした。

 第4章ではまず、筋肉内部の状態を反映していると考えられるドリップ中のリソゾーム酵素活性を調べ、凍結牛肉から生じたドリップ中に高いリソゾーム酵素活性が認められたことから、凍結処理によりリソゾームが破壊されていることを示し、次に筋肉組織切片をリソゾーム酵素の一つであるカテプシンBに対する抗体を用いて染色し、凍結処理によってリソゾーム酵素の局在性に変化が生じることを明らかにした。これらの結果より、解凍後のプロテオリシスの促進は凍結処理によるリソゾームの崩壊が原因であると結論している。

 以上、本論文は凍結輸入牛肉の品質管理上重要である解凍後の熟成について食品学的・酵素学的に解明し、熟度指標としてのペプチドの提唱や牛肉の熟成の短期化の可能性を見いだすなど、学術的にも、応用的にも貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク