学位論文要旨



No 111917
著者(漢字) 伊藤,芳明
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヨシアキ
標題(和) cAMP情報伝達経路とインスリン情報伝達経路の相互作用に関する研究
標題(洋)
報告番号 111917
報告番号 甲11917
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1633号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野口,忠
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 飴谷,章夫
 東京大学 助教授 日高,智美
内容要旨

 動物の成長や恒常性は多くのホルモンによって制御されていることが知られているが、このうち、同化作用に重要な役割を果たしているホルモンとして、インスリンとインスリン様成長因子I(IGF-I)がある。このうち、IGF-Iはその生理作用は単独では弱く、他のホルモンとの相互作用により増強されることが報告されており、その生理作用発現において他のホルモンとの相互作用の重要性が指摘されていた。インスリンについても生体の恒常性を他のホルモンとのバランスで維持していることは良く知られているが、その分子的機構については未だ不明な点が多く、生体におけるインスリンの生理的意義を知る上で、他のホルモンとの相互作用機構を解明することは極めて重要である。

 近年の細胞内情報伝達研究の進展により、インスリンの生理作用発現機構が急速に明らかにされてきた。インスリンの生理作用は受容体チロシンキナーゼの活性化とinsulin receptor substrate-1(IRS-1)をはじめとする細胞内基質のチロシンリン酸化に始まるリン酸化カスケードを介して引き起こされる。さらにチロシンリン酸化されたIRS-1と他のシグナル分子(例えばphosphatidylinositol 3-kinase(PI3K)等)とのタンパク間相互作用を介して、下流に情報が伝えられ、生理作用が発現されることが明らかになった。このようにインスリンの細胞内情報伝達は多くの段階を経るため、各段階における他のホルモンとの相互作用を明らかにすることはインスリンの生理作用発現機構の解明に繋がるものと考えられる。

 本研究ではin vivoのインスリンの主要な標的器官であり、かつ主要な代謝器官である肝臓を用いて、種々のホルモンとの相互作用が予想される絶食状態においてインスリンに対する応答性の変化を明らかにし、さらにそのモデルとして初代培養肝細胞を用いて、その相互作用機構の解明とインスリン生理応答に対する影響の解析を行った。

1.ラット肝臓においてインスリンにより誘導されるタンパク質チロシンリン酸化

 これまでにin vivo系における細胞内情報伝達について検討した例は数少ない。そこで、本論文では絶食状態におけるインスリン刺激による初期応答あるいは食餌摂取に伴い分泌される生理的濃度のインスリン刺激に応答するチロシンリン酸化について検討した。

 絶食0,24,48,72時間後にラットを麻酔後開腹し、肝門脈よりインスリン溶液(1.4U)を注入した。注入30秒後に、肝臓を取得し、インスリン受容体(IR)、IRS-1の特異的抗体を用いて免疫沈降し、抗ホスホチロシン抗体、抗PI3K抗体を用いたイムノブロット分析を行った。その結果、インスリン非注入群で0時間にIRS-1のチロシンリン酸化、IRS-1と結合したPI3Kの存在が認められたが、いずれも絶食条件下ではほぼ消失した。この変化は血中インスリン濃度を反映した結果と考えられた。一方、インスリン注入群ではIRの自己リン酸化量、IRS-1のチロシンリン酸化量はいずれも絶食で増加した。絶食後、時間の経過に拘わらず、IRの自己リン酸化量はほぼ一定であったのに対し、IRS-1のチロシンリン酸化量は時間経過に伴い上昇した。このとき、IRS-1のタンパク量に変化がないことから、絶食時にIRS-1のチロシンリン酸化量を増加させる機構が存在していると考えられた。また、180kDa付近に抗IRS-1抗体で免疫沈降されない分子種(p195)の存在が認められた。この分子のチロシンリン酸化量は絶食時間の経過に伴い増加が観察された。このことはインスリン作用がIRS-1のみならず、この分子を介して引き起こされている可能性を示している。

 次にインスリン注入時に認められた細胞内チロシンリン酸化が、摂食に伴って分泌される生理的濃度のインスリンにより、どの様に変化するかを検討した。22時間絶食条件下においたラットに再給餌し、0.45分,1.5,3.8時間経過後、屠殺し同様な分析に供した。その結果、IRの自己リン酸化量は微弱であったが、IRS-1のチロシンリン酸化量は再給餌後3時間で最大に達し、以降8時間まで高く保たれていた。IRS-1と結合したPI3K量もほぼ同様な変化を示した。この際、p195のチロシンリン酸化は検出されなかった。これらの変化は血中インスリン濃度を良く反映していることが明らかとなった。

 以上の結果から、絶食時間の経過に伴い、インスリンに応答したIRS-1およびp195のチロシンリン酸化を介したシグナル伝達が増強されることが明らかとなった。この増強効果の要因に絶食時に分泌される他のホルモンとインスリンとの相互作用が考えられた。このように血中濃度からは評価できない細胞内の変化に基づく応答性の変化あるいは標的器官各々のインスリン応答を細胞内リン酸化応答の変化から評価できると考えられた。

2.培養細胞のタンパク質チロシンリン酸化における種々のホルモンとインスリンの相互作用

 絶食時に認められた様々な現象はどのようなホルモンとインスリンの相互作用であるかを検索する目的で、生体の肝機能の多くを維持している初代培養肝細胞を用いて、種々のホルモンあるいは薬剤処理がインスリンで誘導されるチロシンリン酸化に与える影響を検討した。肝細胞をBt2cAMP、グルカゴン、デキサメタゾン、T3、TPAで6時間処理後、インスリン刺激30秒後のチロシンリン酸化を観察した。その結果、インスリン刺激で3種のタンパク質(IR,IRS-1,p195)のチロシンリン酸化が認められ、Bt2cAMP、グルカゴン、デキサメタゾン処理でp195およびIRS-1を含む180kDa付近のチロシンリン酸化量が増加した。

 特にcAMP経路を活性化するBt2cAMPおよびグルカゴン処理において、p195のチロシンリン酸化量に著増が認められた。以上の結果から、cAMP経路とインスリン経路との間に相互作用が存在し、p195のチロシンリン酸化を増強すると考えられた。この相互作用は、ヒト肝癌由来細胞HuH-7においても再現され、またインスリン、IGF-1の共通な標的器官である筋肉の性質を良く保持するL6 myotubeにおいてIGF-1刺激に応答したチロシンリン酸化量に増加がみられた。このことはcAMP経路とインスリン経路の相互作用がインスリン/IGF-Iの標的器官において普遍的に起こりうることを示している。

 次にIR,IRS-1,p195のインスリンに対する応答性をさらに詳細に検討した。いずれのチロシンリン酸化量もインスリン刺激30秒以内という短時間で最大に達し、10-7Mまでインスリンの濃度依存的な上昇を示した。p195はIRS-1と同様な挙動をしたことから、インスリン受容体チロシンキナーゼの新たな基質であると結論した。この際、cAMP経路の活性化は180kDa付近のチロシンリン酸化量を増強したが、インスリンに対する感受性には影響を与えなかった。さらにこのチロシンリン酸化の増強はcAMP経路の活性化後3時間以上で顕著に認められること、cAMP経路を活性化する薬剤あるいはホルモンに濃度依存的であることが明らかとなった。

3.cAMP情報伝達経路とインスリン情報伝達の相互作用機構の解析

 p195のチロシンリン酸化の相乗的増加は1)受容体キナーゼレベル、2)基質レベル、3)チロシンホスファターゼレベル、で引き起こされる可能性が考えられたので、順に検討を加えた。

 cAMP経路の活性化はインスリンレセプターの数・親和性、自己リン酸化量に影響を与えなかった。インスリン刺激後WGA-agaroseで部分精製したレセプターのin vitroにおけるチロシンキナーゼ活性は、cAMP経路の刺激により若干抑制されていた。次に、基質におよぼす影響について検討した。cAMP経路の活性化はIRS-1のタンパク質量に変化を与えず、受容体チロシンキナーゼ活性の変動に応じたチロシンリン酸化量の減少を認めた。一方、p195のチロシンリン酸化量はcAMP経路の活性化により顕著な増加が観察された。また、IRS-1をimmunodepleteした画分を抗ホスホチロシン抗体で免疫沈降し、得られた免疫沈降物中に存在するPI3K量を観察したところ、p195のチロシンリン酸化と同様な挙動を示した。このことはp195がIRS-1と同様にチロシンリン酸化を介してPI3Kと会合する可能性を示唆している。以上から、IRS-1とp195が良く似た分子種でありながら、そのチロシンリン酸化がcAMP経路の刺激により異なる制御を受けている可能性が考えられた。cAMP経路刺激によりIRのチロシンキナーゼ活性の低下にも拘わらず、p195のチロシンリン酸化は増加した。この原因を解明するために阻害剤を用いた解析を行った。チロシンホスファターゼの阻害剤であるバナジン酸はインスリン刺激に応答したIR,IRS-1,p195のチロシンリン酸化を増強し、特にp195において顕著であった。このとき、cAMP経路の活性化した場合には、バナジン酸を添加してもp195のチロシンリン酸化は大きな上昇を示さなかった。タンパク質合成阻害剤であるシクロヘキシミドはIR,IRS-1,p195のチロシンリン酸化を減少させたが、特にp195のチロシンリン酸化に著しい抑制効果が認められた。以上の結果からcAMP経路の活性化によるp195のチロシンリン酸化の増強には、p195に特異的なチロシンホスファターゼの抑制あるいはp195自身の増加が関与していると結論した。

4.cAMP情報伝達経路刺激によるインスリン依存性生理応答の変化

 最後に、初代培養肝細胞を用いて、cAMP経路刺激がインスリンに誘導される種々の生理作用に与える影響について検討した。その結果、肝細胞での糖の取り込みは細胞内外の糖濃度に依存することが知られており、今回もやはりインスリン刺激は有意な上昇を引き起こさなかった。この際、cAMP経路刺激は影響を与えなかった。アミノ酸取り込みはcAMP経路刺激単独で上昇が観察され、インスリンの効果はBt2cAMP処理では抑制されていたが、グルカゴン処理ではほぼ相加的であった。グリコーゲン合成はcAMP経路刺激単独で上昇し、特にグルカゴン処理で著しかった。この際、インスリンに対する応答性は抑制されていた。これは、IRS-1のチロシンリン酸化量の減少と良く相関していたことから、インスリン作用のうち、グリコーゲン合成が主にIRS-1を介している可能性が考えられた。インスリンにより誘導されるタンパク質合成にcAMP経路の活性化は影響を与えなかった。これらに対して、DNA合成には顕著な増加が認められた。さらにBt2cAMP、グルカゴンの処理濃度に依存して、その後のインスリンで誘導されるDNA合成量の上昇が認められた。しかしながら、この増強効果は上皮成長因子で誘導されるDNA合成には観察されなかったことから、cAMP経路の活性化はインスリンの増殖作用発現に特異的に影響を与えていることが明らかとなった。この増強効果にp195を介したシグナル伝達が関与していると推定された。

総括

 生体の肝臓において、絶食により、その後のインスリン刺激によるチロシンリン酸化応答に変化が生じていることを示し、新たなインスリン受容体チロシンキナーゼの基質p195の存在を明らかにした。初代培養肝細胞を用いた解析から、cAMP経路の活性化により、インスリン刺激に応答したp195のチロシンリン酸化量が増強されることを明らかにし、その増強機構にはcAMP経路の活性化によるチロシンホスファターゼの抑制あるいはp195自身のde novo合成の関与が示唆された。さらにIRS-1,p195のチロシンリン酸化量に相関して、グリコーゲン合成は抑制され、増殖作用が増強されたことから前者の生理作用はIRS-1を介し、後者にはp195を介したシグナル伝達が重要であると考えられた。以上のように、cAMP経路とインスリン経路の相互作用がチロシンリン酸化の段階で起こることを証明し、かつ、cAMP経路との相互作用がインスリン/IGF-I両経路に共通して認められたことから、この相互作用が普遍的な現象であることが示された。

審査要旨

 本研究は、生体のインスリンの主要な標的器官であり、かつ主要な代謝器官である肝臓を用いて、インスリンと種々のホルモンとの相互作用を明らかにし、さらに初代培養肝細胞を用いて、この相互作用機構を解明しようとしたもので、論文は緒言とそれに続く4章よりなる。

 緒言では研究の背景を論じた。第1章では、絶食状態におけるインスリン刺激による初期応答あるいは食餌摂取に伴い分泌される生理的濃度のインスリン刺激に応答するチロシンリン酸化について検討した。絶食0、24、48、72時間後にラット肝門脈よりインスリン溶液(1.4U)を注入し、30秒後に肝臓を取得し、インスリン受容体(IR)、IRS-1の特異的抗体を用いて免疫沈降し、抗ホスホチロシン抗体、抗ホスファチジルイノシトール三リン酸キナーゼ(PI3K)抗体を用いたイムノプロット分析を行った。その結果、インスリン非注入群では0時間にIRS-1のチロシンリン酸化、IRS-1と結合したPI3Kの存在が認めれたが、これらは絶食条件下ではほぼ消失していた。一方、インスリン注入群ではIRの自己リン酸化量、IRS-1のチロシンリン酸化量はいずれも絶食で増加していた。また、180kDa付近に抗IRS-1抗体で免疫沈降されない分子種(p195)の存在が認められた。次にこれらの細胞内チロシンリン酸化が、摂食に伴って分泌される生理的濃度のインスリンによってどのような応答を示すかを検討した。22時間絶食条件後のラットに再給餌し、0、45分、1.5、3、8時間後に屠殺して同様な分析に供したところ、IRの自己リン酸化量は微弱であったが、IRS-1のチロシンリン酸化量は再給餌後3時間で最大に達し、以降8時間まで高く保れた。一方p195のチロシンリン酸化は検出されなかった。

 以上より、絶食時間の経過に伴い、インスリンに応答したIRS-1およびp195のチロシンリン酸化を介したシグナル伝達が増強されることが明らかとなった。

 第2章では、生体の肝機能の多くを維持している初代培養肝細胞を用いてインスリンと種々のホルモンとの相互作用の検討を行った。肝細胞をBt2cAMP、グルカゴン、デキサメタゾン、T3、TPAで6時間処理後、インスリン刺激を行い30秒後のチロシンリン酸化を観察した結果、インスリン刺激で3種のタンパク質(IR、IRS-1、p195)のチロシンリン酸化が認められ、Bt2cAMP、グルカゴン、デキサメタゾン処理でp195およびIRS-1を含む180kDa付近のチロシンリン酸化量が増加した。従ってcAMP経路とインスリン経路との間に相互作用が存在し、p195のチロシンリン酸化を増強すると考えられた。p195はIRS-1と同様な挙動をしたことから、インスリン受容体チロシンキナーゼの新たな基質であると結論した。

 第3章では、p195のチロシンリン酸化の相乗的増加の要因を検討した。cAMP経路の活性化によりインスリンレセプター数・親和性、自己リン酸化量は変化せず、レセプターのチロシンキナーゼ活性は若干抑制された。一方IRS-1のタンパク質量は変化せず、受容体チロシンキナーゼ活性の変動に応じたリン酸化量の減少が認められた。またp195のチロシンリン酸化量は顕著に増加した。従ってIRS-1とp195はよく似た分子種でありながら、そのチロシンリン酸化がcAMP経路の刺激により異なる制御を受けていると考えられた。阻害剤を用いた解析結果からcAMP経路の活性化によるp195のチロシンリン酸化増強には、p195に特異的なチロシンホスファターゼの抑制あるいはp195自身の増加が関与していることが明らかとなった。

 第4章では、初代培養肝細胞を用いて、cAMP経路刺激がインスリンにより誘導される生理作用に与える影響を検討した。糖の取り込みはインスリン刺激により上昇しなかった。アミノ酸取り込みは、cAMP経路刺激単独で上昇し、インスリンの効果はBt2cAMP処理では抑制されたが、グルカゴン処理ではほぼ相加的であった。グリコーゲン合成はcAMP経路刺激単独で上昇したが、この際のインスリンの効果は抑制された。また、調べた作用の中でもとりわけインスリンにより誘導されるDNA合成はcAMP経路の活性化によって顕著に増加した。この増強効果にp195を介したシグナル伝達が関与していると推定された。

 以上要するに本論文は、cAMP経路とインスリン経路の情報伝達における相互作用をラットin vivo系及び初代培養肝細胞系を用いて詳細に解析し、この相互作用がインスリンの生理作用発現に重要な役割を担っていることを明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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