熱帯地域の森林は近年加速度的に伐採されている。熱帯林の伐採は地表面の蒸発散環境および雨水の浸透環境を著しく変化させ、洪水の激化、土砂流出の増大といった問題を引き起こしている。一方、大規模な植生変化は広域の熱環境を変化させ、その影響は大気大循環に及ぶといわれており、陸域生態系の中心である熱帯林の伐採は、地球規模の水循環にも変化を与える可能性がある。また熱帯林の生理や養分循環において、雨水および土壌水の果たしている役割は極めて重要であり、熱帯林の養分循環や再生過程を明らかにし、持続可能な森林管理を実現するための基本的な情報として、熱帯林の水文特性を知ることは必要不可欠である。このように熱帯林の水文特性を正確に把握することは緊急かつ重要な課題であるが、熱帯林の水文研究は日本では未だ緒についたばかりである。日本人が熱帯林内で直接、長期間観測を行なった研究はわずかで、それらも対象とした地域の観測報告にとどまっている。また熱帯林の水収支についての研究を統一的に整理した例は日本になく、熱帯林内で生起する樹冠遮断、蒸散、斜面流出などの水文過程に関する研究も整理されていない。 このような背景を踏まえ、本論文は世界の熱帯林で行われてきた水収支及び水文過程の特性を整理すると同時に、マレイシアの熱帯林で観測されたデータを解析し、日本の森林の水文特性と比較検討することにより、熱帯林の水文特性を明らかにし、熱帯林の伐採が水文特性に与える影響を評価することを目的としている。本論文で解析の対象としたデータは、著者自らマレイシア・サバ州森林研究所に2年3ヶ月間在職し、熱帯林内にのべ100日以上滞在して行なった正確かつ連続的な観測に基づいている。 本論文は全7章より構成されている。第1章では研究の目的と意義について述べた。 第2章では熱帯の定義および地域区分に触れた後、世界の34地点64流域における熱帯林水収支の観測結果を引用することにより、世界の熱帯林における水収支の特性を明らかにした。年平均降雨量は場所により大きな幅があり、それに比べて年平均蒸発散量の変動幅は小さい。長期間にわたる信頼できる水収支観測結果によると、天然林流域からの年蒸発散量は湿潤熱帯地域で1450mm〜1750mmの範囲に、高標高流域を除く亜湿・乾湿熱帯地域で1150mm〜1400mmの範囲に、それぞれ分布していた。湿潤熱帯地域における熱帯林の伐採が流域の水循環過程に及ぼす影響は極めて大きく、数ヶ月の乾季による蒸発抑制量に相当する蒸発散量の減少をもたらすものであることが示された。今後、亜湿・乾湿熱帯地域の乾季における蒸発抑制の研究、地球規模の気候変動に対応する流域水収支変動の長期モニタリング、植生更新後の水収支の経年変化を追跡する研究等を行なうことが重要であることを指摘した。 第3章では熱帯林において生起する、降雨から流出に至る水文過程に関する既往の研究を整理し、それを踏まえて自らの観測データを解析した結果について述べた。観測はボルネオ島北東部のマレイシア国サバ州に位置するサプルット、ウルカルンパン両試験地において行なった。サプルット試験地は59.4haの小流域からなり、地質は深層風化の進んだ新第三紀層、植生は天然の熱帯雨林であり、試験的な択伐が1988年に行なわれている。ウルカルンパン試験地は22.3haの小流域からなり、地質は第四紀の火山砕屑物、植生は皆伐後自然回復したマカランガ属の優占する森林である。水文過程は降雨、樹冠遮断、斜面水文、流出の4過程に分けて記述した。降雨の項では対象2試験地の降雨特性と日本の3地点における降雨特性とを比較解析した。マレイシアの降雨は日本の降雨に比べて、(1)降雨の降雨時間が少なく、そのため同じ雨量に対して、平均降雨強度が大きい(2)降雨イベント回数が多く、一雨平均降雨持続時間が短く、平均最大降雨強度が大きい(3)降雨量時系列は特徴的な日周変動特性をもち、その分布形は地域や季節によって異なるが、総じて午前中は小さく、午後2時から6時にかけて際立ったピークをもつ、非対称な分布である、といった特性をもっていることを示した。樹冠遮断の項では、信頼できる観測例は未だ不十分であることを指摘し、サプルットにおける樹冠通過雨量の観測結果を示した。斜面水文の項では、既往の飽和透水係数の観測結果を整理することにより、対象2試験地を含めた熱帯林斜面の水文特性を3種類に区分した後、地下水位とサクションの観測結果に基づき、斜面における雨水流動特性を明らかにした。流出の項では、(1)流出量の季節変動(2)基底流出量または基底流出の逓減率(3)大降雨時の直接流出、についての既往の研究事例を整理した後、対象2流域のハイドログラフおよび直接流出の特性について解析した。解析の結果、直接流出量、流出率は総降雨量とともに増大し、初期水分条件依存性は大きいこと、降雨開始から流出ピークまでの時間は降雨量の増大とともに短くなる傾向にあり、50mm以上の降雨に対してサプルットでは平均1.7時間、ウルカルンパンでは1.9時間であることがわかった。 第4章では熱帯林流域における水収支の推定法について検討を加えた。まず短期水収支法を対象2流域の降雨流出記録に適用することにより、この方法が熱帯湿潤地域の流域蒸発散量を推定する手法としても有効であることを示した。短期水収支法により推定された蒸発散量は降雨量の多いときに多くなる傾向を示すが、蒸発散量は降雨量よりも降雨日数と相関が高く、遮断蒸発の増大により多雨期の蒸発散量が増大した結果である可能性が高い。次いで新しい水収支推定法を提示し、これを「移動水収支法」と名付けた。この方法は熱帯湿潤地域の蒸発散量推定法として有効であると同時に、遮断蒸発量と蒸散量を分離して評価できる手法である。この方法により、対象流域の2年間の蒸発散量、遮断量、蒸散量が求められた。両流域の蒸発散量に対する遮断量、蒸散量の比は異なっており、植生条件の違いが影響していると考えられた。次に対象流域の貯留水量変動を、移動水収支法を用いて推定した。貯留水量の時系列変動は降雨変動に対応して、季節変化しながら年々変動しており、両流域の貯留水量変動幅の差は流域の地質条件の違いによって説明された。 第5章では対象2流域、および比較対象として日本の2流域の水循環過程を数値モデルで表現することにより、モデルの応答特性を解析し、熱帯林流域の水循環特性を日本の森林流域の水循環特性と比較検討した。水循環過程のモデル化に先立ち、素過程モデルとして樹冠遮断過程と短期流出過程を表現する新しいモデルを作成した。樹冠遮断モデルについては、モデルにマレイシアと日本の複数地点の降雨データを入力することにより、マレイシアと日本の降雨特性の違いが遮断蒸発過程・短期流出過程に及ぼす影響を明らかにした。短期流出モデルについては、モデルをマレイシアの2流域と日本の2流域に当てはめることにより、マレイシアと日本という地域の共通性がみられず、その一方でマレイシアと日本で基盤地質の共通な流域同士の短期流出の応答特性が極めて似ていることを見いだした。マレイシアと日本の降雨特性の違いが、この2流域の短期流出を特徴づけていることも分った。次に、この2つの素過程モデル、および有効雨雨算定モデルと蒸散のメカニズムを組み込んだ水循環モデルを新たに作成した。このモデルを用いると、各流域の蒸発散・流出成分をそれぞれ遮断蒸発・蒸散、直接流出・基底流出の各成分に分けることができる。これら4成分と流域貯留水量の変動を求め、4流域の比較を行った。さらに、モデルにマレイシアと日本で観測された降雨を入力することにより、それぞれの流域における成分分配の特性を解析し、降雨特性の違いの影響と基盤条件の違いの影響を別々に評価した。基盤地質の違いが流出特性に及ぼす影響は熱帯・日本を問わず大きいが、熱帯における降雨特性が蒸発散特性、流出特性に及ぼす影響も大きいことが強調された。熱帯林地域の山地小流域では風化が進んだラテライト土壌が卓越しているため、降雨の大部分が地面流として流出し、結果として流出変動が激しく土砂生産が盛んであるといわれるが、熱帯に特徴的な降雨パターンもその原因の一つであると考えられた。 第6章では熱帯林の伐採とそれに引き続く農地造成や植林が流域の水収支と流況に与える影響を水循環モデルを用いて評価した。伐採により年蒸発散量の減少がおこり、年流出量が増加することが熱帯林における対照流域試験によって実証されている。2通りの地表面状態を想定してモデル計算を行った結果、伐採直後の状態が続くと想定した場合、年流出量は527mm増加した。一方、伐採後木本植物による農地造成、または植林が行われて2〜3年が経過した状態を想定した場合、年流出量は伐採直後の状態に比べて減少したが、伐採前の流出量と比べるとなお130mm多かった。流況曲線を比較すると、伐採直後の流量は高水・低水流量全範囲にわたって増加し、農地造成・植林後は減少した。特に低水流量の減少が著しく、伐採前と比較して年流量が多いのにもかかわらず、第50日流量を境とした低水流量は伐採前の低水流量を下回った。今後、伐採の影響をより詳細に評価しようとする場合、植生の種類、密度、葉面積、植被高と蒸発散量との関係、地表面状態の変化とモデルパラメータの対応等に関する研究を行っていく必要があることを指摘した。 本研究により、世界の熱帯林における水収支及び水文過程に関する既往の研究が整理され、マレイシアの2流域における観測結果に基づいた解析により、熱帯林の基本的な水文特性が明らかになり、熱帯林の伐採が水文特性に与える影響の定量的評価も可能となったといえる。 |