学位論文要旨



No 111932
著者(漢字) 浅田,正彦
著者(英字)
著者(カナ) アサダ,マサヒコ
標題(和) 房総半島におけるニホンジカの生態学的特性
標題(洋)
報告番号 111932
報告番号 甲11932
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1648号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,公人
 東京大学 教授 樋口,廣芳
 東京大学 助教授 丹下,健
 東京大学 助教授 高槻,成紀
 東京大学 講師 久保田,耕平
内容要旨

 ニホンジカ(Cervus nippon)の個体および個体群属性における生態学的可塑性の理解のために,常緑広葉樹林帝に属する千葉県房総半島において,主に野外調査と個体解析を通じて,シカの生息分布や生息密度,森林植生への影響,食性,体サイズ,栄養状態,繁殖状況などを調査し,常緑樹林帯におけるニホンジカの生態学的特性を明らかにした.

 調査地域をシカの生息密度によって5つに分割した.AT地域は高密度地域で11%をマテバシイ植林地が占める.KG地域とKU地域はAT地域よりも密度が低い.KT地域とOT地域は分布域の前線部の低密度地域である.

 生息分布域を踏査と聞き取り調査で,生息密度を区画法によって調査した.1985年の推定分布面積は240km2であった.1992,1993年における密度分布をみると,海岸部のAT地域は30-40頭の高密度地域であり,内陸へ行くに従って低くなっていた.推定個体数の年変動において,増加途中(1980〜1992年)における増加率を求めると,瞬間増加率は0.199であった.

 森林内の下層植生に与える影響を調査するために,木本について現存量と採食率について追跡調査し,採食の時期,採食される樹種,さらに森林構造の変化について明らかにした.常緑樹林の森林内の低木層のほとんどはシカの食物であった.また,秋から冬にかけてシカの選択的採食が行われるために,嗜好種が除去されることによって利用可能量が低下することがわかった.

 胃内容分析によって食性の地域,性,齢クラスによる違い,年変化を調査した.春から夏にかけてスゲ類や木本の葉を採食し,秋には堅果類を,冬には堅果と常緑広葉樹の葉を採食していた.食性は本種の北方と南方の個体群の中間の特徴を示した.年変化をみると1991年以降食物条件が上昇傾向にあることがわかった.これは,駆除によって生息密度が減少したために,良好な食物を得ることができるようになったことを示唆する.

 食物の栄養価を調べるために,野外で採集した糞と捕獲個体の胃内容物の窒素含有率を分析した.夏・冬とも密度依存的に食物の質的低下がみられた.堅果はタンパク質含有率が相対的に低いものの,カロリー含有率は高く,良好なエネルギー源であると考えられた.

 体重や脂肪蓄積量の季節変動,性的二型の程度,成長パターンについて明かにした.房総半島の個体群は同一亜種のホンシュウジカの中でも小型であることが示された.オス成獣は秋に体重・脂肪蓄積ともに減少させ,初冬にはほとんど脂肪蓄積していなかった.オスの冬期の体重減少率は11.9%であった.メスは冬に脂肪蓄積を減少させたが,体重は年間を通じて一定であった.秋の脂肪蓄積量は北方の個体群よりも少ないことがわかった.これは冬期のエネルギー損失が少ないために秋に蓄積する必要がないためと考えられた.冬期の体重減少パターンにおいて,堅果生産量の多いAT地域のシカはKG地域やKU地域のシカよりも減少が少なかった.初期成長において,AT地域はKGKU地域よりも春から夏にかけて遅く成長し,秋から冬にかけて反対に速く成長した.AT地域の食物中のタンパク質含有率は他の地域よりも低いことを考慮すると,堅果の利用可能量の違いによるものと思われた.秋の体重は密度依存的に減少した.房総では北方と比較して冬期の成長停止期間は短く,これは秋から冬にかけて常緑樹の葉や堅果によって食物条件の低下が少ないことによると考えた.房総における秋までの低成長率は,早く受胎・出生することと成長期間の延長によって補完され,1才の発情期における相対体重が北方個体群と同様の値になる.メスの前年の妊娠のコストの回復はとくにAT地域で良くなかった.分布中央部におけるメス成獣の体重,脂肪蓄積量と幼獣のサイズは同じ変動を示し,1991,1992年にかけてサイズの小型化が見られ,その後回復した.この変動はこの地域での生息密度の変動と食物条件の変動と対応していた.

 妊娠率と受胎日の調査を行った.妊娠率は秋の体重と比例していた.生息密度の高いAT地域では若齢と壮齢の妊娠率が低くかった.これは密度依存的な食物条件の質的低下にともなう母獣の体重や栄養状態の低下によるものであった.幼成比は1991年まではAT地域とKT+OT地域の平均で1.03ときわめて高い価であり,KG+KU地域においても0.54と高かった.幼成比は生息密度,成獣メスの体重・脂肪蓄積量,幼獣のサイズと2年遅れて同調していた.

 以上の結果を踏まえ,房総半島におけろニホンジカの食物環境の特性を考察すると,房総では,1)年間の食物となるスゲ類や常緑広葉樹の葉がある一方で,季節的な食物である堅果や草本,落葉樹の葉がある.季節的に食物項目毎にシカにとっての価値が変わるために,シカの食性はそれに対応して変化する.2)葉部とは異なる食物としての特性をもつ堅果がseasonal key foodとなっている.3)これらの結果,食物条件の季節変動輻は落葉樹林帯よりも小さい.

 季節変動パターンの違いが及ぼす効果は,体内の脂肪蓄積状態の季節変動パターン,冬期の体重減少の程度,若齢の成長パターンに認められた.以上のことは.房総では冬期のエネルギー損失期間が非常に短いことを示唆する.

 房総半島のニホンジカの個体群動態について,密度依存的な効果として以下のことが明らかになった.密度増加とともに年間を通じた食物の供給量および質的低下が起こり,体サイズの小型化や脂肪蓄積量の減少,初期成長の悪化をもたらした.初期成長の悪化は交尾期における初産齢の遅延をもたらし,若齢の妊娠率の低下が起こった.また春から夏の栄養摂取が悪くなるために,壮齢メスが出産・授乳のコストを回復させるのが遅延することによって壮齢妊娠率が減少した.高密度下の多雪地帯のシカの個体群動態は「死亡」によって特徴づけられるのに対し,常緑樹林帯では,増加率の減少は食物条件の悪化による妊娠率の低下による効果が大きく,「出生」で特徴づけられることが推測された.

審査要旨

 ニホンジカ(Cervus nippn)の個体および個体群特性における生態学的可塑性の理解のために、本州の常緑広葉樹林帯に位置する房総半島において、分布、個体群密度、食性、体サイズ、栄養状態、繁殖状況、植生への影響を、野外調査と個体の解析によって解明した。踏査と聞き取り調査で個体群密度を推定したところ、海岸域では30-40/haの高密度であったが、内陸部にいくほど密度は低下した。1980-1992年の瞬間増加率は0.199と推定された。

 食性を胃内容分析により調査したところ、春から夏にかけてスゲ類や木本の葉、秋に堅果、冬に堅果と常緑広葉樹の葉を摂食し、より北方や南方の個体群の中間的な食性であることが明らかになった。さらに、野外で採集した糞と捕獲個体の胃内容物の窒素含有率を分析したところ、生息密度の上昇にともなって摂食した食物が変化し、質的に低下する傾向が確認された。また、堅果はタンパク質含有率が相対的に低いものの、カロリー含有率が高く、良好なエネルギー源であると考えられた。

 体重、性的二型の程度、成長パターンなどの点から、房総の個体群は同一亜種の中でも小型であることが確認された。オス成獣は冬期には体重も11.9%低下させたが、メス成獣には体重の低下は見られなかった。しかし、房総のオス成獣であっても地域的に堅果生産量の多いところで体重減少の程度は低いなど、差異が認められた。

 堅果生産量の多少は初期成長にも違いを与え、堅果生産量の多いところでは春から秋にかけては遅く、秋から冬には速く成長した。また、房総のシカは北方のものよりも冬期の成長停止期間が短いことが明らかになったが、これは房総では秋から冬にかけても常緑樹の葉や堅果が食物として利用できるためであると考えられた。房総のシカは秋までの成長速度は相対的に低いが、早く受胎・出生することと成長期間の延長によって補完され、1才の発情期の相対体重は北方の個体群と同様の値となった。

 オス成獣は秋には脂肪蓄積も低下させ、初冬にはほとんど脂肪の蓄積はなくなっていた。メス成獣も冬に脂肪蓄積は低下させたが、房総の個体群は北方のものよりも低下の程度は低い。これは房総では冬期のエネルギー損失が少ないためであると考えられる。

 妊娠率は秋の体重と比例したが、密度の高い海岸域ではとくに若齢と壮齢のものの妊娠率が低かった。これは食物条件の密度依存的な質的低下にともなう母獣の体重や栄養状態の低下によるものであった。幼体と成体の比は高密度な海岸域では1.03ときわめて高かったが、生息密度、成獣メス体重、脂肪蓄積量、幼獣のサイズと2年遅れで同調していた。

 以上のように、常緑広葉樹林帯に位置する房総半島のニホンジカ個体群の特徴は、食物環境としては、スゲ、常緑広葉樹、草本の葉、堅果などが年間をとおして存在し、シカは季節的にメニューを違えて摂食していて、季節的な食物条件の変動幅は落葉広葉樹林帯のものよりも小さいことにある。また、個体群動態については、密度の変化にともなって食物の量的・質的変化がおこり、体サイズ、脂肪蓄積量、初期成長速度、妊娠率などが変化することにあると結論づけられる。

 本研究はこれまでほとんど手がつけられてこなかった常緑広葉樹林帯のニホンジカの生態学的特性を明らかにし、このことによって、これまで主として研究が行われていた落葉広葉樹林帯の個体群研究とあわせ、本州のニホンジカの生態学的可塑性を初めて明らかにするものとなった。学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、申請者に対し博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判断した。

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