学位論文要旨



No 111951
著者(漢字) 高橋,洋一
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ヨウイチ
標題(和) 佐倉における大規模高能率水田農業の基盤に関する研究 : "スーパー水田システム"の実体と形成過程、および一般化の可能性に関して
標題(洋)
報告番号 111951
報告番号 甲11951
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1667号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 藤田,夏樹
 東京大学 助教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 小田切,徳美
内容要旨

 昭和一桁世代等高齢農業者引退後の決定的担い手不足時代を生き抜き得る水田農業の基盤の構築を考える必要がある。日本では圃場分散等の大問題が存在するが大規模経営でも単なる粗放化等は容認され難い。更に将来の大規模稲作担い手の相当部分は時間的制約の大きい園芸等との複合経営になると予想される。単純な市場原理の導入や農業者個人の努力のみにより水田農業の生産現場を立て直すのは難しい。基盤整備,集団的農地利用調整,直播栽培導入等を併せて実現する為の方策を総合化した,ハード・ソフト両面に渡る徹底した地域的取組,総合的対策が必要である。各地域で,直播導入等も容易で大幅な省力化を可能とする土地改良を低農家負担で実施する事等を契機,基礎として地域農家組織等を結成し,団地化等の農地利用調整や機械投資負担軽減まで含む徹底した大規模担い手支援を行うのが望ましく,政策サイドも各種補助策を総合化して該当地域に集中させそのような取組を支援する必要がある。本論文では担い手不足時代の水田農業を支える基盤,地域的取組,システムのモデルとなると思われる,千葉県佐倉市印旛沼土地改良区管内での大規模水田農業支援システム,(仮称)スーパー水田システムについて考察する。

 高齢化,担い手弱体化の中,農地利用調整,担い手育成等の取組は更に重要性を増すだろうが,その為の地域農家を結集した組織の結成とその有効な機能等には通常相当の困難を伴う。しかし,土地改良,換地,集団転作等の農地に関わる一連の地域的大事業を契機とする形で土地改良地域で農家組合等を組織し,そこで改良農地の利用調整等を行えばそれがある程度容易となる。水田は農家,地域社会の最大の資産であり,営農意欲の衰えた農家,農地貸借や大規模借地農の成立に不安を持つ農家も自家の水田が低負担で美田に変わるのであれば土地改良を契機とする地域的取組への評価・参加等に関しても態度が変わる。佐倉市での水田農業改革のリーダーが土地改良の神様とも呼ばれる人物である点は極めて意味深い。土地改良はこのような地域的取組,システムの基礎,成立の契機となるが故に尚更,次世代担い手確保を容易とする徹底した省力化が可能で,高齢化等による農家の投資意欲減退に対応し事業費農家負担も低減できる等,事業合意形成を円滑化できる内容を備える必要がある。具体的には,湛水直播栽培では農地均平の高精度化や水管理自動化,乾田直播栽培等では農地の排水性や暗渠利用の地下灌漑等が重要となる。経営面積増大とともに大きな負担となる水路・農道管理,農道・畦畔除草等の雑用軽減の為,排水路地下化,農道舗装,畦畔除去等の工夫が必要となる。大型機械の使用上では大区画化以外にも障害となる排水路の地下化や農道の低段差舗装化等が望まれる。また,土地改良の合意形成の最大の障害とされる事業費農家負担の低減の為には,水路地下化等により生じる余剰地を農業施設用地,公共事業用地等として売却する等の工夫が重要となる。

 上述の如き地域的取組を軌道に乗せるには,集落社会,自治体各部門,土地改良区,農協等々の密なる連携と支援策の総合化,自治体正副首長等による総合調整・推進等も内容として含む,地域の資源,諸機関を結集した地域ぐるみでの徹底した総合的推進体制が必要となる。その前提として,事業の地域的合意を形成しそれを確固なものとする為の地域関係者への情報伝達,啓蒙普及等も徹底しておかねばならない。また,その事業を支援する農政当局側でも,土地改良事業と大型機械施設導入事業等の結合,土地改良と直播栽培指導等の連携,生産組織の設立・法人化や農地利用権設定等での指導の合流等まで含めた施策の総合化の必要がある。更に,地域的取組の契機となる土地改良の農家負担を軽減する上で重要な余剰地の売却,盛土での建設残土の利用等においては,農業建設両サイドの連携が不可欠となる場合も多く,既存の農政の枠を越える施策総合化も必要となる。

 余剰地の農民側への譲与や排水路地下化への不慣れ等の問題もあるが,土地改良時の余剰地が農業施設,公共事業用地等として一括買収されれば,事業費農家負担が軽減され事業合意形成が容易になり,大型施設の整備やそれに連動する各種機械関連制度の活用等により大規模担い手の投資負担も軽減でき,用地買収の苦労も緩和され,非農家も含む地域住民のニーズにも沿える。建設残土が盛土で活用されればその処理にも貢献し,一部工費が建設側で肩代わりされ,傾斜のある地域の土地改良でも農家負担が軽減できる。前述の如く土地改良等の機会を捉えれば農地利用調整等の困難も緩和される。土地改良の工夫が生かされ直播が安定すれば稲作経費削減に役立つ。総合化された施策・システムに支えられその中に組み込まれてこそ,農地利用調整も土地改良もその地域的合意形成が容易となり,大きな効果も発揮し,大規模担い手の育成・経営安定も容易になる。施策の総合化には部門間調整等を要するが,事業合意・推進円滑化,事業効果拡大,経費節減等のメリットを関係各方面に生じさせる。従来より大区画圃場整備事業でのハード事業と土地利用調整,担い手再編等ソフト事業の関連,同時推進等に注目,重視する意見があったが,相当な高能率化を要求される将来の水田農業を考える場合,ソフト事業,経営,栽培技術等と土地改良等の関連等に関する総合的な把握が重要となる点は認識されるべきであろう。

 このような担い手不足時代の水田農業を支える基盤,地域的取組,支援システムのモデル,印旛沼土地改良区管内における先進的土地改良を基礎とする大規模高能率水田農業支援システム,(仮称)スーパー水田システムは,同管内の角来,臼井第一,名喰戸(鹿島地区)等の工区での試行錯誤の中から生まれた。同地での大規模営農は,角来工区(S50年代中期土地改良)での盛土用浚渫土に関するアクシデントの連続により農地の利用権が集まった結果突然に成立した。試行錯誤の末,地主組合を基盤とする法人を設け,個人の経営者に農地を委ね,大区画水田での乾田直播も始まる等,同地で今日迄続く各種大規模営農体制も成立したが,土地改良,農地利用集積等で大規模化の準備が不徹底な面もあった。臼井第一工区(S60年代初頭改良)ではその反省を生かし土地改良段階から大規模化の準備を徹底し改良前から計画的に利用集積も図り,一枚7haの大区画水田も成立させそれを大規模耕作者に委ねたが,農地借り上げに注意を集中しすぎた面もあり,営農の安定には時間を要した。名喰戸工区(H5年土地改良終了.鹿島地区内)ではその反省も生かし,大型機械施設費地元負担まで軽減を予定する等,大規模耕作者への支援体制が更に強化される。1農区1区画化等により大区画化,農家負担低減も徹底させ,湛水直播も導入した。佐倉のスーパー水田システムはより理想的な内容を備えたと考えて良いようである。

 日本の水田農業を高齢化,担い手弱体化時代に生き残らせるには,このシステムを理想像とするような,地域・関係機関・自治体ぐるみの取組による,ソフト・ハード両面での施策を一体化した総合的な大規模高能率水田農業支援システムを全国に広める事が望まれる。その為佐倉やそこでの取組の一般性と特殊性という問題についての考察が重要となる。その試みは他地域にあまり類例を見ない為,佐倉の条件の特殊性を強調し大規模化上特に恵まれていたとする論評等も多く見られたが,実際には上記3工区は傾斜を有する地形を盛土・均平したもので,各工区内平均農地所有面積も2〜3反程度であり,大規模化に適さぬ条件の中でそれを達成したのだった。佐倉では担い手弱体化は早く進行したがそれも時間の経過とともに他地域でも一般化する。余剰地売却,建設残土での盛土,排水路地下化,集落等を基盤とした取組,新技術等々についても,適切な補助誘導策等があっても他地域では採用不可能と思われるものはほとんどなかった。将来に渡り連続する佐倉の重要な特殊性とは,土地改良や事業合意形成等のノウハウを熟知し,半世紀に渡り印旛沼土地改良管内の先進的土地改良等を指導し続けた地域的合意形成の達人とも言えるリーダーの存在と,多数の工区の改良の中で様々な新手法や新技術の導入を少しずつ無理なく積み重ね,その実例を示しながら周辺農民を説得してきたというそのリーダーによる土地改良や新技術導入等に関する合意形成上での農家への情報伝達や説得の方法,歴史だったと考えられる。これらは佐倉以外の地域ではすぐには望みにくいが,それとて地域農民,関係者等に対する,関係機関による情報提供の徹底等により相当程度補い得る事は,岩手県川崎村等での佐倉と同様な取組の成功やその周辺地域への伝播の状況等からも推測される。情報提供策として特に有効と思われるモデル圃場・農場等の設置には時間と労力を要しようが,そこに今後の稲作農政の最重要点があり,それが可能なら21世紀に存続可能な水田農業を築く為の対策が全国で取られるよう誘導する事も不可能ではないと考える。

 佐倉のスーパー水田システムを分析するには,印旛沼土地改良区管内での大規模営農の歴史をふまえた上で,土地改良や土地改良上の工夫等とその費用負担,農地利用調整,担い手支援,地域農家組織,直播等々との関係,事業の合意形成円滑化上での意味等についても総合的に把握する必要がある。本論文ではハード・ソフト両面を見渡し,上記各項目の相互関連等も重視し,全体を一つのシステムとして整理,把握する事に努めた。また,佐倉の大規模水田農業の形成過程に関する記述では,佐倉やそこでの試みの持つ一般性と特殊性という問題についても配慮し,誤解等に関しては一部で意見の追加等も行った。

審査要旨

 日本における稲作を中心とした土地利用型農業は、一方では今後のWTO体制下の義務的な米輪入の増大と国内消費の傾向的減少によって市場条件の絶えざる悪化が予想され、他方では高地価の下での零細・分散錯圃の支配により土地利用集積が容易ではないという歴史的・経済的・社会的要因により、規模拡大を通じた構造改革が緩慢にしか進行していないという問題を抱えている。しかも、これまで日本農業を労働力の面から支えてきた、分厚い年齢階層である昭和一桁世代のリタイアが開始しており、日本の土地利用型農業は内部から崩壊する危機に瀕しつつあるといっても過言ではない。

 本論文はこうした稲作農業における担い手不足時代を生き抜きうる水田農業の基盤の構築を、大規模高能率水田農業の形成ととらえ、これをスーパー水田システムと名付けて、千葉県佐倉市印旛沼土地改良区管内での事例にそのモデルを求め、体系的かつ詳細な特徴づけを試みたものである。そこでは、このシステムの実体かつ実現の方途を、(1)大区画圃場整備を骨格とする新しい基盤整備、(2)大規模借地農の成立を可能とする、地域における集団的土地利用調整、(3)大幅な省力化を通じたコストダウンを可能とする直播栽培、に整理し、それぞれについて詳細な分析が行われている。

 論文は、序部、第I部(序章から第6章)、第II部(第1章から第4章)、第III部(序章から第3章及び終章)、の合計16章からなる大部のものである。

 まず序部においては日本の稲作農業の後継者難の実態についての著者の認識が示され、これを克服する方途としてのスーパー水田システムの基本的枠組みと意義が指摘されている。そしてこのシステムの実現には土地改良を起点としたソフトとハードの取り組みの一体化、地域・関係団体・自治体など推進体制の総合化が不可欠であることが強調されている。また、スーパー水田システムが農水省の「新政策」の具体化であることが新政策の検討を通じて明らかにされている。

 第I部ではスーパー水田システムの内容が示されている。そこでは圃場区画が最も大規模化し、1農区1区画化を実現した佐倉市印旛沼土地改良区管内名喰戸工区の事例の検討から、圃場区画の大規模化と建設残土を利用した盛土工法による土地改良費低減化(第2章)、灌漑(第5章)及び排水(第6章)の暗渠化を通じた工費圧縮、さらには余剰地の拡大とその売却を通じた一層の工費節減により(第1章)、自作地を残しつつも借地農を中心とした大規模営農体制が構築され(第3章)、直播栽培(第4章)が試みられている実情を紹介している。

 第II部ではこうしたスーパー水田システムの普及の可能性が検討されている。まず、かかる先進的なシステムの普及のためには「モデル農場」を設置して、官民の多くの関係者が認知しうる環境を整備することが大切であると説く(第1章)。そして、土地改良時の余剰地売却の可能性・条件について、道路・公園・運動施設・観光施設などへの転用の可能性についての検討を行い(第2章)、建設残土の利活用の意義を指摘した(第3章)上で、スーパー水田システムが単に印旛沼土地改良区管内での経験に止まることなく、一般性をもっことを岩手県川崎村の事例分析を通じて明らかにした(第4章)。

 第III部では改めて、印旛沼土地改良区管内でのスーパー水田システムの形成過程が検討されている。まず、角来工区(昭和50年代中期土地改良)での盛土用浚渫土をめぐるアクシデントの連続の中で、地主組合が基盤となった農業生産法人が形成され、農地利用権の集積を通じて、個人的経営者に委託する形で大規模営農が実現したことが起点となったことが指摘されている(第1章)。続く臼井第一工区(昭和60年代初期土地改良)では角来での経験を生かし、設計・換地計画段階から圃場の大規模化と利用権の集積に取り組み、大規模営農の成立には成功したが、定着に失敗した事情が考察されている(第2章)。そして、理想的な内容を備えた名喰戸工区(平成5年土地改良終了)でのシステム形成の意義が分析され(第3章)、第4章でこうした佐倉での取り組みが一般性をもつことに対する様々な疑問に答えている。

 対象とした事例においては大規模営農が成立したものの、いまだ完全には定着しておらず、コストダウンの成果などにも疑問の余地があり、著者の分析のつめにも若干の甘さが残るが、本論文が日本農業の最先端の事例について詳細な分析を加え、整理した点は十分に評価され、学術上・応用上貢献するところが少なくないと判断される。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位にふさわしいものと認めた。

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