学位論文要旨



No 111953
著者(漢字) 荊木,桂子
著者(英字)
著者(カナ) イバラキ,ケイコ
標題(和) 低圧力環境下における植物の生育に関する研究
標題(洋)
報告番号 111953
報告番号 甲11953
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1669号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高倉,直
 東京大学 教授 瀬尾,康久
 東京大学 教授 崎山,亮三
 東京大学 助教授 藏田,憲次
 東京大学 助教授 大下,誠一
内容要旨

 将来の宇宙開発では、人類が長期間宇宙に滞在できる国際スペースステーションや月面基地などの構築が計画されている。そこで現在、食糧供給、O2/CO2変換および水処理を目的とした、宇宙での植物生産についての研究が必要とされている。月面や宇宙空間などの高真空環境下に植物栽培施設を構築する場合は、施設内部の気圧をより低く設定して、施設の建設コストや充填ガスの節減を図ることが検討されている。しかし、気圧の低下が植物の生育に及ぼす影響についての研究例は少なく、明確な知見はほとんど得られていない。そこで、本研究では、通常の大気圧(約101kPa、以下常圧)よりも低い気圧下(以下、低圧下)での植物生育についての研究を行った。

 本研究では、常圧よりも気圧を低く維持できる特殊な植物実験装置の製作が重要な課題であった。まず、低圧下での植物栽培が可能かどうかを調べるために、内部を40kPaまで減圧できるグロースチャンバーを備えた低圧栽培実験装置や、10kPaまでの低圧下で光合成および蒸散速度の測定を行うための装置を製作した。さらに、これら装置で必要であった改良点を踏まえて、新たに10kPaまで減圧可能なグロースチャンバーを備えた栽培装置を作製した。Fig.1にその概要図を示す。グロースチャンバは、内径63.5cm、高さ60cmのステンレス製の円筒形の容器本体と厚さ4cm、直径70cmのアクリル製の蓋からなる。この装置では、(1)約10kPaまでの減圧、(2)O2およびCO2分圧の制御、(3)純光合成および蒸散速度の栽培中の継続的測定、(4)水耕栽培ベッドへの直接播種、(5)減圧時の培養液の更新、などが可能である。本研究では、これらの装置を用いて実験を行った。

Fig.1.Schematic diagram of the environment control system for growing plants under low total pressures.

 まず、気圧と植物のガス交換について調べた。植物の光合成や蒸散などのガス交換は、CO2分圧や水蒸気などの気体の拡散によって生じている。気体の拡散係数は気圧に反比例することから、気温一定の条件では、気圧の低下に伴いガス拡散速度は増大する。従って、CO2分圧あるいは水蒸気分圧が一定でも、植物の光合成および蒸散は気圧により変化することが予想される。そこで、O2分圧およびCO2分圧を一定としたときの低圧下における光合成、蒸散および気孔開度の測定を行った。光合成速度は閉鎖式の同化箱法により、蒸散速度は重量法により測定した。気孔開度の測定には、光合成および蒸散速度の測定後、速やかにチャンバー内の気圧を常圧に戻してふたを開け、葉の向軸側にマニキュアを塗って型どりしたものを用いた。その評価には、気孔の短経を長経で割った値を用いた。O2分圧およびCO2分圧はそれぞれ20kPaおよび40Paで一定とし、気圧を101、50、25kPaと変えて測定を行った。

 純光合成速度および蒸散速度はともに、気圧の低下とともに増大し、25kPa下ではともに常圧下のの約1.5倍になった(Fig.2)。しかし、気孔開度は、気圧の低下に伴いわずかに低下した。これらの結果をガス拡散理論により解析した。

Fig.2.Effects of total pressure on net CO2 assimilation and transpiration rates of spinach.

 ガス拡散に着目すると、純光合成速度および蒸散速度は、CO2ガスおよび水蒸気の濃度をガス拡散の抵抗で除した値で求められる。蒸散に関する抵抗には水蒸気の葉面境界層抵抗(Rb)および気孔抵抗(Rs)があり、光合成ではCO2のRb、Rsに加え、葉肉抵抗がある。これらの抵抗のうち、RbおよびRsは気相中の抵抗であるため気圧により変化する。そこで、各気圧下における水蒸気のRbおよびRsを算出した。Rbはモデル葉を用いて測定し、葉内の飽和水蒸気圧は実測した葉温の飽和水蒸気分圧に等しいと仮定した。その結果、水蒸気のRbおよびRsはともに気圧の低下に伴い減少していることが明らかになった(Table 1)。Rsは、気孔開度が一定であれば理論的に気圧に比例する。しかし、低圧下における実際のRsは、気孔開度が一定と仮定して計算した値よりわずかに大きくなり、気孔開度が低下していた観察結果と一致した。また、この結果から、CO2分子のガス拡散についても同様に、気圧の低下に伴いRbおよびRsが減少するのは明らかである。従って、CO2分圧が一定であっても、気圧の低下によりガス拡散が促進され、葉内CO2分圧が増大したために純光合成速度が高まったと考えられた。さらに、C4植物であるトウモロコシについても同様に純光合成速度および蒸散速度を測定した。しかし、蒸散速度は気圧の低下とともに増大したものの、純光合成速度はあまり変化しない結果となった(Fig.3)。

Table 1.Effects of total pressure on transfer resistances for water vapor of spinach leaf.Fig.3.Effects of total pressure on net CO2 assimilation and transpiration rates of maize.

 気圧の低下に伴う蒸散速度の増大から、トウモロコシにおいてもガス拡散が促進されたことは明らかであるが、光合成については常圧下ですでにCO2分圧に対して飽和していたため、気圧の低下による増大が見られなかったことを確認した。

 つぎに、上記の実験結果を踏まえて、ホウレンソウを用いた栽培を試みた。まず、今までに例がない播種から収穫までの長期間の低圧下における栽培を行い、長期間の気圧の低下が生長の及ぼす影響について調べた。

 供試植物にはホウレンソウの種子を用い、水耕バネル上に試験区当たり27個のホウレンソウの種子を直接播種した後、気温明期25℃、暗期20℃、飽差0.64-0.95kPa(RH、70-80%)光周期12h/day、PPFD250mol m-2s-1で水耕栽培を行った。試験区は、通常の大気条件である対照区と、気圧だけ25kPaに下げたLT区、気圧およびO2分圧をそれぞれ25kPaおよび10kPaに下げたLTO区の3試験区を設定した。栽培期間は31日間とし、1試験区ずつ順番に栽培を行った。培養液には園試処方標準液を用い、培養液の交換を播種後7、14、20、24、27、29日に行った。播種後31日目に植物の草丈、生体重、乾物重、純光合成速度などについて測定を行った。

 ホウレンソウの発芽率はすべての試験区間でほぼ等しく、各試験区間で収穫されたホウレンソウの数に大きな差はなかった(Table 2)。LT区の生体重、乾物重および乾物率は対照区と大差なく、これら二つの試験区間に有為差は見られなかった。また、これらの草丈、葉数、葉面積および比葉面積についても有為差は見られなかった。一方、LTO区の乾物重は対照区およびLT区と大差なかったものの、生体重が低かったために乾物率が高い結果となった。また、LTO区では、対照区およびLT区に比べて、草丈および葉面積が小さかった。一般に、常圧下でO2分圧を低下してC3植物の栽培を行った場合は、光呼吸が抑制され純光合成速度が増大するため乾物重は大きくなるが、その一方で草丈の伸長や葉の展開が抑制されることが報告されている。本実験の結果では、草丈の伸張や葉展が抑制される現象だけが確認され、乾物重の増加は見られなかった。播種から長期間低圧下で生育した植物の純光合成速度は、短期間低圧に植物をさらした時とは異なり、気圧に関わらずあまり変わらなかった。

Table 2.Effects of total and O2 partial pressures on spinach growth.

 常圧下で生育した苗の純光合成速度は気圧の低下に伴い増大するにも関わらず、気圧の低下がホウレンソウの生長に影響を及ぼさなかったことの原因について、以下のように考察した。O2およびCO2分圧、水蒸気分圧を一定として気圧を低下すると、葉内CO2分圧の増加や、葉からの過剰な水損失が生じる。これら葉内CO2分圧および水損失の増大は、それぞれ、常圧下でのCO2施肥や、低湿度環境などで生じる現象に模する事ができる。CO2を施肥した場合生長は促進されるが、低湿度下では植物からの過剰な水損失を押さえるために気孔開度が低下し、生長が抑制される可能性がある。短期的な気圧の低下により、気孔開度が低下した実験結果から、低圧下で同様の減少が起きていたことが予想できる。従って、これらの結果から、気圧により最適な温度環境が異なることが考えられた。そこで、次に低圧下における飽差がホウレンソウの生長に与える影響について調べた。

 実験には常圧下で生育した播種後15日目のホウレンソウ苗を用いた。空気中の飽差を除く環境条件は前述の実験と同様とした。試験区は、大気条件下で飽差0.95kPa(70%RH)、としたものを対照区とし、気圧を25kPa、飽差0.95kPa(70%RH)とした低圧70%区および、飽差0.48kPa(85%RH)とした低圧85%区を設けた。O2分圧およびCO2分圧はすべての試験区で21kPaおよび40Pa一定とした。1試験区当たり苗を20供試し、8日間の栽培を順番に行った。

 低圧85%区の生体重に関する相対生長速度(RGR)は、対照区および低圧75%区に比較して最も大きく、有為差が認められた。しかし、対象区と低圧75%区では差が見られなかった。また、葉面積についても同様の結果が得られた(Table 3)。この結果から、気圧を低下する場合は、その気圧に応じた湿度管理が必要であることが示唆された。

Table 3.Effects of water vapor pressure deficit(VPD)on spinach growth under hypobaric conditions.

 本研究では、気圧の低下によりガス拡散が促進されることから、植物の葉内CO2分圧が高まり、純光合成速度が増大される可能性があることを明らかにした。同時に蒸散速度も増大するが、植物体からの水損失の増大に伴い気孔開度が低下することが確認された。また、気圧だけを低下した環境下でホウレンソウを栽培すると、その生体重および乾物重は常圧下のものと大差ないが、飽差を常圧下で適当とされているよりも小さく設定することで、低圧下での生長が促進されることがわかった。これらの結果から、低圧下での植物生育に最適な湿度環境は、常圧下とは異なることが示唆された。

審査要旨

 月面や宇宙空間などの高真空環境下に植物栽培施設を構築する揚合は、施設内部の気圧をより低く設定して、施設の建設コストや充填ガスの節減を図ることが検討されている。しかし、気圧の低下が植物の生育に及ぼす影響についての研究例は少なく、明確な知見はほとんど得られていない。そこで、本研究では、通常の大気圧(約101kPa、以下常圧)よりも低い気圧下(以下、低圧下)での植物生育についての研究を行った。

 本研究では、内部を40kPaまで減圧できるグロースチャンバーを備えた低圧栽培実験装置や、10kPaまでの低圧下で光合成および蒸散速度の測定を行うための装置を製作した。さらに、これらの改良点を踏まえて、新たに10kPaまで減圧可能なグロースチャンバーを備えた栽培装置を作製した。本研究では、これらの装置を用いて実験を行った。

 まず、気圧と植物のガス交換について調べた。気温一定の条件では、気圧の低下に伴いガス拡散速度は増大する。O2分圧およびCO2分圧はそれぞれ20kPaおよび40Paで一定とし、気圧を101、50、25kPaと変えて測定を行った。

 純光合成速度および蒸散速度はともに、気圧の低下とともに増大し、25kPa下ではともに常圧下の約1.5倍になった。しかし、気孔開度は、気圧の低下に伴いわずかに低下した。

 蒸散に関する抵抗には水蒸気の葉面境界層抵抗および気孔抵抗があり、光合成ではそれに加え、葉肉抵抗がある。解析の結果、水蒸気の境界層抵抗および気孔抵抗はともに気圧の低下に伴い減少していることが明らかになった。気孔抵抗は、気孔開度が一定であれば理論的に気圧に比例する。しかし、低圧下における実際の気孔抵抗は、気孔開度が一定と仮定して計算した値よりわずかに大きくなり、観察結果と一致した。炭酸ガスの流れについても同様で、葉内CO2分圧が増大したために純光合成速度が高まったと考えられた。さらに、C4植物であるトウモロコシでは蒸散速度は気圧の低下とともに増大したものの、純光合成速度はあまり変化しなかった。気圧の低下に伴う蒸散速度の増大から、トウモロコシにおいてもガス拡散が促進されたことは明らかであるが、光合成については常圧下ですでにCO2分圧に対して飽和していたため、気圧の低下による増大が見られなかった。

 つぎに、ホウレンソウを用いて、今までに例がない播種から収穫までの長期間の低圧下における栽培を行い、長期間の気圧の低下が生長に及ぼす影響について調べた。気温は明期25℃、暗期20℃、飽差0.64-0.95kPa、光周期12h/day、PPFD250mol m-2s-1で水耕栽培を行った。試験区は、通常の大気条件である対照区と、気圧だけ25kPaに下げたLT区、気圧およびO2分圧をそれぞれ25kPaおよび10kPaに下げたLTO区の3試験区を設定した。栽培期間は31日間とし、培養液には園試処方標準液を用い、播種後31日目に植物の草丈、生体重、乾物重、純光合成速度などを測定した。

 ホウレンソウの発芽率はすべての試験区間でほぼ等しく、各試験区間で収穫されたホウレンソウの数に大きな差はなかった。LT区の生体重、乾物重および乾物率は対照区と大差なく、これら二つの試験区間に有為差は見られなかった。また、これらの草丈、葉数、葉面積および比葉面積についても有為差は見られなかった。一方、LTO区の乾物重は対照区およびLT区と大差なかったものの、生体重が低かったために乾物率が高い結果となった。

 次に低圧下における飽差がホウレンソウの生長に与える影響について調べた。実験には常圧下で生育した播種後15日目のホウレンソウ苗を用い、空気中の飽差を除く環境条件は前述の実験と同様とした。試験区は、大気条件下で飽差0.95kPaとしたものを対照区とし、気圧を25kPa、飽差0.95kPaとした低圧低湿区および、飽差0.48kPaとした低圧高湿区を設けた。O2分圧およびCO2分圧はすべての試験区で21kPaおよび40Pa一定とした。1試験区当たり苗を20供試し、8日間の栽培を順番に行った。

 低圧高湿区の生体重に関する相対生長速度は、対照区および低圧低湿区に比較して最も大きく、有為差が認められた。しかし、対象区と低圧低湿区では差が見られなかった。また、葉面積についても同様の結果が得られた。この結果から、低圧の場合は、その気圧に応じた湿度管理が必要であることが示唆された。

 以上要するに、本論文は低圧下での植物生育に関して、多くの新知見を明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが極めて大きい。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として十分な価値を有するものと判定した。

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