菌類の化石資料は乏しく、多様な形態の中にも収斂的な単純化がみられることなどから、過去に提案された菌類系統論は、推定の域を出ない。しかし近年、遺伝子解析技術と系統樹作成法が大きく進歩し、高等菌類については多くの分類群で積極的に研究が進められたことから、その系統進化の輪郭がある程度浮かび上がってきた。一方、下等菌類は、これまで分子系統学的にもほとんど研究されていないため、高次分類群の系統関係は全く未知である。そこで本論文は、既存の菌類系統論を分析した上で、接合菌類、ハエカビ目分類群に着目して分子系統学的解析を行い、菌類系統中での鞭毛の消失と多様化におけるハエカビ目の位置づけ、さらにハエカビ目の中で特異な位置を占めたBasidiobolus属菌種間の進化的関係、細胞内微細構造を明らかにしたものである。 第1章の序論は研究の背景、第2章では、真核生物の有効な18SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統樹を作成、解析し、既存の生物分類体系及び菌類界に含まれる高次分類群の範囲、定義、進化的関係について考察している。従来下等菌類とされてきた菌類及びその類縁菌類、卵菌類、サカゲツボカビ類は、狭義の菌類とは全く異なる系統を示し、鞭毛菌類では唯一ツボカビ類のみが"真の"菌類(菌類界)に含まれることが確かめられた。そして、菌類界は植物界よりむしろ動物界に近縁であるという最新の系統論を支持し、動物と菌類の共通起源として注目されている立襟鞭毛虫類の位置に矛盾のないことが示された。 第3章では、核18SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統学的解析から、接合菌類ハエカビ目分類群の系統学的位置と菌類進化上における鞭毛の消失の意義について述べられている。ハエカビ目は、接合菌類の中でも特に分生子の強制射出と節足動物などへの寄生性によって特徴づけられる。また本目Basidiobolus属数種のNAO(Nucleus Associated Organelle)には、これまで非鞭毛菌類には存在しないとされていた中心小体様微小管が見られることから、鞭毛菌類と非鞭毛菌類の間の重要な系統学的指標として注目されている。作成した近隣結合法と最大節約法による分子系統樹において、ハエカビ目菌種は大きく2系統に分かれて位置し、そのうちBasidiobolus属はツボカビ類の一群と近縁であった。これは、前述のNAOの示す証拠を裏打ちするものである。しかしながら、他のハエカビ目分類群はBasidiobolus属とは遠く離れて、ケカビ目Mucor属などと系統枝を形成したことから、ハエカビ目は多系であることが明らかになった。このことは、ハエカビ目の主要形質(例えば、分生子の強制射出や接合胞子の形態)が収斂的であることを示している。外生菌根を形成する接合菌類Endogone属もこのツボカビ類の一群やBasidiobolus属と比較的近い位置を占めたのに対して、内生菌根を形成する接合菌類(Glomus,Scutterospora両属)は、高等菌類と比較的近縁であった。このことは、接合菌類の菌根菌群が単系であるなら外生菌根から内生菌根へ進化したことを示している。しかし、多系である可能性も否定できない。また、高等菌類は明らかな単系統を示し、一方ツボカビ類は2系統に分かれてそれぞれ接合菌類と結びつき、接合菌類とツボカビ類はそれぞれ単系統とはならなかった。下等菌類の多様化はツボカビ様祖先菌類において生じ、それぞれの系統で鞭毛の消失が起きたものと結論された。さらに、トリモチカビ目を中心とした接合菌類数種のデータ(K.O’Donnell博士の未発表データ)を加えた系統解析からも、接合菌類は想像以上に多系であるとの知見が得られた。 第4章では、Basidiobolus属5種8株の系統進化的関係について述べられている。種レベルの系統解析に有効なITSおよび5.8SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統解析を行った結果、本属の重要な分類基準である接合胞子内壁表面構造の特徴は得られた分子系統樹に反映されていた。 第5章では、透過型電子頭微鏡による本属菌種の細胞内微細構造の観察とその意義について述べられている。B.ranarum他2種に加えて、B.heterosporusにおいてもNAOに中心小体様の微小管構造が認められ、本属の均一性が示唆された。第6章は、総合考察である。 以上要するに、本論文は、接合菌類ハエカビ目分類群を中心とした下等菌類の分子系統解析を行い、菌類系統中の鞭毛の消失が、従来考えられていたように1系統上だけで起こったのではなく、複数の系統で起こったことを示し、さらにツボカビ類、それから派生したと考えられる接合菌類はこれまで考えられていた以上に多系であること初めて提起したもので、菌類系統分類学に与えるインパクトは実に大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の論文として価値あるものと認めた。 |