学位論文要旨



No 111958
著者(漢字) 長濱,統彦
著者(英字)
著者(カナ) ナガハマ,タカヒコ
標題(和) 下等菌類、特に接合菌類ハエカビ目の系統進化に関する研究
標題(洋)
報告番号 111958
報告番号 甲11958
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1674号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉山,純多
 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 助教授 小柳津,広志
 国立遺伝学研究所 助教授 斎藤,成也
 東京大学 助教授 横田,明
内容要旨

 菌類の中で、子嚢菌類、担子菌類、そして不完全菌類が高等菌類と呼ばれるのに対して、それ以外のものは多くが菌糸に規則的な隔壁を持たず、また一部に鞭毛を持つ分類群を含むことから下等菌類と呼ばれている。近年、遺伝子解析技術と系統樹推定法が大きく進歩し、高等菌類については多くの分類群で積極的に研究が進められたことから、その系統進化の概要がある程度浮かび上がってきた。しかしながら、下等薗類ではその形態や生態が極めて多様で、分子系統学的にもあまり取り組まれていないため、全体の系統関係は全く未知である。またそのために、菌類の系統進化についての我々の知見は仮説の域を出ない。本研究では、既存の菌類系統論を踏まえて、下等菌類のうち鞭毛を有する菌類であるツボカビ類(chytridiomycetes)との関係が示唆されている接合菌類(zygomycetes)、ハエカビ目(Entomophthorales)の菌種を中心にして分子系統学的解析を行い、菌類系統の中での鞭毛の消失について、さらには高等菌類の多様化におけるハエカビ目の位置づけについて考察する。更にハエカビ目の菌種の中でも非常に興味深い位置を占めたBasidiobolus属菌種について属内における類縁関係について分子系統学的に、そして微細構造的にも明らかにしようと試みた。

(1)下等菌類の範囲・定義・起源

 幅広い真核生物の18SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統樹を作成し、既存の分類体系および菌類界に含まれる高次分類群の範囲と定義について評価を行った。最近、様々な面から、明らかにされているように、従来下等菌類とされてきた粘菌類、卵菌類、サカゲツボカビ類は、その他の菌類とは全く異なる系統を示し、鞭毛菌類では唯一ツボカビ類のみが"真の"菌類に含まれることが確認された。そして、菌類は植物よりむしろ動物に近縁であるという考えを支持し、動物と菌類の共通起源として有力視されている立襟鞭毛虫類(choanoflagellates)の位置に矛盾のないことが示された。

(2)接合菌類ハエカビ目に属する分類群の分子系統学的位置と菌類進化上における鞭毛の消失

 ハエカビ目は接合菌類の中でも特に、分生子の強制射出と節足動物を中心とした幅広い生物への寄生性によって、特徴づけられる菌群である。この菌群は接合菌類の代表であるケカビ目とは対照的に、未成熟な接合胞子形成が観察されることから、原始接合菌類と見なされることもある。この菌群は細胞壁多糖が、ケカビ目などに典型的に見られるキチン-キトサン型ではなくキチン-グルカン型であり、またこの菌群に属するBasidiobolus属菌種のNAO(Nucleus Associated Organelle)には、これまで非鞭毛菌類には存在しないとされていた中心小体様の微小管が見られることから、鞭毛菌類と非鞭毛菌類の間の重要な系統学的指標として注目されている。このハエカビ目分類群の系統学的位置を明らかにするため、核18SrRNA遺伝子塩基配列に基づく分子系統樹を作成(図1)したところ、ハエカビ目菌種は大きく2つの系統に分かれて位置し、そのうちBasidiobolus属はツボカビ類の一群と近縁であった。これは、前述の形態からの示唆を裏付けるものである。しかしながら、他のハエカビ目のグループはBasidiobolus属とは遠く離れて、ケカビ目Mucor属などとクラスターを形成したことから、ハエカビ目は多系であることが明らかになった。このことはハエカビ目の持ついくつかの特徴(例えば分生子の強制射出や接合胞子の形態)が収斂的に表れたことを示している。一方で、バシジオボルス科(Basidiobolaceae)は下等菌類では例外的に規則的な隔壁を持ち、細胞壁組成や有糸分裂時の核分裂様式の相違などから、ハエカビ目の中でも特異な科であることがわかっている。外生菌根を形成する接合菌類Endogone(アツギケカビ)属もこのツボカビ類の一群やBasidiobolus属と比較的近い位置を占めたのに対して、内生菌根を形成する接合菌類(Glomus,Scutterospora両属)は、高等菌類と比較的近縁であった。このことは、接合菌性の菌根菌グループが単系であるなら外生菌根から内生薗根へ進化したことを示しているが、多系である可能性も否定できないと思われる。高等菌類は下等菌類に対して明らかな単系統を示した。ツボカビ類は2系統に分かれてそれぞれ接合菌類と結びつき、接合菌類とツボカビ類はそれぞれ単系統とはならなかった。この菌群は形態的にも非常に多様であることから、現存する主な菌類系統はツボカビ様祖先菌類において既に形成されており、それぞれの系統で鞭毛の消失が起きたものと考えられた。

 さらに、トリモチカビ目(Zoopagales)を中心とした接合菌類の18SrRNA塩基配列5種(Kerry O’Donnell博士、私信)を加えた系統解析からも、いくつかの新たな知見が得られた。すなわち、水生昆虫に腸内共生する菌類であるトリコミセス類Smittium属は菌類に寄生するトリモチカビ目接合菌類と近縁であったが、トリモチカビ目と同様にこの分節性胞子嚢胞子を形成するSyncephalastrum属はケカビ属と近く、これらを隔てるライフスタイルの相違が接合菌類の進化では重要な鍵を握ることが解った。またケカビ目のなかでも原始的な菌群と考えられているMortierella属はケカビ目とは離れて、Endogone属と近いという興味深い結果が得られた。これらは接合菌類の、これまで考えられてきた以上の多様性を示すものである。

(3)Internal Transcribed Spacer(ITS)および5.8SrRNA遺伝子塩基配列の比較に基づく接合菌類ハエカビ目Basidiobolus属菌種の類縁関係

 上述の分子系統樹において、興味深い位置を占めたBasidiobolus属の菌種について、いくつかの18SrRNA遺伝子の塩基配列を決定したが、それらの間に有為な差は見られず、Basidiobolus属はかなり均一な属であると考えられた。そのため、より速い進化速度を持ち、種レベルの系統解析に有用であると思われるITSおよび5.8SrRNA遺伝子塩基配列をもとに系統樹を作成した(図2)。この領域の塩基配列は、Basidiobolus属菌種をよく区別し、なおかつ明確な系統関係を表した。本属では接合胞子の内壁の表面構造が重要な分類基準となっているが、この系統樹もそれを反映していた。B.microsporusだけが例外であったが、この菌種は特異な2次分生子の形成によって特徴づけられており、唯一、他の本属菌種と明確に区別されている。

図表図1 近隣結合法による下等菌類の系統樹(枝上の数字は10,000回のブートストラップ再抽出から得られた信頼度を百分率に表した。鞭毛の消失が推測される系統枝を灰色に示した。) / 図2 近隣結合法によるBasidiobolus属の系統樹(枝上の数字は10,000回のブートストラップ再抽出から得られた信頼度を百率に表した。)
(4)透過型電子顕微鏡によるBasidiobolus属菌種の細胞内微細構造の観察

 前述のとおり、一部のBasidiobolus属菌種には細胞質微小管や紡錘体の集中構造として表れるNAOに中心小体様の微小管構造が報告されている。この構造は、これまでB.ranarum,B.haptosporus,B.magnusの3種で報告されているが、他種についてもその有無を知り、多様性を調べるために、透過型電子顕微鏡を用いて細胞内微細構造を観察した。上記の3種以外に、B.heterosporusにおいてもNAOに中心小体様の微小管構造が認められたが、それらの間に有意な違いは見られなかった。これらこともBasidiobolus属の均一性を暗示するものと考えられた。

(5)結論

 接合菌類ハエカビ目の菌種を中心とした系統解析は、菌類系統中の鞭毛の消失が、これまで考えられていたように1系統上だけで起こったのではなく、複数の系統で起こったであろうことを強く示唆した。また、それから派生したと考えられる接合菌類はこれまで考えられていた以上の多様性を示している。高等菌類は明らかに単系統であるが、下等菌類との進化的関係については今後の課題として残された。また、ハエカビ目の中でもバシジオボルス科(Basidiobolus属のみを含む)のみが異なる系統に帰属することは明白であり、本科は別の分類群としてハエカビ目から除かれるべきである。一方で、本科(属)はかなり均一な分類群であり、ITSなどの様な進化速度の速い分子種により、有効に分類・同定が可能であることが明らかになった。

審査要旨

 菌類の化石資料は乏しく、多様な形態の中にも収斂的な単純化がみられることなどから、過去に提案された菌類系統論は、推定の域を出ない。しかし近年、遺伝子解析技術と系統樹作成法が大きく進歩し、高等菌類については多くの分類群で積極的に研究が進められたことから、その系統進化の輪郭がある程度浮かび上がってきた。一方、下等菌類は、これまで分子系統学的にもほとんど研究されていないため、高次分類群の系統関係は全く未知である。そこで本論文は、既存の菌類系統論を分析した上で、接合菌類、ハエカビ目分類群に着目して分子系統学的解析を行い、菌類系統中での鞭毛の消失と多様化におけるハエカビ目の位置づけ、さらにハエカビ目の中で特異な位置を占めたBasidiobolus属菌種間の進化的関係、細胞内微細構造を明らかにしたものである。

 第1章の序論は研究の背景、第2章では、真核生物の有効な18SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統樹を作成、解析し、既存の生物分類体系及び菌類界に含まれる高次分類群の範囲、定義、進化的関係について考察している。従来下等菌類とされてきた菌類及びその類縁菌類、卵菌類、サカゲツボカビ類は、狭義の菌類とは全く異なる系統を示し、鞭毛菌類では唯一ツボカビ類のみが"真の"菌類(菌類界)に含まれることが確かめられた。そして、菌類界は植物界よりむしろ動物界に近縁であるという最新の系統論を支持し、動物と菌類の共通起源として注目されている立襟鞭毛虫類の位置に矛盾のないことが示された。

 第3章では、核18SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統学的解析から、接合菌類ハエカビ目分類群の系統学的位置と菌類進化上における鞭毛の消失の意義について述べられている。ハエカビ目は、接合菌類の中でも特に分生子の強制射出と節足動物などへの寄生性によって特徴づけられる。また本目Basidiobolus属数種のNAO(Nucleus Associated Organelle)には、これまで非鞭毛菌類には存在しないとされていた中心小体様微小管が見られることから、鞭毛菌類と非鞭毛菌類の間の重要な系統学的指標として注目されている。作成した近隣結合法と最大節約法による分子系統樹において、ハエカビ目菌種は大きく2系統に分かれて位置し、そのうちBasidiobolus属はツボカビ類の一群と近縁であった。これは、前述のNAOの示す証拠を裏打ちするものである。しかしながら、他のハエカビ目分類群はBasidiobolus属とは遠く離れて、ケカビ目Mucor属などと系統枝を形成したことから、ハエカビ目は多系であることが明らかになった。このことは、ハエカビ目の主要形質(例えば、分生子の強制射出や接合胞子の形態)が収斂的であることを示している。外生菌根を形成する接合菌類Endogone属もこのツボカビ類の一群やBasidiobolus属と比較的近い位置を占めたのに対して、内生菌根を形成する接合菌類(Glomus,Scutterospora両属)は、高等菌類と比較的近縁であった。このことは、接合菌類の菌根菌群が単系であるなら外生菌根から内生菌根へ進化したことを示している。しかし、多系である可能性も否定できない。また、高等菌類は明らかな単系統を示し、一方ツボカビ類は2系統に分かれてそれぞれ接合菌類と結びつき、接合菌類とツボカビ類はそれぞれ単系統とはならなかった。下等菌類の多様化はツボカビ様祖先菌類において生じ、それぞれの系統で鞭毛の消失が起きたものと結論された。さらに、トリモチカビ目を中心とした接合菌類数種のデータ(K.O’Donnell博士の未発表データ)を加えた系統解析からも、接合菌類は想像以上に多系であるとの知見が得られた。

 第4章では、Basidiobolus属5種8株の系統進化的関係について述べられている。種レベルの系統解析に有効なITSおよび5.8SrRNA遺伝子塩基配列に基づく系統解析を行った結果、本属の重要な分類基準である接合胞子内壁表面構造の特徴は得られた分子系統樹に反映されていた。

 第5章では、透過型電子頭微鏡による本属菌種の細胞内微細構造の観察とその意義について述べられている。B.ranarum他2種に加えて、B.heterosporusにおいてもNAOに中心小体様の微小管構造が認められ、本属の均一性が示唆された。第6章は、総合考察である。

 以上要するに、本論文は、接合菌類ハエカビ目分類群を中心とした下等菌類の分子系統解析を行い、菌類系統中の鞭毛の消失が、従来考えられていたように1系統上だけで起こったのではなく、複数の系統で起こったことを示し、さらにツボカビ類、それから派生したと考えられる接合菌類はこれまで考えられていた以上に多系であること初めて提起したもので、菌類系統分類学に与えるインパクトは実に大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の論文として価値あるものと認めた。

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