枯草菌(Bacillus subtilis)の胞子形成は、細胞分化のモデル系として生理学的・分子遺伝学的な解析が進められている。胞子形成開始期には特異的転写因子SpoOAとシグマ因子Hの最的・質的変化を介して、開始期に特異的な遺伝子の逐次的発現が進行すると考えられている。そこでは、spoOA遺伝子の胞子形成期に特異的なプロモーター(Ps)からの転写誘導やホスホリレー系(KinAプロテインキナーゼなどを含む)によるSpoOAの活性化、さらにHの安定化などが関わる複雑なネットワーク機構が働いていると想定されている。 本論文は、枯草菌細胞が細胞内外からの信号をどのように感知して胞子形成初期過程を進行させるかについての分子遺伝学的解析を行った結果を述べたものであり、序章を含めて7章よりなる。 従来より、増殖には直接影響せず胞子形成が異常になるような突然変異株を分離することによって胞子形成遺伝子(spo)の同定や胞子形成過程の研究が進められてきた。本論文では、まづ増殖に必須な遺伝子であるsecAの欠損変異によって胞子形成過程の初期を含めて少なくとも3つの段階に影響が出ることを述べている。 次に、それまでに知られていたものの中でkinA遺伝子の転写誘導が胞子形成開始初期の最も早い時期、すなわち上流で起こっていることを背景として、kinA-lacZ融合遺伝子を用いることにより胞子形成の開始期初期過程における遺伝子発現の解析を行った。その結果、Hの量的増大("安定化")→kinAの発現→spoOAの発現誘導の順序で進行することが示された。すなわち、kinAの転写誘導の前に胞子形成初期特異的な転写開始因子、Hの量的増大が起こることが明らかにされた。さらに、kinAの発現誘導は過剰量のグルコース/グルタミンの存在により阻害される(カタボライト抑制)にもかかわらず、Hの量的な増大が起こっていること、またGMP合成酵素の阻害剤であり、細胞内のGTPレベルを減少させる働きを持つデコイニンを添加すると胞子形成のカタボライト抑制が解除されて、kinAの転写が起こることなどが分かった。一方、secA遺伝子やsecAとオペロンを形成しているprfB(翻訳終結制御因子RF2蛋白質の構造遺伝子)の胞子形成欠損変異株(secA12;prfB45)においては、Hの量的増大は起こるが、kinAの発現は起こらないことが示され、kinAの転写誘導にはHが量的な増大("安定化")した後、転写開始因子としての"活性化"が必要であることが示唆された。 Hの"活性化"の実体を明かにするため、H抗体を用いたウエスタン解析を行い、野生株における各増殖相の細胞についてHの存在形態を調べた。その結果、栄養増殖期細胞ではほとんどのHが低速遠心(15,000xg、10分)の可溶性画分(S)に存在するのに対し、胞子形成の極く初期には沈殿部分(P)に一旦移行し、胞子形成過程の進行に伴い、再び可溶性画分(S)に多く存在するようになること(これを便宜的にPS移行と呼ぶ)が分かった。主要シグマ因子であるAではこのような変動は起こらないことから、Hに特有の変化であることが分かった。 secAやprfB変異、ならびに過剰量のグルコース/グルタミンの添加(カタボライト抑制)により、HのPS移行が起こらなくなる。また、後者による阻害は、デコイニンの添加により回復する。さらにprfB欠損株では、Hは量的に増大しているが、半減期が短くなっており、不安定となっていること、PS移行が起こらず可溶性の(活性化された)Hがまったく検出されないことなどが分かった。これらのことから、Hは胞子形成開始とともに沈降係数数千の大きな複合体となって"安定化"し、その後胞子形成の進行に伴なって可溶性となることによってRNAポリメラーゼホロ酵素として働き得るように"活性化"されると想定された。この巨大複合体から可溶性のHを生じる"活性化"過程に、SecAやPrfBなどの必須遺伝子産物、さらにGTPレベルを感知する因子が関与していると考えられる。 以上、本論文は枯草菌における胞子形成の初期段階が細胞内外の信号を受信し、ダイナミックに状態変化する特異的転写開始因子(H)の活性化によって進行することを示したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判断した。 |