学位論文要旨



No 111962
著者(漢字) 朝井,計
著者(英字)
著者(カナ) アサイ,ケイ
標題(和) 枯草菌胞子形成開始期におけるシグマ因子(H)活性化機構の分子遺伝学的解析
標題(洋) Analysis of activation mechanism of sigma factor,H,at the initiation of sporulation in Bacillus subtilis
報告番号 111962
報告番号 甲11962
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1678号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,秀夫
 東京大学 教授 山崎,眞狩
 東京大学 教授 徳田,元
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 助教授 吉川,博文
内容要旨 1.はじめに

 枯草菌(Bacillus subtilis)の胞子形成は、細胞分化の単純なモデル系として、生理学的・遺伝学的・生化学的・分子生物学的等多方面から研究が行われている。胞子形成開始期には、転写調節因子であるSpoOA蛋白質の増加と活性化が胞子形成遺伝子の発現に中心的な役割を担っており、spoOA遺伝子の胞子形成特異的プロモーター(Ps)からの転写誘導並びにホスホリレー系(KinA→SpoOF→SpoOB→SpoOAとリン酸基が転移しSpoOA蛋白質が活性化される機構)による制御に依存している。一方、kinAの転写やspoOAのPsからの転写に関与する、胞子形成に特異的な転写因子(因子)、H蛋白質には、栄養増殖期から胞子形成期に入ると半減期が長くなることから、"安定化"機構が存在することが示唆されている。本研究は胞子形成という細胞分化の開始機構の全体像を把握することを目標に、細胞内外からの信号がどの様に感知・伝達され、上記のキーステップが始動するかのを明らかにしようとしたものである。

2.枯草菌secA遺伝子の胞子形成期における役割

 枯草菌secA341(div341)株は、栄養増殖期における細胞分裂の温度感受性変異株として取得されたが、高温で、胞子形成能、菌体外酵素の産生能、形質転換能等も欠損することが知られている。枯草菌secA遺伝子は、塩基配列・機能レベルでも、分泌蛋白質の膜透過装置の必須な構成成分をコードする大腸菌secA遺伝子のホモログと考えられている。従来の胞子形成研究は、胞子形成"特異的"遺伝子に関した解析が主流であった、分化誘導のトリガー因子は栄養増殖期にも働き、環境の変化等の信号を感知するものと考えられるので、増殖と胞子形成とは切り離しては考えられない。そこで増殖、胞子形成、両者に必須であるsecA遺伝子の胞子形成期における機能の解析を行った。低温(32℃)で培養したsecA341株を高温(39℃)にシフトした培養菌について、電子顕微鏡による胞子形成過程における形態変化並びにspoOA-lacZ融合遺伝子の発現の解析を行った。その結果、secA遺伝子は、1)胞子形成開始、2)非対称隔膜形成の開始、3)隔膜の伸張による前胞子の包み込みを伴う前胞子形成の3つの異なる時期に必要であり、胞子形成開始期においては、対数増殖期の終点(TO)の前後30分(T-0.5からT0.5)という極めて早い時期に、spoOAの転写誘導にsecA機能が必須であることが分った。しかし、ホスホリレー系を介した活発なspoOAの転写誘導はT1からであるので、secAはホスホリレー系より早い時期に胞子形成開始のトリガーとして機能しているものと考えられた。そこで次に同時期のプロセスの検討を試み、ホスホリレー系の主要蛋白質キナーゼをコードするkinA遺伝子の転写と、それに直接関与するHの"安定化"機構の解析を始めた。

3.胞子形成開始期におけるkinAの誘導とHの"安定化"機構の解析

 kinA-lacZ融合遺伝子を用いた解析から、kinAの転写誘導は、胞子形成に伴って誘導される遺伝子の中で最も早い時期(TO:spoOAの誘導よりも約1時間早い)に起こることが明らかとなった。また、ホスホリレーを構築するspoO遺伝子(spoOF・spoOB・spoOA)の変異は、kinAの転写誘導に顕著な影響を与えなかった。次に、抗H抗体を用いたウエスタンブロット解析を行った。野性株では胞子形成期に入ると対数増殖期よりも、細胞内のHの量が増大し"安定化"していると考えられる。この増大は、spoO変異株中でも見られた。これらのことより、胞子形成の開始はHの"安定化"→kinAの転写誘導→ホスホリレー系の成立→SpoOA蛋白質の増加と活性化の順に起こると考えられる。そこで、胞子形成(細胞分化)の開始機構の全体像を明らかにするという目的で、kinAの転写誘導を指標としたHの"安定化"機構の解析を始めた。

 胞子形成はグルコースによるカタボライト抑制を受け、その標的の1つはspoOAの転写誘導阻害であることが知られている。そこで、過剰の栄養源存在下でのkinAの転写誘導並びにH量の増大を解析した。kinAの誘導は、過剰のグルコースのみでは完全には抑制されず、同時に過剰のグルタミンを添加することによって顕著に抑制された。GMP合成酵素の阻害剤であり細胞内のGTPレベルを減少させ、胞子形成のカタボライト抑制を解除するデコイニンを添加することにより、このkinAの転写抑制は解除される。一方Hは、過剰のグルコース/グルタミン存在下でも胞子形成期に入り増大("安定化")が見られた。Hが"安定化"しているにもかかわらず、H・RNAポリメラーゼホロ酵素によるkinAの転写誘導が起きない理由は何か。過剰の栄養源存在下でも、未知の信号、機構によりHが"安定化"されるプロセスと、その後栄養源の枯渇を感知し、HをRNAポリメラーゼホロ酵素として機能させるプロセス(H"活性化"機構)に分ければ説明がつくと考えた。kinAの転写誘導を直接に調節するH以外の因子が存在する可能性も否定できない。しかし、研究の進行につれ、"活性化"機構の存在が示唆されたことから、本研究では、Hの"活性化"機構の解析を主題とした。

4.kinAの誘導とHの"活性化"機構におけるsecA遺伝子の役割

 secA341株で、kinA-lacZ融合遺伝子を用いた温度シフトの解析から、T-0.5からT0.5にkinAの転写誘導にSecAが必要であることが分かった。しかし、secA341株は栄養増殖も温度感受性な株であるので、増殖に影響を与えず胞子形成を阻害するsecA変異の単離を試み、新たにsecA12変異を得た。secA12株は50℃でも栄養増殖の温度感受性は見られなかった。また、栄養増殖期のsecA12変異細胞を観察したところ、DNA分配(DAPI染色)、細胞分裂、細胞形態に異常は見られなかった。ところが胞子形成の開始期に、Hの蓄積は野生株同様みられたもののsecA12株ではkinAの誘導は起こらなかった。このことは、secAが胞子形成への遷移期におけるHの"活性化"機構に関与することを示唆している。

5.kinAの誘導とHの"活性化"機構におけるprfB遺伝子の役割

 枯草菌ではsecAオペロン内の下流に、翻訳の終結を制御するRF2蛋白質(peptide chain release factor 2)をコードしている大腸菌のprfBと相同な遺伝子が存在している。胞子形成開始期におけるprfBの機能を解明する目的で、胞子形成能を欠損したprfB変異株の取得を試み、prfB45変異を単離した。prfB45変異株は50℃では増殖しなかったが、増殖に影響のない37℃では胞子形成率が著しく減少し、この温度ではkinAの誘導は起こらなかった。また胞子形成開始期におけるH蛋白質の安定性が野性株より劣っていた。さらに、prfB45の胞子形成能およびkinAの転写誘導能の欠損変異をサプレスするような変異を単離・同定したところ、RNAポリメラーゼのサブユニットをコードするrpoB遺伝子の変異であることが分かった。これらのことから、H蛋白質の"安定化""活性化"及びkinAの誘導と翻訳終結の制御機構(prfB)とは、胞子形成期に共役していることが強く示唆された。

6.胞子形成期におけるHの"安定化"・"活性化"機構の解析

 それでは、secA及びprfB遺伝子産物とHの"活性化"機構はどう関わっているのだろうか。この一見無関係とも思える現象を説明できる可能性が、一つの実験結果より得られた。枯草菌野生株の細胞破砕液を15,000rpmの低速遠心により沈殿画分と上清画分に分画しHの蛋白量を、胞子形成誘導中、経時的に追跡したところ、栄養増殖細胞では大半が上清画分に見られ、胞子形成の極く初期には沈殿画分に多く存在し、その後再び上清画分のH量が増大することが観察された。同様の実験を、主要因子であるAに対する抗体で行ったところ、Aは常に可溶性画分に多く検出された。secA12、prfB45両変異株では胞子形成開始後のHの沈殿画分から上清画分への移行が起こらなかった。特に胞子形成期にHが不安定になっているprfB45変異株では、上清画分にHはほとんど検出されなかった。また、過剰量のグルコース/グルタミン存在下でも、Hは胞子形成の極く初期には沈殿画分に検出されたが、その後の上清画分への移行は阻害されていた。この阻害はデコイニンの添加によって解除された。

 これらのことから、Hには、胞子形成開始とともに、低速遠心によって沈殿するような沈降係数千S程の巨大な複合体を形成して"安定化"され、その後胞子形成開始の進行を指示する細胞内外のシグナルにより、RNAポリメラーゼホロ酵素のような可溶性の状態となり"活性化"される機構があることが示唆される。

7.おわりに

 細胞が分化を開始するには、細胞分裂・細胞内輸送(secA)、翻訳(prfB)等の生理活動を質的に変換させる必要があると考えられる。本研究で、Hの"活性化"は、これらの細胞のダイナミックな生理活動からの細胞内外の情報が、巨大複合体形成により精緻に集約された、巧妙な胞子形成開始機構であることが示唆された。遺伝学的にも分子生物学的にも詳細な解析の可能な枯草菌の胞子形成開始期における巨大複合体機能の解析から得られる知見は、細菌のみならず、真核細胞における細胞分化の開始機構の解明への重要な手掛かりを与えるものと期待される。

審査要旨

 枯草菌(Bacillus subtilis)の胞子形成は、細胞分化のモデル系として生理学的・分子遺伝学的な解析が進められている。胞子形成開始期には特異的転写因子SpoOAとシグマ因子Hの最的・質的変化を介して、開始期に特異的な遺伝子の逐次的発現が進行すると考えられている。そこでは、spoOA遺伝子の胞子形成期に特異的なプロモーター(Ps)からの転写誘導やホスホリレー系(KinAプロテインキナーゼなどを含む)によるSpoOAの活性化、さらにHの安定化などが関わる複雑なネットワーク機構が働いていると想定されている。

 本論文は、枯草菌細胞が細胞内外からの信号をどのように感知して胞子形成初期過程を進行させるかについての分子遺伝学的解析を行った結果を述べたものであり、序章を含めて7章よりなる。

 従来より、増殖には直接影響せず胞子形成が異常になるような突然変異株を分離することによって胞子形成遺伝子(spo)の同定や胞子形成過程の研究が進められてきた。本論文では、まづ増殖に必須な遺伝子であるsecAの欠損変異によって胞子形成過程の初期を含めて少なくとも3つの段階に影響が出ることを述べている。

 次に、それまでに知られていたものの中でkinA遺伝子の転写誘導が胞子形成開始初期の最も早い時期、すなわち上流で起こっていることを背景として、kinA-lacZ融合遺伝子を用いることにより胞子形成の開始期初期過程における遺伝子発現の解析を行った。その結果、Hの量的増大("安定化")→kinAの発現→spoOAの発現誘導の順序で進行することが示された。すなわち、kinAの転写誘導の前に胞子形成初期特異的な転写開始因子、Hの量的増大が起こることが明らかにされた。さらに、kinAの発現誘導は過剰量のグルコース/グルタミンの存在により阻害される(カタボライト抑制)にもかかわらず、Hの量的な増大が起こっていること、またGMP合成酵素の阻害剤であり、細胞内のGTPレベルを減少させる働きを持つデコイニンを添加すると胞子形成のカタボライト抑制が解除されて、kinAの転写が起こることなどが分かった。一方、secA遺伝子やsecAとオペロンを形成しているprfB(翻訳終結制御因子RF2蛋白質の構造遺伝子)の胞子形成欠損変異株(secA12;prfB45)においては、Hの量的増大は起こるが、kinAの発現は起こらないことが示され、kinAの転写誘導にはHが量的な増大("安定化")した後、転写開始因子としての"活性化"が必要であることが示唆された。

 Hの"活性化"の実体を明かにするため、H抗体を用いたウエスタン解析を行い、野生株における各増殖相の細胞についてHの存在形態を調べた。その結果、栄養増殖期細胞ではほとんどのHが低速遠心(15,000xg、10分)の可溶性画分(S)に存在するのに対し、胞子形成の極く初期には沈殿部分(P)に一旦移行し、胞子形成過程の進行に伴い、再び可溶性画分(S)に多く存在するようになること(これを便宜的にPS移行と呼ぶ)が分かった。主要シグマ因子であるAではこのような変動は起こらないことから、Hに特有の変化であることが分かった。

 secAやprfB変異、ならびに過剰量のグルコース/グルタミンの添加(カタボライト抑制)により、HのPS移行が起こらなくなる。また、後者による阻害は、デコイニンの添加により回復する。さらにprfB欠損株では、Hは量的に増大しているが、半減期が短くなっており、不安定となっていること、PS移行が起こらず可溶性の(活性化された)Hがまったく検出されないことなどが分かった。これらのことから、Hは胞子形成開始とともに沈降係数数千の大きな複合体となって"安定化"し、その後胞子形成の進行に伴なって可溶性となることによってRNAポリメラーゼホロ酵素として働き得るように"活性化"されると想定された。この巨大複合体から可溶性のHを生じる"活性化"過程に、SecAやPrfBなどの必須遺伝子産物、さらにGTPレベルを感知する因子が関与していると考えられる。

 以上、本論文は枯草菌における胞子形成の初期段階が細胞内外の信号を受信し、ダイナミックに状態変化する特異的転写開始因子(H)の活性化によって進行することを示したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判断した。

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