学位論文要旨



No 111963
著者(漢字) 江藤,亜紀子
著者(英字)
著者(カナ) エトウ,アキコ
標題(和) プロテインキナーゼCのダウンレギュレーションの機構と意義の解析
標題(洋)
報告番号 111963
報告番号 甲11963
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1679号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 野口,忠
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 助教授 阿部,啓子
 東京大学 助教授 石浦,章一
内容要旨 1.序論

 プロテインキナーゼC(PKC)は、生体内の情報伝遣系の中枢を占めるセリン/スレオニンリン酸化酵素で、細胞の増殖、分化、分泌などの基本的な生命現象に深く関与していると考えられている。細胞をホルモンや増殖因子などで刺激すると、受容体と共役したG蛋白質を介してホスホリパーゼC(PLC)が活性化され、細胞内のイノシトールリン脂質代謝が昂進する。その結果生じたジアシルグリセロール(DG)やイノシトール三リン酸(IP3)によって動員されたカルシウムなどのセカンドメッセンジャーでPKCは活性化される。刺激に対する応答として、PKCは細胞質から生体膜への移行(トランスロケーション)、細胞内からの消失(ダウンレギュレーション)、SDS-PAGE上での移動度の減少(バンドシフト)などの挙動を示すことがあり、これらの現象はアイソザイム特異的に起こることからPKCの活性化の指標と考えられている。

 分子生物学的な解析から、現在までに10種類以上のアイソザイムが発見されており、一次構造と活性化因子依存性によって3つのサブファミリー、cPKC(カルシウム/ジアシルグリセロール依存性)、nPKC(カルシウム非依存性、ジアシルグリセロール依存性)、aPKC(カルシウム/ジアシルグリセロール非依存性)に分類されている。各アイソザイムは組織や細胞で異なった分布や発現量を示し、ホルモンや増殖因子などに対しての応答も様々であることから、細胞内で各アイソザイムが固有の役割をはたしていることが想像されるが不明な点が多い。

 ラット下垂体由来GH4C1細胞では6種類のPKC(cPKC:,;nPKC:,,;aPKC:)が発現している。この細胞は、甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン(TRH)によってプロラクチン(PRL)を分泌する。TRHの刺激によって、が膜へ移行するが、これらのアイソザイムのうち、nPKCのみが選択的にダウンレギュレーションを受ける。また、nPKCを通伝子導入によって高発現させた細胞ではTRHによるPRLの分泌の昂進が見られることから、nPKCがPRLの分泌過程に重要であると考えられている。

 本研究では、細胞内情報伝遣系におけるPKCのダウンギュレーションの生理的意義を明らかにするため、GH4C1細胞を用いて、nPKCの選択的消失の機構について解析し、更にPRLの分泌過程におけるnPKCのダウンレギュレーションの意義について検討した。

2.結果(1)TRHによるnPKCのダウンレギュレーションに関与するプロテアーゼの同定

 GH4C1細胞においてTRH刺激によるnPKCの選択的減少は蛋白質合成の阻害ではなく、分解促進によることが示されている。そこで、まず、この分解過程に関与するプロテアーゼを推定するために低分子量のプロテアーゼ阻害剤(o-phenanthroline,phosphoramidon,pepstatin,TLCK,TPCK,leupeptin,ALLNal,E-64d)を用いて細胞を処理し、nPKCのダウンレギュレーションに対する抑制効果を調べた。その結果、システインプロテアーゼの阻害剤であるALLNalのみがダウンレギュレーションを阻害した。ALLNalは、細胞内システインプロテアーゼであるカルパインの阻害剤として開発されたものであるが、プロテアソームやカテプシン類も阻害する。そこで、カルパインに対して異なる作用様式で阻害効果を示すPD150606を用いたところ、ALLNalと同様にnPKCのダウンレギュレーションを阻害した。これら2種の阻害剤は濃度依存的阻害効果を示し、ダウンレギュレーションに先立つトランスロケーションを阻害しないことから、カルパインの活性を抑えることにより、nPKCの分解を特異的に阻害していると考えられた。さらに、より特異的な阻害剤として、カルパインの内在性の阻害蛋白質であるカルパスタチンの活性中心に対応する27残基のペプチド(カルパスタチンペプチド)を作成して細胞内に導入したところ、コントロールとして用いたスクランブルペプチドはまったく効果がなかったのに対して、カルパスタチンペプチドはダウンレギュレーションを抑制した。カルパスタチンはカルパイン以外のプロテアーゼは阻害しない。以上の結果からTRHによるnPKCの選択的ダウンレギュレーションはカルパインによる分解促進であることが示された。

(2)GH4C1細胞のカルパイン-カルパスタチン系

 カルパインはカルシウム依存性の細胞内システインプロテアーゼで、試験管内でのカルシウム要求性の異なるm-カルパイン(mM濃度のカルシウムが必要)、-カルパイン(M濃度のカルシウムが必要)のアイソザイムの存在が報告されている。そこで、まず、GH4C1細胞に存在するカルパイン、カルパスタチンについて酵素学的、免疫化学的に検討した。陰イオン交換カラムを用いて細胞抽出液を分離し、カルシウム依存性のカゼイン分解活性を測定したところ、m-、-、両カルパインアイソザイムとカルパスタチンの活性が認められ、カルパスタチンはカルパインの約3倍の活性が存在した。次に、TRHに対応したこれらの蛋白質の変化を調べたところ、m-カルパインの膜結合量の増加、および、カルパスタチンの量的質的変化が認められた。カルパインはPKCと同様に膜へ移行して活性化すると考えられており、この結果は、TRHによるm-カルパインの活性化を示唆する。また、カルパスタチンの量的増加はSDS-PAGE上移動度の遅い分子種において特に顕著であり、TRHの刺激によって、リン酸化などの何らかの修飾をうけたことが示唆される。カルパスタチンの量的、質的変化はカルパインの活性が上昇したことに対するネガティブフィードバック機構であると考えられ、両者が共同してTRH刺激によるnPKCの選択的消失を厳密に制御していると考えられる。

(3)PRL分泌過程におけるnPKCのダウンレギュレーションの意義

 PKCのダウンレギュレーションの生理的意義を明らかにすることを目的として、nPKCのダウンレギュレーションを阻害したときのPRLの分泌について検討した。TRHによるPRLの分泌は、細胞内の顆粒に蓄積していたPRLの刺激直後の分泌と、刺激によって新たに合成されたPRLの分泌との2相に分類できる。ALLNalで細胞を処理してnPKCのダウンレギュレーションを阻害すると、前者の分泌は変化がなかったのに対して、後者の合成を介する分泌のみが阻害された。また、このときTRHによる細胞内のPRLの蛋白量の増加が抑制されていたが、mRNA量はむしろ増加していた。TRHはPRLの遺伝子からmRNAへの転写、mRNAの細胞内蓄積、蛋白質への翻訳過程などの各段階を促進することが報告されており、PKCのダウンレギュレーションはPRLのmRNAレベルでの制御に関与している可能性が示唆された。

3.考察

 本研究で、各種プロテアーゼ阻害剤を用いた結果から、nPKCのダウンレギュレーショシにカルパインが関与していることが示唆された。TRH刺激によって、nPKCのダウンレギュレーションが顕著に認められる時期に一致してm-カルパインの膜への移行が認められた。また、カルパインの阻害蛋白質であるカルパスタチンの質的、量的変化も認められた。これらの結果は、カルパインーカルパスタチン系がTRHの情報伝達系の構成成分であり、生体膜において、両者が共同してnPKCのダウンレギュレーションを厳密に制御していると考えられる。

 PKCは試験管内ではカルパインによって限定分解され、制御領域とキナーゼ領域を連結する部位が切断される。生じたキナーゼ領域(PKM)は単独で活性化因子非依存性のキナーゼ活性を持つ。PKCが生体膜で活性化されるのに対し、PKMは膜を離れても活性を持つので、インタクトなキナーゼがリン酸化しない細胞質の蛋白質を基質とすることができる。PKMはGH4C1細胞内では検出されなかったが、これは細胞内でのPKMの分解が速すぎて検出できなかったのか、あるいは、生理的刺激によるnPKCのカルパインによる限定分解が試験管内とは異なる部位で起こるのかは不明である。ダウンレギュレーションは役割を果たした酵素の単なる分解過程であるのか、PKMを産生する過程であるのか結論が出ていない。本研究ではTRHによるPRLの分泌過程において、nPKCのダウンレギュレーションの阻害はTRHによって誘導されるPRLの蛋白質合成を介した分泌を抑制する事を示した。この結果は、PKCのダウンレギュレーションがPRLのmRNAレベルの翻訳促進のシグナルである可能性を示唆するものであり、特定のキナーゼ活性の消失ということが情報伝達系におけるシグナルの一つである可能性を示すことができたと考える。

 今後、ダウンレギュレーションの分子レベルでの機構とPRL分泌過程における意義を明らかにするためには、キナーゼ活性や活性化因子依存性を変化させた変異遺伝子を用いるなどの解析が必要と思われる。

審査要旨

 プロテインキナーゼC(PKC)は、細胞内情報伝達系の中枢を占めるセリン/スレオニンリン酸化酵素で、細胞の増殖、分化、分泌、形態変化などの基本的な生命現象に深く関与している。ホルモンやホルボールエステルなどの細胞外刺激によって、特定のPKCアインザイムが細胞内から消失することがあり、ダウンレギュレーションと呼ばれている。選択的消失(ダウンレギュレーション)は、蛋白質合成の抑制ではなく、分解の促進であることが示されており、その機構や意義は不明であるが、PKCの活性化の指標の1つとされている。本論文は、ラット下垂体腫瘍由来GH4C1細胞を用いて、生理的刺激によるPKCのダウンレギュレーションの機構と情報伝達系における意義について検討したものであり、緒言に当たる第1章と終章の総合討論に当たる章を合め5章より構成されている。第1章ではこのような本研究の背景と目的を述べたものである。

 第2章では、GH4C1細胞において、甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン(TRH)の刺激によって起こるnPKCのダウンレギュレーションに関与するプロテアーゼを同定している。GH4C1細胞では、6種類のPKCアイソザイム(cPKC:,;nPKC:,,;aPKC:)が発現しており、このうち、TRHによってnPKCのみがダウンレギュレーションされる。種々の低分子量プロテアーゼ阻害剤の効果を検討したところ、システインプロテアーゼの阻害剤であるAc-Leu-Leu-Nle-al(ALLNal)がダウンレギュレーションを阻害した。ALLNalは、細胞内システインプロテアーゼであるカルパインの阻害剤として開発されたものであることから、さらに、新規のカルパイン阻害剤(PD150606)と特異的阻害剤である合成ペプチド(カルパスタチンペプチド)を用いて、カルパインがTRHによるnPKCのダウンレギュレーションに関与していることを明らかにしている。これは、今まで報告されているPKCのダウンレギュレーションの機構に関する研究が、ホルボールエステルなどの薬理的刺激を用いた非特異的なものであるのに対して、生理的刺激によって起こるダウンレギュレーションの機構を明らかにした最初の例である。

 第3章ではGH4C1細胞のカルパインーカルパスタチン系について酵素学的、免疫学的に解析している。この細胞にm-カルパイン(試験管内で活性化にmM濃度のカルシウムが必要)、-カルパイン(M濃度のカルシウムが必要)の両アイソザイムのカルパインと、内在性阻害蛋白質であるカルパスタチンが存在することを初めて明らかにした。さらに、TRHの刺激によって、活性化の指標であるm-カルパインの膜結合量が増加すること、および、カルパスタチンがアップレギュレーションされることを見いだし、TRHの情報伝達系で、両者が共同してnPKCのダウンレギュレーションを制御していることを示した。

 第4章では、nPKCのダウンレギュレーションの生理的意義を明らかにすることを目的として、nPKCのダウンレギュレーションを阻害したときのPRLの分泌について検討している。TRHによるPRLの分泌は、細胞内の顆粒に蓄積していたPRLの刺激直後の分泌と、刺激によって新たに合成されたPRLの分泌との2相に分類できる。ALLNalで細胞を処理してnPKCのダウンレギュレーションを阻害すると、前者の分泌は変化がなかったのに対して、後者の合成を介する分泌のみが阻害された。また、このときTRHによる細胞内のPRLの蛋白量の増加が抑制されていたが、mRNA量はむしろ増加していた。TRHはPRLの遺伝子からmRNAへの転写、mRNAの細胞内蓄積、蛋白質への翻訳過程などの各段階を促進するが、本章では、以上の結果から、nPKCのダウンレギュレーションがPRL合成のmRNAレベルでの制御に関与している可能性を示している。

 第5章では、以上の結果に基づき、他の報告もふまえて、nPKCのダウンレギュレーションの機構、選択性、生理的意義について全体的な考察をしている。

 以上、本論文は、生化学的、細胞生物学的手法を用いてPKCの選択的減少の機構を明らかにし、さらに、その生理的意義について解析したものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は、申請者に博士の学位(農学)を授与してしかるべきものと判断した。

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