学位論文要旨



No 111969
著者(漢字) 井上,暁夫
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,アキオ
標題(和) 窒素固定細菌Azospirillum lipoferumの窒素固定活性の制御機構に関する研究
標題(洋) Studies on the regulatory system of nitrogen-fixation in Azospirillum lipoferum
報告番号 111969
報告番号 甲11969
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1685号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 魚住,武司
 東京大学 教授 茅野,充男
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 助教授 正木,春彦
内容要旨

 窒素は農作物の生育を最も強く支配するため、農業生産にとって極めて重要な養分である。今日では窒素肥料の供給はほとんどがHarber-Bosch法による工業的なアンモニア合成に依存している。しかし、化学合成の際のエネルギー源である石油などの枯渇に関する危機感や化学肥料の大量投入による地力の低下、さらには化学肥料の流出による周辺の環境汚染の問題などが指摘されていることから、近年では土壌細菌による生物窒素固定の重要性が見直されている。その主体を担う窒素固定細菌としてはマメ科植物と共生する根粒菌が有名であるが、稲、麦、トウモロコシなど非マメ科作物の根圏にも窒素固定能を持つAzospirillum属細菌などが生息することが明らかとなっている。そこで著者は、Azospirillumの窒素固定能の強化による有効な微生物肥料の開発を最終目標として、同菌の窒素固定能の制御機構に関する研究を行った。

 Azospirillum属細菌のうち、A.lipoferum,A.brasilenseはDRAT(dinitrogenase reductase ADP-ribosyltransferase)およびDRAG(dinitrogenase reductase-activating glycohydrolase)による、ニトロゲナーゼの酵素活性レベルでの調節機構を有する。DRATはNH4+の存在下でジニトロゲナーゼレダクターゼにADP-ribosyl基を付加し、これによりニトロゲナーゼ複合体の活性が阻害され窒素固定は停止する。NH4+が欠乏するとDRAGがADP-ribosyl基を除去し、窒素固定活性が復活する。すなわち、外界のNH4+濃度に応じた迅速かつ可逆的なニトロゲナーゼ活性の制御(NH4+switch-off/on)が起こる。この制御はグルタミンの投与によっても起きることが知られている。当研究室では既にA.lipoferumにおける窒素固定遺伝子群の転写促進因子NifAによる転写レベルの窒素固定能の制御機構の研究を進めている。しかし、完全な窒素固定能の強化をはかるためには上記の翻訳後のレベルの制御機構の解析も不可欠である。

1.draT,draG遺伝子のクローン化と塩基配列の決定

 まず、当研究室所有のA.lipoferumの3株とA.brasilenseの1株を無窒素液体培地にて微好気的条件で培養し、アセチレン還元能を指標に窒素固定活性の測定を行い、NH4+の投与による可逆的で速やかな阻害が起きることを4株全てにおいて確認した。次に、Fuらがクローン化したA.lipoferum SpBr17のdraT,draGをプローブとしてゲノムDNAのサザンハイブリダイゼーションを行ったところ、4株ともに強度に差はあるもののバンドが検出され、draT,draG遺伝子の存在が確認された。そこで、最も強いハイブリダイゼーションを示したA.lipoferum FSを選び、両遺伝子をコードする6.7kb SalI断片をクローン化した。

 クローン化した断片のうち2.9kbの領域の塩基配列を決定したところ、3つの同一方向のopen reading frame(ORF)が確認された。各ORFは、それぞれ295,297,143アミノ酸をコードする。このうち最初の2つのORFがコードする蛋白質は、光合成細菌Rhdospirillum rubrumのDRAT,DRAGとそれぞれ50%,63%の相同性を示した。また、A.brasilenseのDRAT,DRAGとは共に98%の相同性を示したことから、これらをdraT,draG遺伝子であると結論した。これらの遺伝子はdraGの下流の第3の遺伝子(orf3)と共に互いに近接しており、同一オペロン(draオペロン)として発現していると考えられる。また、draTの上流約500bpの領域内にdraオペロンのプロモーターが存在すると推定した。

2.draT,draGのKlebsiella oxytocaでの発現

 クローン化したdraT,draG遺伝子の機能の確認のために、これらの遺伝子を本来draT,draGによる制御機構を持たない窒素固定細菌Klebsiella oxytoca NG13に導入し、窒素固定能への影響を調べた。クローン化した6.7kb SalI断片のうち、draTの上流110bpからdraGの下流7bpまでを含む1.9kbの断片、またはdraTの上流110bpからorf3の下流0.8kbまでの3.1kbの断片をtacプロモーターの下流に連結したプラスミドを作製し、それぞれをK.oxytoca NG13に導入した。得られた形質転換体を無窒素培地にて嫌気的条件で培養して窒素固定能を誘導し、NH4+の投与による窒素固定活性の変化を調べた。ベクターのみを導入したK.oxytoca NG13はNH4+を加えても窒素固定能は全く変化しなかったが、draT,draGを導入したものおよびorf3も含めて導入したものは、A.lipoferum FSと同様に外から加えたNH4+に応じた可逆的な窒素固定活性の阻害を起こした。なお、同様にtacプロモーターを用いてdraTのみ、あるいはdraTとorf3をK.oxytoca NG13内で発現させた場合には、NH4+の非存在下でも窒素固定能の著しい阻害が見られた。

 以上の実験において、ORF3の有無がDRAT,DRAGの機能に与える顕著な差異は観察されなかった。ORF3はDRAT,DRAGの制御において特に必須ではないと考えられる。

3.draT,draGの発現の制御

 draオペロンの発現の制御を次の方法で解析した。draTのN末側212コドンをlacZの6番目のコドンにin-frameで連結して作成したdraT::lacZ融合遺伝子とdraTの上流域3.0kbとからなる6.7kbの断片を、広宿主域ベクターpKT230にクローン化してA.lipoferum FSに導入した。得られた形質転換体を、5mMグルタミン酸(窒素固定誘導条件)または20mM NH4Cl(窒素固定抑制条件)を含む最少培地にて好気的または微好気的条件で培養し、-galactosidase活性を指標にdraT::lacZ遺伝子の発現の有無を調べた。その結果、微好気的条件においてはいずれの窒素条件でもほぼ同等の-galactosidase活性が認められ、好気的条件ではいずれの場合も活性を検出できなかった。この結果より、draオペロンの発現は外界の酸素濃度によって制御され、NH4+の有無による制御は受けていないことがわかった。

4.NH4+存在下でも窒素固定能を示す変異株の取得とその性質の解析

 著者は次の方法によって、NH4+の存在下でも窒素固定能を示すA.lipoferum FS由来の変異株TA1を得た。K.oxytoca NG13由来のnifAをトランスポゾンTn5のカナマイシン抵抗性(Kmr)遺伝子の下流に挿入し、Tn5 mutagenesisの手法によりA.lipoferum FSのゲノムに転移させた。得られたtransposant TA1はNH4+-freeの液体最少培地にて微好気的条件下で窒素固定能を誘導した後にNH4+を加えると、野生株FSと同様にDRAT/DRAGによる可逆的な窒素固定活性の制御を示した。ところが、40mMのNH4Clを含む軟寒天培地にて微好気的条件で培養すると、draTの発現する条件であるにも関わらず、NH4+-freeの軟寒天培地で培養した場合と比べて20%程度の窒素固定活性の残存(脱抑制)を示した。この脱抑制は、Kmr遺伝子のプロモーターにより構成的に産生されているNifAの作用によって生成されたニトロゲナーゼが、何らかの原因によってDRATによる阻害を免れていることを示している。

 次に、TA1をNH4+-freeまたはNH4+-rich(NH4Clを10mM添加)な液体最少培地にて微好気的に培養し、それぞれ窒素固定能を発現させた後に種々のアミノ酸を加え、窒素固定活性への影響を調べた。その結果、NH4+-freeな条件で誘導された窒素固定能は1mMのグルタミン、アラニン、アルギニンまたはアスパラギンの投与により速やかな阻害を受けた。ところが、NH4+-richな条件で発現した窒素固定活性の場合には、これらのアミノ酸を投与しても活性は全く変化しなかった。

 以上の結果より、NH4+-richな状態で発現したニトロゲナーゼ活性は、NH4+やアミノ酸に応じた翻訳後レベルの制御を全く受けないことが示された。

5.まとめ

 本研究により、窒素固定細菌Azospirillum lipoferum FSのDRAT,DRAGは微好気的条件下で常に産生されていることが示唆された。A.lipoferum FSおよびdraT,draGを導入したK.oxytocaにおいて示されたNH4+による窒素固定能の制御は、これらの酵素がNH4+濃度に応じた翻訳後レベルの制御を受けて引き起こした現象であると考えられる。一方、NH4+-richな条件下で発現したDRATは、A.lipoferum TA1を用いた解析の結果より、何らかの原因によってニトロゲナーゼを制御する能力を失っていると考えられる。DRAT,DRAG自体の活性の制御機構の全貌は未だ明らかにされていないが、A.lipoferum TA1の今後のさらなる解析はこの制御機構の解明について重要な知見をもたらすと期待できる。

審査要旨

 本論文はイネの根圏に生息する窒素固定菌Azospirillum lipoferumの窒素固定能の制御機構について研究したものであり、7章より成っている。

 第1章は序章であり、窒素固定菌の遺伝子の構造と発現制御に関する従来の知見をまとめると共に、イネ根圏の窒素固定菌の重要性について論じている。

 第2章では、4株のAzospirillum属細菌の窒素固定能が外から加えるNH4+の濃度に応じて可逆的に制御されることを観察し、窒素固定酵素(ニトロゲナーゼ)の酵素活性レベルでの調節機構がこれら4株にも存在することを見出した。さらに、この調節に直接に関わっていると考えられる2種の酵素DRAT(dinitrogenase reductase ADP-ribosyltransferase)とDRAG(dinitrogenase reductase-activating glycohydrolase)の遺伝子draTとdraGをプローブとしてSouthern hybridizationを行い、4種の菌株すべてにおいて、両遺伝子を含むと考えられるDNA断片を検出した。

 第3章では、第2章の実験で最も強いSouthern hybridizationを示したA.lipoferum FS株からdraT、draG遺伝子を含む6.7kb SalI断片をクローン化し、その塩基配列を決定することにより、両遺伝子がオペロン構造を成していることを明らかにした。

 第4章では、窒素固定能の酵素活性レベルでの調節機構を本来持たないKlebsiella oxytocaにdraT、draG遺伝子を導入して発現させ、窒素固定活性への影響を調べた。すなわち、クローン化した6.7kb SalI断片のうち、draTおよびdraGの全域を含む1.9kbの断片をtacプロモーターの下流に連結したプラスミドを作製し、K.oxytoca NG13に導入した。得られた形質転換体を無窒素培地にて嫌気的条件で培養して窒素固定能を誘導し、NH4+の投与による窒素固定活性の変化を調べた。ベクターのみを導入した K.oxytoca NG13はNH4+を加えても窒素固定能は全く変化しなかったが、draT、draGを導入したものでは A.lipoferum FSと同様に外から加えたNH4+に応じた可逆的な窒素固定活性の阻害を起こした。

 第5章ではA.lipoferumでのdraT、draG遺伝子の発現の制御について解析している。すなわち、draTのN末側212コドンをlacZの6番目のコドンにin-frameで連結して作成したdraT::lacZ融合遺伝子とdraTの上流域3.0kbとからなる6.7kbの断片を、広宿主域ベクターpKT230にクローン化してA.lipoferum FSに導入した。得られた形質転換体を、5mMグルタミン酸(窒素固定誘導条件)または20mM NH4Cl(窒素固定抑制条件)を含む最少培地にて好気的または微好気的条件で培養し、-galactosidase活性を指標にdraT::lacZ遺伝子の発現の有無を調べた。その結果、微好気的条件においてはいずれの窒素条件でもほぼ同等の-galactosidase活性が認められ、好気的条件ではいずれの場合も活性を検出できなかった。この結果より、draオペロンの発現は外界の酸素濃度によって制御され、NH4+による制御は受けていないことを明らかにした。

 第6章ではNH4+やアミノ酸の存在下でも窒素固定能を示すA.lipoferumの改良株を作成し、その性質を解析した。すなわち、K.oxytoca NG13由来の窒素固定遺伝子の転写活性化遺伝子nifAをトランスポゾンTn5のカナマイシン抵抗性(Kmr)遺伝子の下流に挿入し、Tn5の転移を利用して A.lipoferum FSのゲノムに挿入した。得られたtransposant TA1株について軟寒天培地で窒素固定能を測定したところ、野生株FSの窒素固定能の発現を抑制するNH4+やグルタミン、アスパラギン、アルギニンの存在下でもNH4+-freeで培養した場合と比べて20%ないしは40%の窒素固定活性の残存(脱抑制)を示した。この脱抑制は、Kmr遺伝子のプロモーターにより構成的に産生されているNifA蛋白の作用によるものと考えられる。また、TA1株をNH4+-freeの液体最少培地にて微好気的条件下で培養し、窒素固定能を誘導した後にNH4+や前述のアミノ酸を加えると、野生株FSと同様にDRAT活性によると思われるニトロゲナーゼ活性の阻害が観測された。一方、NH4+-rich(NH4Clを10mM添加)な液体最少培地にてTA1株の窒素固定能を発現させた場合には、NH4+やアミノ酸を投与しても活性は全く変化しなかった。以上の結果は、NH4+-richな条件下で培養したA.lipoferum内ではDRAT/DRAG制御系が機能していないことを示唆している。

 第7章では本研究全体を総括し、将来の展望について論じている。

 以上本論文は、イネ根圏の窒素固定菌A.lipoferumの窒素固定能の制御機構を解析し、新しい知見をもたらすとともに、有用な窒素固定能強化株を造成したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク