本論文は、糸状菌のキチン分解酵素の構造と生理機能について遺伝・生化学的に解析し、また、糸状菌の細胞壁の形成機構についての研究を行ったものである。 第一章では、産業上利用される有用菌株である接合菌類の糸状菌Rhizopus niveusの3-ホスホグリセレートキナーゼ2をコードするpgk2遺伝子のプロモーター領域の解析から、転写活性を100倍程度上昇させる21bpからなるUASを接合菌類の遺伝子としては初めて発見した。 第二章では、R.niveusよりleu1遺伝子を単離した。これを選択マーカーとして用いることによって、これまでの形質転換用ベクターのいずれよりも形質転換頻度が高く、導入されたDNAの宿主内での安定性が上昇したベクターを構築することに成功した。 第三章では、R.oligosporusのchitinase I(Chi I)及びその対立遺伝子産物ChiIIの生理機能の解明を目的に、抗ChiI抗体を用いたウエスタン解析を行い、ChiIは菌糸の生長が少ない培養後期にのみ発現することを示した。一方、胞子形成はChiIの発現がグルコースによって抑制した時にも変化がなく、また、培養後期に見られる菌糸の自己溶菌が起こる条件と同様に、ChiIの発現は空気の存在とグルコースの欠乏が必要であることを示唆した。これらの結果から、ChiIは主として菌糸の自己溶菌に関与することを示唆した。 第四章では、R.oligosporusの菌糸生長期の菌体内よりChi I、Chi IIとは異なる第3のキチン分解酵素であるchitinase III(Chi III)を3種のカラムクロマトグラフィーを用いてSDS-PAGE上単一にまで精製した。更に、Chi IIIの部分アミノ酸配列を決定し、推定DNA配列をプライマーとしてPCRを行い、得られた断片を用いてChi IIIをコードする遺伝子chi3を単離した。ノーザン解析の結果、培養後期に誘導発現されるChi Iとは異なり、chi3は増殖が盛んな細胞で発現していることから、Chi IIIが菌糸型生長に関与する可能性を示唆した。Chi IIIは、R.oligosporus Chi Iなどの菌類型のキチナーゼよりもむしろ細菌型のキチナーゼと高い相同性を示した。これらの結果から、糸状菌において菌類型と細菌型のキチナーゼが異なる機能を担っていることを示唆した。 第五章では、遺伝学的な取り扱いが容易なAspergillus nidulansより菌類型キチナーゼであるchiA、細菌型キチナーゼであるchiB遺伝子をそれぞれのタイプのキチナーゼ間で保存された配列を用いたPCR法をもとに単離し、A.nidulansにおいても2つのタイプのキチナーゼが存在することを示した。このうち、chiAの生理機能の詳細な解析を試みた。-galactosidaseをレポーター酵素としてchiAの発現制御を検討したところ、chiAは少なくとも分生子柄のメトレ以降の細胞で転写されていることを示した。また、分生子が分化していない菌糸でもchiAの転写が起こることを確認した。以上の結果より、A.nidulans chiAはR.oligosporusのChi Iとは異なり分生子の分化、及び菌糸生長において機能を持つことを示唆した。 第六章では、A.nidulansの高温感受性変異株を取得し、その中から制限温度下において低浸透圧感受性を示す株を得、これらの株より、キチンに結合する色素であるCalcofluor white(CW)による菌糸先端の染色が見られない株(6株)を見い出した。遺伝学的解析よりこれらの変異は異なる相補群(acsA〜acsF)に属することが示唆された。一方、先の165株の中から菌糸の膨脹する箇所が多く見られる株(5株)を見いだした。制限温度下において浸透圧安定化剤存在下で種々の薬剤感受性を検討したところ、このうち2株において、その生長がマンナン結合性の抗真菌剤であるbenanomicin A耐性を示し、更にキチンと結合するCongo Red及びCWに超感受性を示した。この2株の変異は同じ相補群(balA)に属することを示し、これらの変異遺伝子の連鎖群を決定した。 本論文は、糸状菌に複数のタイプの異なるキチン分解酵素が存在し、細胞壁の代謝に関して機能分担を行うことを示唆し、また、同じタイプのキチン分解酵素であっても種によって機能が異なることも示唆した。この結果は、今後の形態形成の機構の解明に大きな示唆を与えるものと考えられる。また、A.nidulansを用い細胞壁に欠陥を持つ変異株を取得、解析したことにより、細胞壁の代謝に関与する遺伝子を発見し解析することを可能にした。本研究によって得られた知見は糸状菌の菌糸状の形態形成を分子レベルで解明するために大きく貢献するものであると考えられる。一方、接合菌類の糸状菌には実用菌株が多く、本研究によってR.niveusよりUASを同定できたことは応用的にも非常に意義のあることであると考えられる。 以上のように本論文は学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。 |