学位論文要旨



No 111978
著者(漢字) 糸乗,前
著者(英字) Itonori,Saki
著者(カナ) イトノリ,サキ
標題(和) 胎盤の糖脂質とその発現調節
標題(洋)
報告番号 111978
報告番号 甲11978
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1694号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 教授 舘,鄰
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
内容要旨

 糖脂質は、ほとんど総ての動物細胞に普遍的に存在し、その糖鎖領域を細胞外に露出させ脂質領域(セラミド)を細胞膜脂質二重層に埋め込む様式を取っていると考えられている。糖脂質の糖鎖構造は多様で、細胞の種類、組織や臓器別、動物種差あるいは系統差においても異なることが明らかにされてきた。これらの糖脂質の構造多様性に基づく細胞間認識は、多細胞生物の細胞社会を構築する重要な要素と考えられている。中でもガングリオシドは糖鎖内にシアル酸を含有する糖脂質で、サイトカイン、ホルモンあるいは毒素やウイルスの受容体の機能調節、細胞認識、細胞分化あるいは増殖に関わっていることが示されてきた。一方、生物種を超えて保存されている糖脂質の存在も知られている。脳では、ガングリオ系列のガングリオシドが主として発現しており、中枢神経系の発達過程では、発生初期から後期にかけてGD3ガングリオシドの発現が減少し、代わって長鎖の糖脂質が増加することが共通して観察される。このように動物種を超えて組織特異的に発現する糖脂質は機能的な意義を持つことが予想され、多くの研究が行われてきた。

 胎盤は母体と胎児由来の多くの細胞により構成されており、これらの細胞の構成の変化や分化が胎盤機能と深く関わっている。また、胎盤は妊娠時期特異的に母体と胎児の間で、代謝・内分泌・免疫などの機能調節を相関的に行っている。胎盤ではEGF、bFGF、TGF-などの増殖因子とその受容体が発現しており、これらのオートクライン/パラクライン調節系が胎盤栄養膜細胞の増殖・分化に関与していることが知られている。また、ガングリオシドは、タンパク質リン酸化酵素、EGF受容体、Na+,K+-ATPaseなどの膜タンパク質の機能調節に関与していることが知られている。

 本論文では、第1章で胎盤の糖脂質の種間の比較を行い、種を越えて共通な糖脂質が発現しているのか、第2章でラット胎盤を用い、妊娠時期による糖脂質の発現変化があるのか、あるいは糖脂質の発現は細胞による分布があるのか、また、第3章ではラット胎盤由来絨毛性ガン細胞であるRcho-1細胞で、糖脂質組成がラット胎盤の組成を反映しているのか、またその発現を変化させることが可能かどうかを検討した。

第1章 胎盤の糖脂質の種間の比較

 ラット、アシカ、イルカ、ウシ、ウマの胎盤からクロロホルム・メタノール・水の混合溶媒系で脂質を抽出し、フロリジルカラムにより糖脂質画分を精製した。ガングリオシド画分は、DEAE Sephadexカラムにより精製した。これらの構造は薄層クロマトグラフィ(TLC)と糖脂質特異的抗体を用いたTLC免疫染色法により同定した。ラット、アシカ、イルカ、ウシ、ウマの胎盤の糖脂質を分析した結果、ガングリオシドGM3が総ての種においてガングリオシド全体の50-80%を占めることが明らかになった。アシカとウマではN-acetyl neuraminic acid(NeuAc)を含有するGM3(NeuAc)が、イルカではN-glycolyl neuraminic acid(NeuGc)を含有するGM3(NeuGc)が主成分であった。ラットとウシではGM3(NeuAc)とGM3(NeuGc)はほぼ同じレベルであった。また、GD3ガングリオシドがこれらの動物種総てに検出でき、ラット以外にはSialylparagloboside(SPG)が検出できた。TLC免疫染色法により、GM2がアシカとウシに、GD1aがアシカに存在することが分かった。ヒトの胎盤でもガングリオシドGM3、GD3、SPGが主成分であり、胎盤のガングリオシドのパターンは次の2つ、1)GM3とGD3が主成分、2)GM3、GD3に加えてSPGとより長鎖の糖脂質を含むグループに分類でき、ラット、アシカ、ウマは1)、ヒト、イルカ、ウシは2)に分類できた。

 また、ラット胎盤のガングリオシドの構造解析よりGM3にはそのシアル酸の分子種の違いからGM3(NeuAc)とGM3(NeuGc)、GD3にはGD3(NeuAc-NeuAc-)、GD3(NeuAc-NeuGc-)、GD3(NeuGc-NeuAc-)の3種類が検出された。さらに、ラット胎盤の糖脂質のセラミドの分子種には糖脂質の種類による偏りがみられた。外因性のガングリオシドのセラミドの違いにより細胞の結合能が変化することや腫瘍細胞のセラミド組成が正常細胞のものと異なり宿主の免疫系から逃れていることが知られており、セラミドの違いによる糖脂質分子の極性変化が胎盤の糖脂質の機能と関わっていることが考えられた。

 中性糖脂質に関しては、GlcCer、LacCer、Gb3Cer、Gb4Cerがアシカ以外の種に検出できた。これらの中性糖脂質はヒトとマウスにも共通して存在している糖脂質である。

第2章 ラット胎盤の糖脂質組成:妊娠時期特異的変化

 ラット胎盤から脂質を抽出し、糖脂質画分を精製した。これらの糖脂質をシリカゲルカラムにより高度に精製し、高速原子衝撃法質量分析、核磁気共鳴を用いて構造解析を行った。さらに妊娠時期に伴う糖脂質の発現変化をラット胎盤で調べたところ、GM3は妊娠12日目から16日目にかけて主要なガングリオシドであるが、妊娠後期にかけて減少した。一方、GD3は妊娠12日目にはほとんど発現は認められないが、14日目から16日目にかけて増加し、その後20日目までその発現量が維持された。妊娠12日目には主要な中性糖脂質の一つであるGlcCerが14日目以降徐々に減少した。Gb3Cerは妊娠12日目から20日目まで中性糖脂質の中で最も発現量が多いが、16日目以降減少する。それに対してLacCerは妊娠12日目には微量にしか発現していなかったが、14日目から16日目にかけて増加し、その後20日目までその発現量が維持された。Gb4Cerは妊娠12日目から20日目にかけて発現量は少なくその変化はほとんど見られなかった。これらの変化はマウス胎盤の中性糖脂質の組成変化と共通する。

 妊娠12日目と16日目のラット胎盤の凍結切片をアセトンで固定し、ガングリオシド特異的抗体を用いて免疫染色を行ったところ、妊娠12日目では、GM3がLabyrinth zoneのLabyrinthine trophoblastに発現していた。妊娠16日目では、Labyrinthine trophoblastがGM3とGD3の両方を発現していた。Junctional zoneのtrophoblast giant cellはいずれの妊娠時期にもこれらのガングリオシドを発現していないことが分かった。ラット胎盤におけるGM3とGD3の発現の変化は主にLabyrinthine trophoblastの細胞膜上で起こっていることが明らかになった。

第3章 ラット絨毛性ガン細胞、Rcho-1の糖脂質組成

 胎盤の時期特異的機能は栄養膜細胞の分化や胎盤を構成する細胞の変化に深く関与していることが考えられる。ラット胎盤由来絨毛性ガン細胞であるRcho-1細胞は、小型の増殖能の高い未分化細胞とtrophoblast giant cell様に分化した細胞との両方の形態を示し、20%ウシ血清(FCS)添加培養液中では増殖能が高く、1%ウマ血清(HS)添加培養液で分化を誘導できる。Rcho-1細胞から脂質を抽出し、ガングリオシド画分は、DEAE Sephadexカラムにより精製した。これらの構造は薄層クロマトグラフィ(TLC)と糖脂質特異的抗体を用いたTLC免疫染色法により同定した。20%FCS培養下と腎臓皮膜下に移植したRcho-1細胞の糖脂質組成は主にGM3とGD3ガングリオシド、中性糖脂質ではGb3Cerが検出できた。これに対し、1%〜20%HS培養下では中性糖脂質Gb3CerとGM3は検出できたが、GD3の発現はほとんど認められなかった。Rcho-1細胞をアセトンで固定し、ガングリオシド特異的抗体を用いて免疫染色を行ったところ、未分化の小型の細胞にはGM3、GD3共に強く、分化したgiant cell様細胞では弱いことが分かった。分化を誘導するHS添加培地ではGD3の発現は減少し、増殖可能な20%FCS添加培地においても長期の培養ではその発現が減少した。分化を誘導する条件下で培養しGD3の発現が減少した後、増殖誘導培地に置き換えると、GD3が再度発現された。このことから、Rcho-1細胞のGD3は、腎臓へ移植した場合や20%FCS培地条件下の増殖可能な状態の時にのみ発現し、その誘導は可逆的に制御できることが分かった。また、ラット胎盤のJunctional zoneのtrophoblast giant cellもガングリオシドの発現が認められないことから、Rcho-1細胞は細胞分化に伴う糖脂質の変化をin vitroで検討できる系と考えられる。

 特に、GM3は細胞膜上のEGF受容体のリン酸化酵素活性に関与していること、GD1bやGT1bがhCGやLHと細胞との結合を阻害すること、あるいはGD3が上皮と間充織との結合を阻害することなどが知られており、多くの成長因子が存在する胎盤でガングリオシドがホルモンの結合調節、細胞成長因子を介した機能調節に関与している可能性が考えられた。また、GM1、GM3、GD3はリンパ球のT細胞抑制活性を促進すること、ガングリオシドがガン細胞から分泌されることによって宿主の免疫系の攻撃から逃れている可能性から、胎盤で共通して発現しているガングリオシドが妊娠維持のために細胞傷害活性の抑制や免疫寛容に関与している可能性も考えられた。種々の胎盤において共通して発現する糖脂質とその時期特異的変化は、胎盤の妊娠時期特異的機能発現の観点から非常に興味深い。また、Rcho-1細胞を用いた実験系は、胎盤性ホルモン分泌に代表されるような胎盤の機能研究だけでなく、糖脂質の胎盤機能調節における役割やGD3発現に見られるように、糖脂質の発現誘導の分子機構を解析する上で有用であることが分かった。

審査要旨

 糖脂質は、ほとんど総ての動物細胞に普遍的に存在し、その糖鎖構造は多様で、細胞の種類、組織や臓器別、動物種差あるいは系統差においても異なることが明らかにされてきた。これらの糖脂質の構造多様性に基づく細胞間認識は、多細胞生物の細胞社会を構築する重要な要素と考えられている。一方、動物種を超えて組織特異的に発現する糖脂質は機能的な意義を持つことが予想され、多くの研究が行われてきた。

 胎盤は母体と胎児由来の多くの細胞により構成されており、これらの細胞の構成の変化や分化が胎盤機能と深く関わり、胎盤は妊娠時期特異的に母体と胎児の間で、代謝・内分泌・免疫などの機能調節を相関的に行っている。胎盤では様々な増殖因子とその受容体が発現し、これらの調節系が胎盤栄養膜細胞の増殖・分化に関与していることが知られていること、シアル酸を持つ糖脂質であるガングリオシドが、タンパク質リン酸化酵素や増殖因子受容体などの膜タンパク質の機能調節に関与していることが報告されている。

 本論文では、胎盤の糖脂質の種間の比較を行い、種を越えて共通に発現している糖脂質の構造を明らかにし、生化学的に研究を展開したもので、ラット胎盤を用い妊娠時期による糖脂質の発現変化と細胞分布を明らかにしたのみでなく、ラット胎盤由来絨毛性ガン細胞で、糖脂質組成がラット胎盤の組成を反映し、その発現を変化させうる可能性を示すに至った。

 第1章ではラット、アシカ、イルカ、ウシ、ウマの胎盤から糖脂質画分を精製し糖脂質抗体を用いて構造を分析している。胎盤には種を越えて共通して発現する中性糖脂質が存在すること、ガングリオシドGM3が総ての種においてガングリオシド全体の50〜80%を占めること、GD3ガングリオシドがこれらの動物種総てに検出できること、さらにはラット以外にはSPGが検出できることを示した。ヒトの胎盤でもガングリオシドGM3、GD3、SPGが主成分であり、胎盤のガングリオシドのパターンは次の2つ、1)GM3とGD3が主成分、2)それらに加えてSPGとより長鎖の糖脂質を含むグループに分類でき、ラット、アシカ、ウマは1)、ヒト、イルカ、ウシは2)に分類できることを示した。

 第2章では、ラット胎盤のガングリオシドの構造解析、発現変化と組織内分布を調べている。ラット胎盤のGM3にはそのシアル酸の分子種の違いから2種類、GD3には3種類存在することを示した。さらに妊娠時期に伴う糖脂質の発現変化については、主要なガングリオシドであるGM3が妊娠後期にかけて減少する一方、GD3は妊娠後期にかけて増加し、その発現量が維持されたことを示し、主要な中性糖脂質であるGlcCerとGb3Cerは妊娠後期にかけて減少するのに対してLacCerは増加することを明らかにした。即ち糖脂質の発現は妊娠の中期、後期で大きく異なることが明らかとなった。さらに免疫化学的手法によりラット胎盤の凍結切片を用い、妊娠中期にGM3が胎盤迷路部の栄養膜細胞に発現し、後期ではGM3とGD3の両方が発現することを示した。栄養膜巨細胞はいずれの妊娠時期にもこれらのガングリオシドを発現していないことを明らかにした。即ちラット胎盤におけるGM3とGD3の発現の変化は主に胎盤迷路部の栄養膜細胞の細胞膜上で起こっていることを明らかにした。

 第3章では、ラット胎盤由来絨毛性ガン細胞であるRcho-1細胞を用い、細胞培養系と腎臓への移植を行い糖脂質発現を検討している。細胞培養下と腎臓皮膜下に移植したRcho-1細胞の糖脂質組成は主にGM3とGD3ガングリオシド、中性糖脂質ではGb3Cerであることを示した。これに対し、分化を誘導する培養下では中性糖脂質Gb3CerとGM3は検出できたが、GD3の発現はほとんど認められないことを明らかにした。免疫染色の結果から、未分化の小型の細胞にはGM3、GD3共に発現するが、分化した巨細胞様細胞では少ないことを示した。分化を誘導する条件下で培養しGD3の発現が減少した後、増殖誘導培地に置き換えると、GD3が再度発現されたことから、Rcho-1細胞のGD3は、増殖可能な状態の時にのみ発現し、その誘導は可逆的に制御できる可能性を示した。このことはラット胎盤の栄養膜巨細胞にもガングリオシドの発現が認められないことから、Rcho-1細胞は細胞分化に伴う糖脂質の変化をIn vitroで検討できる系と考えられた。

 以上の如く、本論文は多くの生化学的な実験を積み重ねることにより、胎盤に発現する糖脂質の構造を決定したのみでなく、糖脂質発現の調節について、生化学上新たな知見を加えた。この成果は生化学的、生理学的に有意義な貢献であることから、審査員一同は申請者に対して博士(農学)の学位を授与して然るべきものと判定した。

UTokyo Repositoryリンク