学位論文要旨



No 111979
著者(漢字) 佐伯,圭一
著者(英字)
著者(カナ) サエキ,ケイイチ
標題(和) ラットプリオン蛋白遺伝子の転写制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 111979
報告番号 甲11979
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1695号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 小野寺,一清
 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 教授 大塚,治城
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
内容要旨

 伝達性海綿状脳症(プリオン病)は,ヒトを含め哺乳動物において広範囲にその発症が知られており,細胞内蓄積型の異常プリオン蛋白(scrapie isoform of the prion protein,PrPSc)が本疾患の発症に必要不可欠な因子,または病原因子自体(prion)であると考えられている。ところが,プリオン蛋白(PrP)は正常脳組織中にも膜糖蛋白(分子量33-35kDa)として存在し,正常細胞型プリオン蛋白(normal cellular isoform of the prion protein,PrPC)と呼ばれている。両PrPの性状は大きく異なっている。PrPCは、界面活性剤により可溶化され、Proteinase Kによって消化される。一方、PrPScは、界面活性剤存在下でprion rodあるいはscrapie associated fibrils(SAF蛋白)と呼ばれる蛋白凝集物を形成し、Proteinase K処理後にProteinase K抵抗性蛋白とよばれるPrP27-30を生じる。PrPCが生体内においていかなる機能を持っているのかはいまだ不明であるが,PrPScが入り込むと,これが鋳型となりPrPCをPrPScに変えることにより,本疾患を引き起こすとするプリオン仮説が,多くの研究成果から今日支持されるに至っている。

 宿主染色体上に存在するPrP遺伝子の発現は、プリオン病の潜伏期間,発症,疾患感受性,およびPrPScの蓄積と密接に関係している。未だ明らかでないPrP遺伝子の発現機構の解析は、中枢神経疾患である本疾患の発症機構を解明する上で非常に重要であると思われる。そこで本研究では,研究材料としてラットを用いPrP cDNAおよび遺伝子の単離,遺伝子構造の解析,組織発現の検討および転写制御領域の同定を行った。

 ラットPrP cDNAの塩基配列を決定したところ,蛋白翻訳領域は765bpからなり254アミノ酸をコードしていた。他の哺乳動物のPrPと比較したところ,蛋白翻訳領域の塩基配列の相同性は、マウス,ハムスター,ヒト,ヒツジ,ウシ,ミンクと、それぞれ94.1%、92.0%,86.5%、82.7%,80.6%,83.4%であった。また、予想されるアミノ酸配列を比較するとそれぞれ96.1%,94.1%,89.4%,86.7%,84.4%,85.9%であった。ラットから得られたアミノ酸配列とその比較をもとに各哺乳動物間で保存されたアミノ酸モチーフを図式化した(図1)。糖鎖およびGPI付加アミノ酸残基,S-S結合に関連するシステイン残基が保存されており,またhexarepats,octarepeats,疎水性領域といった各種モチーフも非常に保存されていることが明らかとなった。PrPは翻訳後小胞体にてglycosylphosphatidyl inositol (GPI)anchorを付加され,小胞体およびゴルジ器官にて糖鎖(asparagine-linked glycosylation)による修飾を受けた後,膜糖蛋白として生体内においてある種の機能を発現していると考えられる。PrPはさまざまな観点からプリオン病と密接に関連した蛋白であり,GPIアンカーを付加され細胞表面に発現していることから接着分子,レセプター,リガンドあるいは膜酵素と各種機能が予想されるが,現在まで生体内における生理機能についてはいまだに不明である。

図1 ラットPrPのアミノ酸配列で示したPrP間で保存されたアミノ酸残基とモチーフ黒塗りのアミノ酸残基は比較を行った哺乳動物間すべてで保存されたアミノ酸残基。白貫のアミノ酸残基は比較を行った哺乳動物間で置換の認められたアミノ酸残基。シグナルペプチド,繰り返し領域,疎水性領域,S-S結合,糖鎖付加部位,GPIアンカー付加部位,GPI付加により切断されるペプチドをしめした。

 PrPCおよびPrPSc,両蛋白ともアミノ酸配列に違いがないとの報告があり,翻訳後の未知の修飾によって病原性が付加されると考えられている。そこでラットPrP遺伝子の蛋白翻訳領域をプローブとしてサザンブロット解析を行った。ラット脳より得られた高分子量ゲノムDNAをBamHI,EcoRI,Hind IIIで消化後,解析を行ったところそれぞれ6.3kb、1.6kb、2.9kbの単一のバンドを認めた。ラットPrP遺伝子は染色体上にコードされる単一の遺伝子であることより,先の仮説を支持する結果と考えられる。

 黒塗りのアミノ酸残基は比較を行った哺乳動物間すべてで保存されたアミノ酸残基。白貫きのアミノ酸残基は比較を行った哺乳動物間で置換の認められたアミノ酸残基。シグナルペプチド,繰り返し領域,疎水性領域,S-S結合,糖鎖付加部位,GPIアンカー付加部位,GPI付加により切断されるペプチドをしめした。

 プリオン病は,中枢神経変成疾患であり神経細胞の脱落と星膠細胞の増生を伴うが感染伝達経路についての知見は乏しい。組織におけるPrP遺伝子発現の解析は正常生理機能の推測を可能とするばかりか,感染伝達経路の解明に果たす役割が大きいと考えられる。そこで本研究のひとつとしてラットPrP cDNAをプローブとしてノーザンブロット解析よりラット各組織におけるPrP遺伝子の発現を検討した。その結果,PrP mRNAのサイズは約2.2kbで,顕著な発現が認められた組織は,脳および胎盤であり,次いで心臓,肺,精巣であった。脾臓および腎臓おいては低レベルの発現が認められたが肝臓においては検出限界以下であった。胎盤におけるPrP遺伝子の顕著な発現は垂直感染の可能性を示唆した。また,脾臓は感染価の非常に高い組織のひとつである。本研究においてPrP遺伝子の発現が脾臓で認められたことは,病原体(プリオン)の脳への伝達経路として免疫担当機関である脾臓の役割が大きいことを示唆している。

 ノーザンブロット解析の結果より,組織間でPrP mRNAの発現の程度が異なることが明らかとなったことから,PrP遺伝子発現には組織特異的制御機構が働いていることが示唆された。脳でのPrP遺伝子の発現を高めている因子,さらには中枢神経疾患の進行機構を明らかにすることを目的としてPrP遺伝子プロモーター解析を行った。ウィスターラット肝臓DNA由来DASHI遺伝子ライブラリーよりラットPrP遺伝子全体の単離を行い,遺伝子構造の解析および遺伝子発現に基本的に必要な領域の同定を行った。転写開始領域を同定するためRACE(rapid amplification of cDNA ends)法を採用し解析を行ったところ,ラットPrP mRNAの転写は複数点から開始されることが示唆された。35 kbにわたる制限酵素切断地図の作製およびエクソン周辺の塩基配列を決定したところ,ラットPrP遺伝子の構造は,ハムスター,ヒトの2エクソン構造とは異なり,3エクソン構造であり染色体上に約16 kbの範囲を占めていることが明らかとなった。転写開始点,終止点(エクソン終了点)をもとにした塩基配列解析によるとエクソン1(20-47bp),イントロン1(約2.2kb),エクソン2(98bp),イントロン2(約11.5kb)およびエクソン3(約2kb)であった。蛋白翻訳領域はエクソン3上にイントロンを挟まない形で存在し,高等脊椎動物では珍しい遺伝子構造を持っていた。また,エクソン1の上流域に存在すると考えられるラットPrP遺伝子プロモーター領域には、転写因子の結合が予想される配列(エクソン1から上流に3つのSp1,AP-1,AP-2の順)が650bp以内に認められた。一方この領域にはCCAAT配列は存在するがTATTT配列は存在しなかった。

 ラットPrP遺伝子プロモーター領域の同定にはエクソン1を含む上流域を2.8kbから始まるデレーション構築プラスミドを作製し,導入細胞のルシフェラーゼ活性を指標としてプロモーター活性を評価した。その結果,PC12およびC6いずれの細胞試料においても上流域66bp以内にプロモーター活性の中心が存在すると考えられた。最もプロモーター活性の高い領域にはCCAATボックスおよびSp1結合領域を含んでいた。

 本研究で得た研究成果は,プリオン病の発症機構の解明に重要な知見を与えたと思われる。また,基本的なプロモーター領域を明らかにしたことはプリオン蛋白遺伝子発現制御機構の解明にひとつの突破口を与えたと思われる。

審査要旨

 本研究は科学技術庁の総合研究の一環として行なわれ、既に研究内容は班の会議で充分に討議されている。伝達性海綿状脳症(プリオン病)は、ヒトを含め哺乳動物において広範囲にその発症が知られており、応用動物科学分野においても最近は羊スクレイピー、牛海綿状脳症が大きな社会問題となっている。本研究はこれらの病気の原因となっているプリオン蛋白遺伝子について、遺伝子そのものの発現を制御する方法を開発し、病気の発生の制御を目指すものである。

 プリオン遺伝子のregulatorを明らかにする目的で、当人はラットやマウスより不死化神経細胞を得て、様々な研究を行なった。レトロウイルスベクターに導入したv-myc癌遺伝子を用いた不死化操作により神経細胞を得て、プローブを作成し、プリオン蛋白遺伝子の構造をcDNAライブラリーおよびゲノミックライブラリーから明らかにした。その結果、ラットプリオン蛋白遺伝子はマウスと同様3エクソンから成るのが明らかにされた。イントロン2については、マウスが17kbに対しラットは11kbのサイズを示した。

 エクソン1の上流には、SP1、AP-1、AP-2結合領域等のプロモーター様構造が見られ、様々な生理活性物質がregulatorやinhibitorになる可能性が示された。当人は、先ずフォーボルエステル(TPA)によりラットプリオン蛋白遺伝子の発現が促進されることを明らかにした。今後生理活性物質とプロモーターの相互作用の研究は重要と考えられる。当人は更にエクソン1の上流のプロモーター領域の遺伝子の欠損クローンを作成した。これらのクローンにルシフェラーゼ遺伝子を結合後、神経芽細胞株(PC12)に導入し、遺伝子に対するプロモーター活性を測定した。その結果ルシフェラーゼ遺伝子に対しては、上流66bp以内にプロモーター活性が明らかにされた。最もプロモーター活性の高い領域にはCCAATボックスおよびSP1結合領域を含んでいた。

 一方、胎盤においてスクレイピー病原体が増殖することを、我々は妊娠羊の症例で明らかにしている。実験動物(ラット)において当人はプリオン蛋白遺伝子は高率に胎盤に発現することをノーザンプロット法により明らかにした。牛海綿状脳症については、現在、胎盤からの病原体分離はなされていないが、今後さらに検討する必要があると考えられる。恐らくウシにおいても、妊娠中期の胎盤を用いれば病原体が分離されると予測される。

 学位論文の審査において、プリオン遺伝子の機能についての質問が多数挙げられた。しかしながら、この発現蛋白は極めて不安定であり、その機能については確定的な結論は世界のどの研究室でも得られていない。また本人の発表方法により、あたかもヒトやマウスで明らかにされている内容を、ラットで追試している印象を与えた。しかしながら、遺伝子上流の転写制御部分はヒト、マウスでも論文発表がなされず、ラットの論文が世界で始めてのものである。

 本研究は最近明らかにされつつあるプリオン病の原因となるプリオン蛋白遺伝子に対して遺伝子工学を駆使している。特にプリオン遺伝子の転写制御機構に関して重要な知見を与えた。従って当人は博士(農学)の資格を充分に有すると考えられる。

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