イヌジステンパーはParamyxoviridaeのMorbillivirus属に属するイヌジステンパーウイルス(CDV)の感染によって引き起こされ、極めて強い伝染力をもつ急性熱性疾患である。CDV感染はイヌジステンパーの原因としてだけではなく、多くの動物種にとって重要であり、近年では海棲哺乳類や大型猫科動物等でも発生の報告がある。近年の宅地開発や環境破壊等によって野生動物の生息域とヒトの生活区域が重なってきており、これに伴う飼いイヌから野生動物への伝播や、環境の変化による感受性野生動物の棲息域の変化が注目されている。CDVを含めたmorbillivirusは病原性が非常に高く、イヌジステンパーの流行はワクチン未接種の高感受性動物群が存在している場所で認められることを考え併せると、野生動物におけるCDV感染症の監視の重要性が増してきており、イヌジステンパーの制御は単にイヌの予防衛生上の問題だけではなく、野生動物にとっても重要な問題であると考えられる。 イヌジステンパーは弱毒ワクチンの普及でよく制御されてきたが、最近になって日本においてジステンパーと診断される症例が増加していることが観察されてきた。血清疫学調査はウイルスの動物群への淫侵の程度や疾病の発生状況を知る上で必要であり、さらに原因の解明にも有効な知見をもたらす。そこで本研究では近年におけるイヌジステンパー流行の状況を把握し、さらに原因を解明し、ひいては野生動物における流行の制御に資する為の基礎的研究の一環として、イヌジステンパーの血清疫学的解析を行った。 本論文は以下の3章により構成されている。 第1章:ELISAを用いたCDV感染症の血清学的疫学調査。 疫学的調査や確定診断には迅速な抗体検査は不可欠である。そこで、大量かつ迅速に抗体価を測定する方法として、感染細胞抽出物を用いたELISAの変法の有用性を検討した。 CDV Onderstepoort株を感染させたVero細胞をPBS(-)に浮遊させ、凍結融解を10回、続いて超音波処理を120秒行った後に0.5%Triton X-100で可溶化したものを遠心し、その上清をELISA用の抗原として用いた。ELISA法としては間接法を用い、以下の手順で行った。まずELISA用プレートに抗原を吸着させた。このプレートは-20℃での保存で少なくとも1ヵ月は使用可能であることが確認された。2倍階段希釈した被検イヌ血清を各ウェルに加え反応させ、ペルオキシダーゼ標識抗イヌIgGと反応させた後、発色基質を加えた後に吸光度を測定した。まず本ELISAの陽性限界を決定するため、4頭のCDV未接種のSPFイヌ血清を用いて吸光度を測定した。その結果、被検血清を1:100に希釈した時に吸光度は最低値0.05を示した。この結果から希釈開始倍率を1:100、陽性限界値を最低値0.05の2倍である0.1とし、陽性限界値以上を示す血清の最大希釈をもってELISA抗体価とした。次に本ELISA法を用いてCDV Snyder-Hillワクチン株を実験的に接種した26頭のSPFイヌ血清を用いてELISA抗体価と中和抗体価の相関を調べたところ、両者の間には高い相関が認められた(r=0.85)。 以上の結果より本ELISA法は迅速に抗体価を測定することが可能であり、抗体調査や血清診断に有用であることが示唆された。そこで本法を用いてイヌジステンパー様症状を示す野外イヌ血清についてELISA抗体価を測定し中和抗体価と比較したところ、両者の相関は低かった(r=0.37)。また野外血清167例中29例(17%)の中和抗体価が、ELISA抗体価から回帰直線式で予想される値の1/10以下であった。この中和抗体価が低くてELISA抗体価が特に高い29例中25例について、ワクチン接種歴や主要な臨床症状等についてさらに検討を加えた。25例中、約2/3にあたる16例は中枢神経症状を主徴とし、半数近い12例はワクチン接種歴を有していた。このことより、野外において、従来とは性状の異なるCDVの存在の可能性が示唆された。 第2章:東京地区における近年のイヌジステンパー発生状況に関する疫学的観察 上述の如く、罹患犬の主要な臨床症状の差違やELISA抗体価と中和抗体価との乖離が認められ、より詳細な疫学的調査が必要となった。そこで1985年から1994年までの間に、東京大学VeterinaryMedical Center及び東京台東区にある獣医病院に来院し、臨床的にイヌジステンパーと診断された129症例について発生状況を調べ、129例中62例について臨床症状、血清学的検査を行った。この結果、イヌジステンパーの発生は1989年を境に増加傾向を示していたことが明らかとなった。品種、性別には一定の傾向は認められなかった。臨床症状については、呼吸器症状、消化器症状に神経症状が付随するもの(「従来型」)と、神経症状のみを示すもの(「向神経型」)の2つに大別された。被検62例中、35例が「従来型」に、27例が「向神経型」に属していた。また、「従来型」に属するもののワクチン歴の有無には一定の傾向は認められなかったのに対し、「向神経型」に属する27例中、24例までがワクチン接種歴を有していた。両群の中和抗体価の平均値はそれぞれ200倍と398倍で、統計的に有意な差は認められなかった。 62例中17例について末梢血リンパ球からのウイルス分離を試み、1例からウイルス分離に成功した。この分離株と、これとは別個に分離した野外分離株、そしてCDV Onderstepoort株のそれぞれのウイルス感染細胞を抗原として血清反応性を検索するimmunoperoxidase法を用いて比較した結果、野外分離株とCDV Onderstepoort株との間には抗原性の違いがあることが示唆された。これらの結果から、近年のジステンパー流行にはウイルス側の要因が関与している可能性が考えられた。 第3章:Immunocapture ELISAを用いたイヌジステンパーウイルスの血清学的解析 イヌジステンパーの確定診断には患畜からのウイルスの分離や組織からのウイルス抗原の検出が必要である。しかしイヌジステンパーウイルスの分離は長期間を要し、不成功に終わることが多い。そこで迅速な確定診断方法、及びウイルス抗原解析方法のひとつとして、immunocapture ELISAの開発を試みた。 術式は以下の通りである。CDV Onderstepoort株感染イヌ血清を吸着させたELISAプレートを作製し、これに可溶化した被検試料を加えて試料中のウイルス抗原を補足させた。次に1次血清として抗CDV nucleocapsid proteinウサギ血清、2次血清としてビオチン化抗ウサギIgGを用い、ペルオキシダーゼ標識ストレプトアビジンと反応させ、発色基質を加えた後に吸光度を測定した。まず本immunocapture ELISAの特異性をイヌパラインフルエンザウイルス、イヌパルポウイルス、麻疹ウイルス、それぞれ1株を用いて吸光度を測定した。その結果、本immunocapture ELISAはCDVを特異的に検出することが明らかとなった。次に感度を調べるため、CDV Onderstepoort株と野外分離株を用い、ウイルス液を階段希釈して吸光度を測定し検出限界を調べた結果、何れの株でも概ね102TCID30/50lのウイルスが存在すれば本法により検出可能であることが判明した。また、吸光度とウイルス感染価は高い相関を示した(r=0.94)。CDV Onderstepoort株を感染させたB95a細胞におけるCDVの増殖の動態を経時的に測定した結果、感染価と吸光度は良く平行し、本immunocapture ELISAがCDVの増殖の測定に応用できることが示唆された。 そこで、本immunocapture ELISAを抗原性状解析法のひとつとして、従来の中和抗体価試験に応用し、CPEの判定が困難な野外分離株においても容易に中和抗体価を測定する方法を検討した。本法は、中和反応は常法を用いて実施し、細胞培養でのウイルス活性を本immunocapture ELISAを用いて早期に測定するものである。まず、本法で得られた中和抗体価と従来法による中和抗体価との相関を調べるため、イヌジステンパー様症状を示した野外イヌ血清5例について本法と従来法によって中和抗体価を測定した。両者は高い相関を示した(r=0.97)。そこで当教室が分離した野外分離株2株とCDV Onderstepoort株、及びそれらの感染血清を用いて、本法により交叉中和抗体価試験を実施した。この結果、Onderstepoort株感染血清は野外分離株に対して中和抗体価が低く、逆に野外分離株感染血清はOnderstepoort株に対して中和抗体価が低い傾向が認められ、野外分離株とCDV Onderstepoort株感染血清中の、これらウイルス株に対する交叉中和活性の違いを示唆する結果が得られ、中和抗原の変異の可能性が考えられた。 以上の研究により、イヌジステンパーの迅速な血清診断法として、抗体価とウイルス抗原両方に関してELISAの改良と確立が行われ、それらの有用性が示された。また、それらの測定系を用いて、野外ウイルス株にワクチン株と中和エピトープが異なる性状のウイルスが存在することと、それらが近年の流行に関与している可能性が示唆された。これらの研究成果はイヌジステンパーの流行の解明や、野生動物におけるCDV感染と流行の制御に役立つものと期待される。 |