哺乳動物の嗅覚系には、食物や環境などの匂いの識別に関わる主嗅覚系と、同種の他個体に作用してその生理状態に影響を及ぼす嗅覚情報すなわちフェロモンを感受する鋤鼻嗅覚系の、2つの情報伝達経路が存在する。フェロモン情報は鋤鼻器で受容され、副嗅球や扁桃体内側核を経て視床下部に至り、動物の行動、ことに性行動や母性行動など種の存続に重要な生殖行動の発現に深く関与すると考えられている。しかし鋤鼻嗅覚系については、フェロモンの作用機序を理解するために必要な、鋤鼻器の発生やその生後発達に関する基礎的知見すら十分に得られていないのが現状である。そこで本研究では、鋤鼻嗅覚系のフェロモン受容器である鋤鼻器とフェロモン情報の第一次処理機構である副嗅球に着目し、胎生期における鋤鼻器の発生と生後における鋤鼻器と副嗅球の発達について形態学的手法を用いて検討し、鋤鼻嗅覚系の機能発現との関連について考察することを目的として、以下の実験を行った。 第1章では、鋤鼻嗅覚系に関して行われた過去の研究を概観し、本研究の背景と目的を解説した。 第2章では、ラットの胎仔における鋤鼻器の発生について検討を行った。成熟個体の鋤鼻器は鼻中隔の両側底部に埋没する盲嚢状の管であり、鼻中隔側にある感覚上皮と外側にある非感覚上皮によって鋤鼻腔が形成される。鋤鼻器の感覚上皮は感覚細胞、支持細胞および基底細胞から構成されており、感覚細胞と支持細胞の遠位端(樹状突起)は鋤鼻腔に接し微絨毛で被われ、感覚細胞の微絨毛上にフェロモン受容体が存在すると考えられている。感覚細胞の軸索は直接副嗅球に投射し糸球体層に終止する。ラット胎仔における鋤鼻器の器官形成過程を検討するため、胎齢11、12、13、14、16、18日の胎仔の鋤鼻器を光学顕微鏡と走査型電子顕微鏡を用いて観察した。その結果、鋤鼻器の原基は胎齢11日の時点では嗅窩内側壁において嗅上皮からは独立した肥厚部、すなわち鋤鼻プラコードとして存在し、これが間葉組織へと陥凹することにより鋤鼻器が発生することが明らかとなった。これは嗅窩を形成する嗅プラコードよりも1日遅い発現である。嗅プラコードと鋤鼻プラコードの出現時期、そして嗅覚器と鋤鼻器の器官形成時期に差が見られたことから、胎生期の鋤鼻器および嗅覚器は独立した原基から発生することが示唆された。 次に第3章では、ラット鋤鼻器の生後の発達過程について検討を行った。光学顕微鏡と透過型電子顕微鏡を用いて、生後7、14、21、28、35日齢のラット鋤鼻器の観察を行ない、鋤鼻器感覚上皮について以下の所見を得た。生後7日齢では、鋤鼻腔表向における微絨毛の発達程度には個体差が大きかった。微絨毛の密度が低い個体ではそのほとんどが支持細胞のものであったが、密度の高い個体では支持細胞に加えて感覚細胞の微絨毛もかなり観察された。生後7〜14日齢にかけて感覚細胞の微絨毛は急激に密度を増し、生後28日齢ではかなり成熟ラットに近い形態的特徴を呈するようになった。その一方で、生後28日齢や35日齢でも未熟な微絨毛の存在が観察された。以上の結果、感覚細胞の微絨毛よりも支持細胞の微絨毛のほうが成長が早いこと、生後7〜14日齢にかけて微絨毛が急激に密度を増すのは主に感覚細胞の微絨毛が成長するためであること、春機発動期が近い生後35日齢においても鋤鼻器は部分的には未完成であること、などが明らかとなった。また、微絨毛が成長を開始する際には特徴的な形態変化が生じることが観察された。すなわち感覚細胞の樹状突起は鋤鼻腔側にこぶ状の突出物を出し、そこから短い微絨毛を伸長し始めるが、この突出物の中には中心子が多く見られ、さらに未熟な微絨毛を有する感覚細胞の中にも中心子が数多く観察された。このことから、中心子は微絨毛の成長程度を推察する上で有効な指標となりうることが示唆された。これまでの形態学的あるいは生理学的研究から、嗅覚器は出生と同時にあるいはその直前にその機能発現を開始すると理解されているが、これに対し鋤鼻器は嗅覚器よりも形態的発達が遅いことが本研究により明らかとなり、鋤鼻器がその機能を開始する時期も嗅覚器よりもやや遅れるであろうことが推察された。 第4章では、新たに作製されたラット鋤鼻器に対するモノクローナル抗体を用いて、成熟ラットの鋤鼻嗅覚系について免疫組織化学的検討を行った。3種の抗体VOBM1、VOBM2およびVOM2は、いずれも鋤鼻器感覚上皮の管腔表面と特異的に反応し、さらにVOBM1およびVOBM2の免疫陽性反応は副嗅球の鋤鼻神経層と糸球体層にも確認された。透過型電子顕微鏡を用いた観察では、VOBM1は支持細胞の微絨毛に、VOBM2は感覚細胞の微絨毛に、そしてVOM2は感覚細胞と支持細胞の双方の微絨毛において、それぞれ反応が認められた。以上の結果は、これらの3抗体が鋤鼻器感覚上皮の異なるエピトープと結合し、特にVOBM2は鋤鼻器感覚細胞の微絨毛上に特異的に存在するエピトープを認識していることを示唆するものである。このことから、VOBM1は支持細胞由来の微絨毛の、またVOBM2は感覚細胞由来の微絨毛のマーカーとして、それぞれ今後の研究に有効に利用しうるものと判断された。 そこで次にこれら3種の抗体を用いて、鋤鼻器の生後発達とそれぞれの抗体に対する反応性の動態について検討した。幼若ラットにおいても成熟ラットと同様に、これらの抗体は鋤鼻器感覚上皮の管腔表向に特異的に反応した。生後7日齢ではいずれの抗体の反応も弱かったが、生後28日齢ごろまでには免疫陽性反応が増すことを見出した。第3章の結果から鋤鼻器感覚上皮の微絨毛は生後発達することが示されており、鋤鼻器の形態学的発達の完成期を生後21〜28日齢ごろと想定すると、モノクローナル抗体VOBM1、VOBM2およびVOM2は、いずれも成熟した微絨毛を認識しているものと推察された。 続いて、感覚細胞の微絨毛に反応するVOBM2と、支持細胞の微絨毛に反応するVOBM1を用いて、副嗅球の生後発育と抗体に対する反応性の変化について検討を行った。生後7日齢では副嗅球の鋤鼻神経層と糸球体層に、またある個体では鋤鼻神経層にのみごく弱い免疫陽性反応が確認された。生後7〜14日齢にかけて上記2抗体の反応は急速に強まり、生後14日齢ではすべての個体で前述の二層に反応が観察された。さらに生後21〜35日齢にかけて反応は徐々にその強さを増していった。副嗅球の容積が最大になるのが生後18日齢であることから、生後14日齢にかけての副嗅球の反応の上昇は、副嗅球の容積の増大と関連している可能性が考えられる。一方、生後21日齢以降に見られる免疫陽性反応の上昇は、おそらく抗体に対するエピトープの増加によるものと推察された。 以上の実験結果をもとに、第5章では次の3点に焦点を当てて考察した。まず1点目は鋤鼻器の発生起源についてである。過去の研究では、鋤鼻器は一次嗅上皮から分離して発生することについて短い記載がみられるのみであったが、本研究では、鋤鼻上皮および嗅上皮は胎生期の早い時期から独自に器官形成を開始することが示唆された。また、成熟ラットでは嗅上皮の幹細胞は形態学的に比較的容易に観察されるが、鋤鼻上皮の幹細胞はいまだに同定されていない。このことから、嗅覚器と鋤鼻器の幹細胞はそれぞれ性質を異にするものであり、胎生期の両器官の幹細胞もまた異なった性質を持つことが考えられた。次に2点目は、生後における鋤鼻器の発達についてである。本研究により、鋤鼻器の感覚上皮の微絨毛は生後も発達を続けることが明らかになった。2つの嗅覚系のニューロンは生涯再生されるので、成熟動物の感覚上皮内でも発育程度の違う感覚細胞が共存していることになる。感覚上皮の成熟度を判断するためには指標が必要であるが、嗅上皮では線毛の成熟度が指標となることが提唱されているものの、鋤鼻嗅覚系ではそうした報告例はなかった。本研究では、鋤鼻器感覚上皮において微絨毛の密度が少ない感覚細胞には中心子が多く見られ、また感覚細胞が微絨毛の密度を増すとともに細胞あたりの中心子数が減る傾向が観察されたことから、これが鋤鼻器感覚上皮の成熟度を判断する指標となる可能性が示唆された。3点目は、鋤鼻嗅覚系の機能発現開始時期についてである。ラットは生後12日齢頃までは自分の母親や同腹の兄弟といった身近な個体の匂いを好むが、生後20日齢を過ぎると自分の家族以外の匂いを好むようになることが報告されている。すなわち、幼若ラットは発育が進むにつれて、身近な匂いから異なった環境へと興味の対象が移る性質を持つようである。このような行動学的な変化と鋤鼻器の成熟に関する時間的経過が一致することについては、特に生態学的見地から興味がもたれる。動物は自分とは近縁度の低い個体と交配したほうが、子孫の存続には有利であり、このため離乳期を過ぎると親元から離れる傾向をもつことが知られている。鋤鼻器は春機発動期を迎える頃まで発達を続けるが、鋤鼻嗅覚系の成熟は性フェロモンの受容だけでなく、このような巣立ちを促す情報の受容にも関連しているのかもしれない。 本研究では、胎生期における鋤鼻器の発生と生後における鋤鼻器と副嗅球の発達について形態学的手法を用いて検討し、鋤鼻嗅覚系の発達と機能発現は主嗅覚系に比べて遅く春機発動期に近づいてようやく完了することを明らかにした。また鋤鼻器の発育状態を反映する新たな指標を見いだすことができた。これらの知見は、鋤鼻嗅覚系の発生や機能発現の研究のみならずニューロンの再生メカニズムの解明といった今後の研究に応用しうるものと期待される。 |