本論文は、ニホンハタネズミ精子の、異種動物の卵子透明帯通過能という他の動物種には見られない特性を利用して、精子の卵子透明帯通過機構について明らかにするとともに、受精に関する知見を深めようと試みたものである。 まず第1章では、ハタネズミの精子、卵子および初期胚の特性と培養条件を検討した。排卵は交尾後約8時間で、受精は10時間で始まっていた。排卵された卵子の大きさは平均61.0mで、調べられている哺乳類では最小であった。受精卵の体内発生はマウスのそれとほぼ一致し、体外培養も後期2細胞期胚からならマウス用のM16培養液で可能なことが明らかとなった。早期2細胞期胚には2-cell blockが生じるが、培養液からピルビン酸ナトリウムを除くことによってある程度解除できることが明らかとなった。一方精巣上体尾部精子は運動性、生存性ともにマウス精子より活発だった。また培養中の精子には、他の齧歯類では観察されたことのない精子の集団渦流運動が観察された。 第2章ではハタネズミの体外受精を試み、同種間での精子の卵子透明帯通過方法を観察した。体外受精率は1mMのハイポタウリンを加えた培養液で、1-2x107cells/mlの精子濃度で2時間前培養を行い、1x106cells/mlで媒精した時最も高い値を示した。またハイポタウリンは媒精の時にのみ必要であることが明らかとなり、その効果は卵子に、あるいは卵子が存在する時の精子に現れることが明らかとなった。それらの体外受精卵は、体外ではごくわずかしか胚盤胞まで発生させることが出来なかった。体外受精卵を偽妊娠状態の雌の卵管に移植すると、低率ではあるが正常な産子が出産され、体外受精卵が正常な発生能を有していることが証明された。この体外受精-受精卵移植の成功は、ハタネズミ亜科では本研究が始めてであり、また哺乳類では16番目に成功した動物種ということになる。体外受精卵を走査型及び透過型電子顕微鏡で観察したところ、透明帯表面、内部、及び囲卵腔内の精子は先体反応していることが確認できた。また透明帯上で観察された先体ゴーストは透明帯との結合性が弱く、精子を透明帯上につなぎ止める働きはないと考えられた。 第3章ではハタネズミ精子を異種動物の卵子に媒精することによって、精子の透明帯通過方法を検討した。ハタネズミ精子をマウス、ハムスター、ハタネズミ、ラット、マストミス及びスナネズミの卵子と媒精したところ、マウス卵子透明帯を特に高率に通過することが明らかとなった。しかしハタネズミ精子が透明帯を通過したいずれの卵子でも、細胞膜内に精子が侵入したものは全く観察されなかった。次に精子の先体酵素を不活性化するインヒビターを培地に加えたところ、ハタネズミ同士の体外受精はほぼ完全にブロックされたが、ハタネズミ精子のマウス卵子透明帯通過はブロックされなかった。またカルシウムイオノフォアA23187で先体反応を誘起した、先体を持たない精子であっても、マウス卵子透明帯を高率に通過することができた。一方透明帯反応を起こしているマウス受精卵の透明帯であっても、ハタネズミ精子は高率に通過することができた。ハタネズミ精子が侵入したマウス卵子を電子顕微鏡で観察した結果、透明帯表面、透明帯を通過中および透明帯を通過して囲卵腔内に侵入したそれぞれの精子に先体が残っているのが確認された。これらの結果から、ハタネズミ精子は同種間では先体反応も先体酵素も利用するが、異種卵子透明帯に対しては先体反応も先体酵素も利用もせずに通過していることが明らかとなった。 本研究によって、ハタネズミ精子は同種間では卵子透明帯上で先体反応を起こすこと、及び先体酵素を利用することが確認された。しかし精子の運動性を高める働きがあるハイポタウリンを媒精時に加えると受精率がさらに増加すること、及び先体反応を起こさない条件でも、一部のハタネズミ精子はハタネズミ卵子透明帯を通過することから、ハタネズミの同種間透明帯通過には精子の運動性も非常に重要な役割を果たしていることが示唆された。一方異種間では、先体反応せず先体酵素も利用しないでマウス卵子透明帯を通過できることや、透明帯反応を起こして硬化した透明帯であっても通過できることから、運動性だけで透明帯を通過しているのが明らかであり、精子の運動性の力は透明帯を破るのに十分であることが証明された。これらのことから、精子の透明帯通過は運動性が最も重要であり、先体酵素は補助的な働きをしているのだと推測された。以上の研究内容は、受精に関する研究の基礎的データとして非常に価値のあるものであり、学術的に貢献するところが大きく、博士(獣医学)にふさわしいものであると、審査員一同が認めた。 |