学位論文要旨



No 111993
著者(漢字) 若山,照彦
著者(英字)
著者(カナ) ワカヤマ,テルヒコ
標題(和) ハタネズミを用いた精子の透明帯通過機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 111993
報告番号 甲11993
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1709号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 舘,鄰
 東京大学 助教授 佐藤,英明
 東京大学 助教授 九郎丸,正道
 国立予防衛生研究所 主任研究官 小倉,淳郎
内容要旨

 ニホンハタネズミの精子は、異種動物の卵子透明帯を高率に通過出来るという他の動物種には見られない特性がある。本研究は、このハタネズミ精子の特性を利用して、受精現象のなかでもいまだ論議の的になっている「精子の卵子透明帯通過機構」について詳細に検討したものである。その結果として以下のような新しい知見を得ることが出来た。

1.ハタネズミの精子、卵子および初期胚の特性と培養条件。

 ハタネズミの生殖生理に関する研究はほとんど行われていない。そこで基礎的なデータを得るために、以下の実験を行った。ハタネズミの排卵は交尾後約8時間で始まり、9時間には完了する。排卵数は、30単位のPMSGとhCGを42時間間隔で投与した場合に最大値を示した(平均24.0個)。排卵された卵子の大きさは平均61.0mで、調べられている哺乳類では最小であった。受精卵は、交尾後24から26時間で最初の分裂を行い2細胞期胚になる。続いて46から52時間で2度目の分裂を行い4細胞期胚となり、それ以降の分裂はほぼ12時間ごとに起こり、94時間目には胚盤胞期胚となった。このようなハタネズミ胚の発生速度は、マウス胚のそれと類似していた。また採取したハタネズミ胚をM16培養液で培養した結果、45時間以降に得られた後期2細胞期胚からは胚盤胞期胚まで容易に培養できたが、それより前に採卵した1細胞期及び早期2細胞期胚はほとんど胚盤胞へは発生しなかった。しかしM16培地内からピルビン酸ナトリウムを除くと、早期2細胞期胚の胚盤胞期胚への発生率が有意に改善された。一方精巣上体尾部から採取したハタネズミ精子をmKRBおよびTYH培地で培養すると、運動性、生存性ともにmKRB培地の方が有意に高い値を示した。それらの精子の運動性はマウス精子より活発であり、家畜において精子の運動性が特に強い時にだけ観察される集団過流運動が、ハタネズミ精子でも観察された。

2.ハタネズミの体外受精の最適条件。

 精子を1-2x108cells/mlで2時間前培養した時の受精率はかなり低い値を示したが(1-13%)、精子を1-2x107cells/mlで前培養した時の受精率は有意に増加した(43-51%、p<0.05)。そして、培養液に1.0mMのハイポタウリンを加えると受精率はさらに増加した(74.0%;p<0.05)。ハイポタウリンは、精子の前培養にだけ加えても効果がなく、媒精の時にのみ必要であった。したがってハイポタウリンは、卵子に、あるいは卵子が存在する時の精子に作用することが明らかとなった。精子の前培養時間は2時間行う場合が最も高い受精率を示した。体外受精卵を走査型及び透過型電子顕微鏡で観察したところ、精子は透明帯上で先体反応を行い、先体ゴーストが透明帯上で観察された。ハタネズミの先体ゴーストは透明帯との結合性が弱く、先体反応精子を透明帯上につなぎ止める働きはないと考えられる。透明帯を通過中の精子や囲卵腔内の精子には他の哺乳類と同様、先体は認められなかった。体外受精卵の発生率は、培養液にハイポタウリンを0-10mMの濃度で加えても2-cell blockが解除できず、胚盤胞への発生は低率であった。したがってハイポタウリンには胚の発生を促進する効果はないと思われた。さらに体外受精した胚が正常な産子へ発生する能力を持つことを明らかにするため、受精卵を偽妊娠状態の雌の卵管に移植した。その結果、出産した個体の割合は低かったが、体外受精卵が正常であることが証明された。またこのことは、二ホンハタネズミが哺乳類で16番目に体外受精-受精卵移植に成功した動物種ということになる。

3.ハタネズミ精子の異種卵子透明帯通過方法

 ハタネズミ精子は、マウス卵子ではほぼ100%、ハムスター卵子でも卵丘細胞を除けば80%以上の卵子透明帯を通過出来た。一方、同種のハタネズミ卵子には、この実験条件では約20%しか透明帯を通過出来なかった。スナネズミ透明帯には精子は接着したが、侵入したものは全く認められなかった。ラット及びマストミスの透明帯には精子はほとんど接着しなかったが、ラット卵子でわずかに侵入が見られた(3.3%)。いずれの卵子でも細胞膜内に精子が侵入したものは全く観察されなかった。しかしハタネズミ精子がハタネズミ卵子透明帯をほぼ100%通過し、受精する条件でマウス卵子に媒精を行うと、マウス透明帯通過率は大きく低下した。次に、ハタネズミ精子が先体酵素を利用して異種卵子透明帯を通過しているのか否かを確認するために、精子の先体酵素を不活性化して、受精を阻害する酵素(proteinase/hyaluronidase inhibitor)を培地に加えたところ、ハタネズミ同士の体外受精はほぼ完全にブロックされたが、ハタネズミ精子のマウス卵子透明帯通過はブロックされなかった。またカルシウムイオノフォアで先体反応を誘起し、先体内の酵素を放出させたハタネズミ精子であっても、マウス卵子透明帯を高率に通過することができた。したがってハタネズミ精子は、先体酵素を利用しないでマウス透明帯を通過していると思われる。一方透明帯反応を起こしているマウス受精卵の透明帯であっても、ハタネズミ精子は高率に通過することができた。逆にハタネズミ精子が侵入したマウス未受精卵に、その後さらにマウス精子を媒精すると、マウス卵子は正常に受精した。それらの卵子は多精子受精にはならなかったことから、マウス精子の侵入後に透明帯反応が生じたと考えられる。ハタネズミ精子が侵入したマウス卵子を電子顕微鏡で観察した結果、透明帯表面、透明帯を通過中および透明帯を通過して囲卵腔内に侵入したそれぞれの精子に先体が残っているのが確認された。これらの結果から、ハタネズミ精子は異種卵子透明帯を先体反応せずに通過していることが明らかとなった。

 以上の結果からハタネズミ精子の透明帯通過機構について考察を加えた。

 まず、ハタネズミ精子はハタネズミ卵子透明帯上に先体ゴーストを残して透明帯を通過し、囲卵腔内の精子はすべて先体反応を起こしていた。また先体酵素のインヒビターを加えると受精がほぼ完全にブロックされたことから、ハタネズミの同種間の受精には先体内酵素の利用が不可欠であると思われる。しかしこのときの受精率は4割程度しかないが、精子の運動性を高める働きがあるハイポタウリンを体外受精時に加えると、受精率は8割以上に増加した。したがってハタネズミの体外受精には、先体酵素だけでなく、精子の運動性も必要であることが示唆された。一方活発な運動性は維持できるが先体反応は起こさない条件でも、2割程度のハタネズミ精子はハタネズミ卵子透明帯を通過することができた。したがってハタネズミ精子が運動性だけもで透明帯を通過できることは明らかである。しかもマウス卵子透明帯であれば9割以上通過できることや、透明帯反応を起こして硬化した透明帯であっても通過可能なことは、その通過能力がかなり強力であることを示している。このように、ハタネズミ精子は、運動性や先体内酵素だけでも透明帯を通過することができるが、運動性と先体酵素の両方を利用したときが最も高い通過率を示すことになる。したがって先体反応を起こして頭部を露出させた方が、より簡単に透明帯を通過できるようになるはずである。しかし、ハタネズミ精子が強い運動性を維持できる場合は先体反応が起こらず、先体反応を起した場合は運動性が低いということから、先体反応が精子の運動性の低下を招くと考えられる。つまり先体は、受精の瞬間まで精子の運動性の低下を防いでいるのではないだろうか。したがって先体は、透明帯と結合するためのレセプターを持ち、膜融合のレセプターや、透明帯を貫く精子頭部の鋭い刃を保護しているだけでなく、運動性の制御もしていると考えられる。

審査要旨

 本論文は、ニホンハタネズミ精子の、異種動物の卵子透明帯通過能という他の動物種には見られない特性を利用して、精子の卵子透明帯通過機構について明らかにするとともに、受精に関する知見を深めようと試みたものである。

 まず第1章では、ハタネズミの精子、卵子および初期胚の特性と培養条件を検討した。排卵は交尾後約8時間で、受精は10時間で始まっていた。排卵された卵子の大きさは平均61.0mで、調べられている哺乳類では最小であった。受精卵の体内発生はマウスのそれとほぼ一致し、体外培養も後期2細胞期胚からならマウス用のM16培養液で可能なことが明らかとなった。早期2細胞期胚には2-cell blockが生じるが、培養液からピルビン酸ナトリウムを除くことによってある程度解除できることが明らかとなった。一方精巣上体尾部精子は運動性、生存性ともにマウス精子より活発だった。また培養中の精子には、他の齧歯類では観察されたことのない精子の集団渦流運動が観察された。

 第2章ではハタネズミの体外受精を試み、同種間での精子の卵子透明帯通過方法を観察した。体外受精率は1mMのハイポタウリンを加えた培養液で、1-2x107cells/mlの精子濃度で2時間前培養を行い、1x106cells/mlで媒精した時最も高い値を示した。またハイポタウリンは媒精の時にのみ必要であることが明らかとなり、その効果は卵子に、あるいは卵子が存在する時の精子に現れることが明らかとなった。それらの体外受精卵は、体外ではごくわずかしか胚盤胞まで発生させることが出来なかった。体外受精卵を偽妊娠状態の雌の卵管に移植すると、低率ではあるが正常な産子が出産され、体外受精卵が正常な発生能を有していることが証明された。この体外受精-受精卵移植の成功は、ハタネズミ亜科では本研究が始めてであり、また哺乳類では16番目に成功した動物種ということになる。体外受精卵を走査型及び透過型電子顕微鏡で観察したところ、透明帯表面、内部、及び囲卵腔内の精子は先体反応していることが確認できた。また透明帯上で観察された先体ゴーストは透明帯との結合性が弱く、精子を透明帯上につなぎ止める働きはないと考えられた。

 第3章ではハタネズミ精子を異種動物の卵子に媒精することによって、精子の透明帯通過方法を検討した。ハタネズミ精子をマウス、ハムスター、ハタネズミ、ラット、マストミス及びスナネズミの卵子と媒精したところ、マウス卵子透明帯を特に高率に通過することが明らかとなった。しかしハタネズミ精子が透明帯を通過したいずれの卵子でも、細胞膜内に精子が侵入したものは全く観察されなかった。次に精子の先体酵素を不活性化するインヒビターを培地に加えたところ、ハタネズミ同士の体外受精はほぼ完全にブロックされたが、ハタネズミ精子のマウス卵子透明帯通過はブロックされなかった。またカルシウムイオノフォアA23187で先体反応を誘起した、先体を持たない精子であっても、マウス卵子透明帯を高率に通過することができた。一方透明帯反応を起こしているマウス受精卵の透明帯であっても、ハタネズミ精子は高率に通過することができた。ハタネズミ精子が侵入したマウス卵子を電子顕微鏡で観察した結果、透明帯表面、透明帯を通過中および透明帯を通過して囲卵腔内に侵入したそれぞれの精子に先体が残っているのが確認された。これらの結果から、ハタネズミ精子は同種間では先体反応も先体酵素も利用するが、異種卵子透明帯に対しては先体反応も先体酵素も利用もせずに通過していることが明らかとなった。

 本研究によって、ハタネズミ精子は同種間では卵子透明帯上で先体反応を起こすこと、及び先体酵素を利用することが確認された。しかし精子の運動性を高める働きがあるハイポタウリンを媒精時に加えると受精率がさらに増加すること、及び先体反応を起こさない条件でも、一部のハタネズミ精子はハタネズミ卵子透明帯を通過することから、ハタネズミの同種間透明帯通過には精子の運動性も非常に重要な役割を果たしていることが示唆された。一方異種間では、先体反応せず先体酵素も利用しないでマウス卵子透明帯を通過できることや、透明帯反応を起こして硬化した透明帯であっても通過できることから、運動性だけで透明帯を通過しているのが明らかであり、精子の運動性の力は透明帯を破るのに十分であることが証明された。これらのことから、精子の透明帯通過は運動性が最も重要であり、先体酵素は補助的な働きをしているのだと推測された。以上の研究内容は、受精に関する研究の基礎的データとして非常に価値のあるものであり、学術的に貢献するところが大きく、博士(獣医学)にふさわしいものであると、審査員一同が認めた。

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