学位論文要旨



No 112010
著者(漢字) 澤本,和延
著者(英字) Sawamoto,Kazunobu
著者(カナ) サワモト,カズノブ
標題(和) ショウジョウバエargos遺伝子産物による細胞分化制御機構の解析
標題(洋) Regulation of cellular differentiation by the Drosophila argos gene product
報告番号 112010
報告番号 甲12010
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1066号
研究科 医学系研究科
専攻 第二基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀田,凱樹
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 助教授 金井,克光
 東京大学 講師 瀧,伸介
内容要旨

 多細胞生物の発生過程において、均一な性質を持つ細胞集団から、いかにして多種多様な細胞が分化するのかという問題は、古くから発生生物学者の最大のテーマのひとつであった。秩序ある正しい組織構築のために、細胞の分化は厳密にコントロールされており、そこには細胞分化を誘導する正のシグナルと抑制する負のシグナルが関わっていると考えられてきた。この様な細胞分化のためのシグナル伝達の分子機構は、ショウジョウバエの複眼をモデルとして近年急速に明らかにされつつある。複眼形成におけるニューロンの分化は細胞間相互作用によって起り、厳密な細胞系譜は存在しない。そこで、私は細胞間相互作用による細胞分化制御に関与する新しい分子を分離・同定する事を目的として、複眼形成に異常のある変異体のスクリーニングを行い、argosと称する遺伝子を同定し、その遺伝子の構造、発現パターン及び機能を詳細に解析した。

 argosは、複眼の形態異常を示す新しいショウジョウバエ視覚系変異体としてP因子挿入変異法により分離された。argos変異体の複眼の切片を透過型電子顕微鏡で観察したところ、個眼当たりの光受容細胞の数の増加及び個眼の配列異常が観察された。また、三齢幼虫の眼成虫原基を神経細胞を特異的に認識するモノクローナル抗体22C10で染色したところ、argos変異体においては神経細胞の分化が過剰に起こっていることが明らかになった。さらに、蛹期の複眼を硫酸コバルト染色して観察したところ、argos変異体においては晶体細胞及び色素細胞の数が増加していることがわかった。argos変異はまた、胚発生期における頭部陥入の異常及び感覚神経系の感覚子の数の増加、成虫のlabial pulp及びwing veinの形成異常をも引き起こした。argos遺伝子内に挿入したP因子ベクター内のLacZの発現パターンを解析することにより、argos遺伝子の発現パターンを調べた。三齢幼虫の眼成虫原基においては、morphogenetic fullowの後ろ側の分化した光受容細胞、色素細胞、晶体細胞においてLacZの発現が検出された。プラスミドレスキュー法により、P因子挿入点近傍のゲノムDNAをクローニングした。得られた断片をプローブとしてゲノムライブラリーよりargos遺伝子をクローニングした。さらにこのゲノム断片をプローブとして、眼原基及び胚由来cDNAライブラリーからargosの全長cDNAをクローニングした。cDNAの一次構造を決定したところ、argosはN末側にシグナルペプチドを持ち、C末付近にEGFモチーフを有する分子量約50kDの蛋白質をコードしていることが明らかになった。これらの結果より、argos遺伝子産物は、分化した細胞より分泌され、他の細胞が同じ細胞として分化するのを抑制するための因子として機能していると予想された。すなわち、argos遺伝子産物は、神経系の細胞の数を調節するための機構として知られていた側方抑制(lateral inhibition)を司る因子である可能性が示唆された。

 argos変異体成虫の脳の切片を作製し、観察したところ、視葉の構築に著しい異常が観察された。また、三齢幼虫期の視神経をモノクローナル抗体24B10で染色したところ、argos変異体においては、光受容細胞の軸索が一次視神経節(視葉外層)へ正常に投射しないことが明らかになった。in situhybridyzation法により胚発生期の脳半球内において視葉の発生が始まる部分においてargosの転写産物が検出された。また、幼虫期の視葉においてもargos-LacZの発現が検出された。胚発生期の視葉をcrumb遺伝子産物を認識する抗体を用いて染色し観察したところ、argos変異体においては視葉原基が正常に陥入しないことが明らかになった。また、幼虫期の視葉を抗FasIIモノクローナル抗体を用いて染色し観察したところ、視葉の構築が正常に起こらない事がわかった。argoscDNAをhsp70プロモーターの下流につなぎ、P因子を利用した生殖系列形質転換法により、トランスジェニックフライを作出した。このトランスジェニックフライの幼虫に熱ショックを与え、argos遺伝子を発現させることによって、argos変異体の視葉の形態及び視神経の投射が正常に回復した。従ってこれらの異常は確かにargos遺伝子産物の機能欠損によるものであることが証明された。argos変異体の三齢幼虫の視葉をグリア細胞を特異的に認識するrk2抗体で染色したところ、視葉外層におけるグリアの分化に異常が認められた。このグリア分化の異常と光受容細胞の投射パターンの異常の関係を明らかにするために、グリア細胞の分化に異常をきたすことが知られているrepo変異体の光受容細胞の軸索投射パターンを24B10抗体で染色したところ、argos変異体と同様な異常が観察された。これらの結果は、視葉外層のグリア細胞が光受容細胞の軸索走行のための道標としての役割を担っていることを示唆している。argos遺伝子産物は、視葉の形成、特に光受容細胞の軸索投射に重要と思われる視葉外層のグリア細胞の正しい分化に必要であるという事が明らかになった。

 argos遺伝子産物が、細胞分化を負に制御する活性を有しているかどうかを調べるために、argos cDNAをhsp70プロモーターの下流につなぎ、P因子を利用した生殖系列形質転換法により作出したトランスジェニックフライ(hs-argos)を用いて解析を行った。argos変異体にhs-argosを導入し、幼虫期から蛹期にかけて熱ショックを与える事によって、光受容細胞・晶体細胞・色素細胞の増加など全ての表現型が回復した。また、野生型の系統にhs-argosを導入し、熱ショックを与え、argosを異所的に過剰発現させたところ、光受容細胞・晶体細胞・色素細胞の減少という逆の表現型が観察された。また、argosを異所的に過剰発現させた場合には、wing veinの形成が部分的に阻害される事がわかった。wingの発生過程において、argosは形成されつつあるwing veinにおいて発現していた。これらの結果より、argos遺伝子産物が複眼形成及びwing veinの形成における分化抑制因子として機能していることが明らかになった。

 複眼及びwingの形成に必要なシグナルカスケードが2つ知られている。ひとつは、受容体型チロシンキナーゼとその下流のRas/MAPキナーゼによるシグナル経路であり、もう一つはEGFモチーフを有する膜貫通型蛋白質DeltaとNotchを介したシグナル経路である。argosがEGFモチーフを有する分泌性のリガンド様のペプチドをコードしていることから、argos遺伝子産物がこれらのいずれかのシグナル経路に作用している可能性が予想された。この可能性について検証するために、これらのシグナル経路に関与する遺伝子群の変異体とargos変異体あるいはトランスジェニックフライ(hs-argos)を交配し、各々の表現型に対する効果を調べた。argosとNotch及びDeltaの間には有意な遺伝学的相互作用は検出されなかった。一方、argosとRas/MAPキナーゼカスケードの構成因子をコードする様々な遺伝子群(Star,rhomboid,Sos,Ras1,D-raf,Dsor1,rolled)との間には、有意な遺伝学的相互作用が検出された。すなわち、argos変異体の表現型は、Ras/MAPキナーゼカスケードの構成因子の活性化型変異によってより激しくなり、機能欠損型変異によって抑圧された。一方、argosの過剰発現により生じる表現型は、Ras/MAPキナーゼカスケードの構成因子の活性化型変異によって抑圧され、機能欠損型変異によってより激しくなった。これらの結果より、argos遺伝子産物は、Ras/MAPキナーゼカスケードにおけるシグナルトランスダクションを抑制することによって細胞分化を負に制御し、細胞の数及び配列を調節していると考えられる。

審査要旨

 本研究は、細胞分化に必要な新しい遺伝子の同定を目的としてP因子挿入変異法によって得られたショウジョウバエの複眼形成に異常を示す変異体argosの原因遺伝子のクローニングと、その機能解析を行ったものであり、以下のような結果を得ている。

 1.argos遺伝子内にP因子が挿入した機能欠損型変異体においては、複眼の光受容細胞・色素細胞・コーン細胞の数が増加していることが示された。ニューロンを特異的に認識するモノクローナル抗体22C10を用いて、複眼の発生初期過程におけるニューロンの分化を解析したところ、機能欠損型変異体においては、過剰な数のニューロンが分化していることが示された。

 2.プラスミドレスキュー法によって得たP因子挿入点近傍のゲノム断片をプローブとしてライブラリーよりargos遺伝子をクローニングした。得られたcDNAは、EGFモチーフを有する約50kDの分泌性の蛋白質をコードしていた。エンハンサートラップ法によってargosの発現パターンを解析したところ、三齢幼虫の複眼原基において分化した光受容細胞・色素細胞・コーン細胞において発現が認められた。

 3.argosのcDNAをhsp70のプロモーターにつないだ発現ベクターを導入したトランスジェニックフライを作出し、argosの異所的過剰発現による影響を解析した。発生過程で熱ショックを与え、argosを過剰発現すると光受容細胞・色素細胞・コーン細胞の数が減少することが示された。従って、argos遺伝子産物は分化した細胞より分泌される細胞分化抑制因子として機能していると考えられた。

 4.argosの機能欠損型変異体の表現型はRas/MAPKカスケードのシグナルトランスダクションを弱める変異によって抑圧され、Ras/MAPKカスケードのシグナルトランスダクションを強める変異によって増強された。一方、argosの異所的過剰発現によって生じる表現型は、Ras/MAPKカスケードのシグナルトランスダクションを強める変異によって抑圧され、Ras/MAPKカスケードのシグナルトランスダクションを弱める変異によって増強された。従って、argos遺伝子産物は細胞外からRas/MAPKカスケードのシグナルトランスダクションを抑制することにより細胞の分化を制御しているものと考えられた。

 5.argosの機能欠損型変異体においては、光受容細胞の軸索投射パターン及び視葉の形成、特に視葉内のグリア細胞の分化に異常が認められた。グリア細胞の分化に異常をきたすrepo変異体においても、argosと同様な光受容細胞の軸索投射パターンの異常が観察されたことから、光受容細胞の軸索投射において視葉内のグリア細胞が何らかの役割を果たしている可能性が示唆された。

 以上、本論文はargos遺伝子産物がRas/MAPKカスケードのシグナルトランスダクションを抑制することにより作用する細胞分化抑制因子であることを明らかにした。本研究は、細胞間相互作用を介した細胞分化制御機構、あるいはRas/MAPKカスケードを介したシグナル伝達の制御機構の解明に重要な貢献をするものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54533