学位論文要旨



No 112014
著者(漢字) 榊原,伸一
著者(英字)
著者(カナ) サカキバラ,シンイチ
標題(和) 哺乳動物における神経系特異的RNA 結合蛋白質mouse-Musashi-1 に関する研究
標題(洋) mouse-Musashi-1,a neural RNA-binding protein highly enriched in the mammalian CNS stem cell
報告番号 112014
報告番号 甲12014
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1070号
研究科 医学系研究科
専攻 第二基礎医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 堀田,凱樹
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 講師 中田,隆夫
内容要旨

 哺乳類の神経系は多様な細胞群が驚くべき程精巧な神経回路網を形成することでその高次機能を発揮している。発生初期において均一な細胞集団(神経上皮、幹細胞)がどのようなメカニズムでその運命が決定され、多様な細胞群を生み出し、特異的繊維連絡を形成していくのか、という問題は神経生物学のなかでも最も注目を集めている分野の一つである。

 一般的に、神経系の初期発生における運命決定は、内在した遺伝子プログラミングに従った細胞系譜と細胞間相互作用により制御されている。 特に前者については、神経系の幹細胞が分裂する際に内在的な細胞質因子が非対称的に娘細胞に配分されることで、以降の細胞系譜を決定し運命ずける機構が存在するものと考えられる。ショウジョウバエで同定されたmusashi(d-msi)遺伝子産物はそのような内在的細胞質因子の候補のひとつで、ショウジョウバエ末梢神経外感覚器の形成過程における非対称的細胞分裂に必要とされる。cDNA解析および機能欠失型のd-msi変異体の表現型の解析結果より、d-msi遺伝子産物は、神経系特異的RNA結合蛋白質として、転写後レベルにおいて下流遺伝子群の発現を調節することにより、神経発生過程における細胞の運命決定、特に細胞系譜の形成を制御していると考えられる。そこで本研究では、無脊椎動物から、より複雑で高次の脳や神経系を有する哺乳類に至るまで保存されている普遍的な神経発生メカニズムの解明を目指し、マウスにおけるd-msi様遺伝子mouse-musashi-1(m-msi-1)の単離を行った。

 一方、神経系に発現している多くの遺伝子では、選択的スプライシング等の転写後調節により遺伝子産物の多様性が形成され、神経系特有の構造と機能を獲得しているものが知られている。また、最近では、このような遺伝子産物の多様性の獲得だけでなく、樹状突起へのRNAの輸送と局所における翻訳調節や、転写産物の安定化という形で、遺伝子発現の転写後調節は、哺乳類の複雑な神経系の維持や可塑性等においても重要な役割を果していると考えられている。しかしながら中枢神経系の発生・分化過程に関する研究は細胞外因子や転写因子についてがほとんどであり、細胞質RNA結合蛋白質に関するものは殆ど無い。この点からもm-msi-1の解析は、転写後調節による神経発生、分化の制御機構という、新しい概念を提示できると考えられる。

実験方法

 1.m-msi-1遺伝子のクローニング:マウス小脳および胎生期全脳cDNAライブラリーを、d-msi cDNA断片をプローブとして、low stringentの条件でスクリーニングし、mouse-musashi-1(m-msi-1)遺伝子をクローニングした。

 2.m-msi-1蛋白質(m-Msi-1)のRNA結合能の検討:大腸菌体内で発現させた全長m-Msi-1蛋白質および二つのRNA結合モチーフ蛋白質の各RNA結合能を、North-western法に従って検討した。結合を検討したRNA分子としては、5’-末端標識したRNAホモポリマー(A,C,G,U)を用いた。

 3.m-Msi-1の発現パターンの解析:m-msi-1 mRNAの組織局在をノーザンブロットおよびin situハイブリダイゼーションにより検討した。また大腸菌体内で発現させたm-Msi-1蛋白質を抗原としてウサギに免疫し、抗m-Msi-1抗体を作成し、マウス発育期各ステージの中枢神経系におけるm-Msi-1蛋白質の局在を免疫組織化学的に検討した。さらに、m-Msi-1蛋白質発現細胞の細胞型特異性を、マウス胎生期終脳を出発材料とした低密度培養系において検討した。

 4.m-msi-1遺伝子欠損マウスの作製(相同組み換えES細胞の樹立):m-msi-1のゲノムDNAを単離し、その5’領域について特徴を明らかにするとともに、m-msi-1遺伝子のターゲッテッングベクターを構築し、エレクトロポレーションによりES細胞へ導入した。相同組み換え体はサザンブロットによりスクリーニングした。

結果と考察

 mouse-musashi-1のcDNAクローニングを行った結果、推定されるアミノ酸配列は、ショウジョウバエd-msi蛋白質と同様2個の、80アミノ酸残基からなるRRM(RNA-Recognition Motif)を持ち(Motif-A,Motif-B)、各RRM部分においてd-msi蛋白質と60%の同一性を示した。類似アミノ酸残基を計算に入れると相同性は約75%に及ぶことが明らかとなった。このm-Msi-1蛋白質のRNA結合能について検討を行った。全長m-Msi-1蛋白質および二つのRRM蛋白質を大腸菌体内でHis-tagとの融合蛋白質として発現させ、ニッケル-カラムにて精製し、Northwesternブロット法により、RNAホモポリマーとの結合能を検討したところ、全長m-Msi-1蛋白質およびMotif-A蛋白質はポリGホモポリマーに強く結合することから、in vitroではG-に富む配列が下流標的配列であると考えられた。このことは、競合実験においても確かめることができた。興味深いことに、Motif-BにはRNAホモポリマーとの結合能が無いことが示された。現在このモチーフ間のRNA結合能の違いについて、多次元NMR解析とCDスペクトル解析により、立体構造の点から比較している。

 ノーザンブロット解析、in situハイブリダイゼーション、免疫組織化学の結果、m-Msi-1もショウジョウバエのd-Msi同様に神経系特異的に発現していることが明らかとなった。次に、m-Msi-1蛋白質発現細胞の細胞型特異性を組織切片および低密度の初代培養細胞の免疫組織化学的手法により検討したところ、Nestinと同様に、中枢神経系の未分化幹細胞(CNS stem cell;neuroepithelial cell)において特異的に発現しており、未分化幹細胞の非対称的分裂過程において、自己再生する幹細胞において強く発現する一方、分化していく細胞系譜においては発現量が極めて低く、神経細胞あるいはグリア細胞として細胞分化が進む過程において、その発現はほとんど消失することが明かとなった。m-Msi-1蛋白質はこのような発現パターンとショウジョウバエの関連分子(d-Msi)との類似性により、哺乳類神経発生過程における細胞の運命決定、細胞系譜の形成を制御していると考えられた。

 一方、他の神経細胞特異的RNA結合蛋白質としてショウジョウバエElavの哺乳類相同分子Hu蛋白質が知られている。Huおよびm-Msi-1抗体を用いて、それぞれの局在を組織切片、神経上皮細胞(幹細胞)の低密度初代培養で解析した結果、興味深いことにHu蛋白質は、m-Msi-1蛋白質とは逆に、神経細胞への分化に伴い発現が急速に上昇するという互いに相補的な発現パターンを示すことが明かとなった。またHu蛋白質はin vitroでU塩基に富むRNA配列に強く結合するが、m-Msi-1蛋白質はG塩基に富むRNA配列に結合するため、下流標的配列も互いに異なることが示唆された。このような発現パターンとショウジョウバエにおける関連分子(d-MsiとElav)との類似性により、神経発生過程においてm-msiとHu蛋白質は幹細胞分裂時の非対称的分布あるいは、その後の発現細胞を異にすることで、細胞の運命決定を転写後レベルで制御している可能性が考えられる。

 さらに、m-msi-1遺伝子産物の神経発生過程における役割を、個体レベルで明らかにするために、m-msi-1遺伝子欠損マウスの作製を計画した。その第一段階として相同組み換え法によって、m-msi-1遺伝子座に変異を導入したES(embryonic stem)細胞を樹立した。現在この細胞を用いてキメラマウスおよびm-msi-1遺伝子欠損マウスを作製している。

審査要旨

 本研究は脊椎動物神経系の初期発生過程における、細胞の運命決定機構を分子レベルで明らかにするため、ショウジョウバエの末梢神経外感覚器の形成過程において細胞の運命決定、特に細胞系譜の形成を制御していると考えられるmusashi(d-msi)遺伝子産物のマウスにおける関連分子mouse-musashi-1(m-msi-1)の単離を試み、下記の結果を得ている。

 1. mouse-musashi-1(m-msi-1)のcDNAクローニングを行った結果、その遺伝子産物はショウジョウバエd-msiと同様、2個のRRM(RNA-結合モチーフ、Motif-A,Motif-B)を持つ、RNA結合蛋白質であることが明らかとなった。また、各RRM部分におけるm-Msi-1とd-Msi蛋白質との相同性は60%であり、類似アミノ酸残基を計算に入れると両者の相同性は約75%に及ぶことが明らかとなった。

 2. m-msi-1蛋白質(m-Msi-1)のRNA結合能について検討を行った。全長m-Msi-1蛋白質および二つのRRM蛋白質を大腸菌体内で発現、精製し、Northwesternブロット法により、RNAホモポリマーとの結合能を検討したところ、全長m-Msi-1蛋白質およびMotif-A蛋白質はポリGホモポリマーに強く結合することから、in vitroではG-に富む配列が下流標的配列であると考えられた。このことは、競合実験においても確かめることができた。さらに、Motif-BにはRNAホモポリマーとの結合能が無いことが示された。

 3. ノーザンブロット解析、in situハイブリダイゼーション、免疫組織化学の結果、m-Msi-1もショウジョウバエのd-Msi同様に神経系特異的に発現していることが明らかとなった。 m-Msi-1蛋白質発現細胞の細胞型特異性を組織切片および低密度の初代培養細胞の免疫組織化学的手法により検討したところ、Nestinと同様に、中枢神経系の未分化幹細胞(CNS stem cell;neuroepithelial cell)において特異的に発現しており、未分化幹細胞の非対称的分裂過程において、自己再生する幹細胞において強く発現する一方、分化していく細胞系譜においては発現量が極めて低く、神経細胞あるいはグリア細胞として細胞分化が進む過程において、その発現はほとんど消失することが明かとなった。

 4. 別の神経細胞特異的RNA結合蛋白質としてショウジョウバエElavの哺乳類相同分子Hu蛋白質が知られている。Huおよびm-Msi-1抗体を用いて、それぞれの局在を組織切片、神経上皮細胞(幹細胞)の低密度初代培養で解析した結果、Hu蛋白質は、m-Msi-1蛋白質とは逆に、神経細胞への分化に伴い発現が急速に上昇するという互いに相補的な発現パターンを示すことが明かとなった。またHu蛋白質はin vitroでU塩基に富むRNA配列に強く結合するが、m-Msi-1蛋白質はG塩基に富むRNA配列に結合するため、下流標的配列も互いに異なることが示唆された。

 5. m-msi-1遺伝子産物の神経発生過程における役割を、個体レベルで明らかにするために、m-msi-1遺伝子欠損マウスの作製を計画した。その第一段階として相同組み換え法によって、m-msi-1遺伝子座に変異を導入したES(embryonic stem)細胞を樹立した。

 以上、本論文は、ショウジョウバエの神経発生過程において細胞の運命決定、特に細胞系譜の形成を制御していると考えられる神経系特異的RNA結合蛋白質d-Msiの、哺乳動物における関連分子m-Msi-1を同定し、生化学的解析および発現パターンの詳細な解析を行うことにより、m-Msi-1が中枢神経系の未分化な幹細胞において強く発現しているRNA結合蛋白質であることを明らかにした。一方、神経系幹細胞から分化した神経細胞においては別のRNA結合蛋白質Huが発現していることを示している。現在まで、中枢神経系の発生・分化過程に関する研究は細胞外因子や転写因子についてがほとんどであり、細胞質RNA結合蛋白質に関するものは殆ど無い。この点からもm-msi-1やHuの解析は、転写後調節による神経発生、分化の制御機構という、新しい概念の確立に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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