学位論文要旨



No 112024
著者(漢字) 元井,紀子
著者(英字)
著者(カナ) モトイ,ノリコ
標題(和) 甲状腺癌の組織学的分化度に関する病理組織学的研究 : 細胞増殖因子及びras遺伝子との関連についての免疫組織化学的、分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 112024
報告番号 甲12024
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1080号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,茂郎
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
 東京大学 助教授 松谷,章司
 東京大学 助教授 村上,俊一
内容要旨 目的

 甲状腺癌は一般に予後良好な癌であるが、時に急速な経過をたどり死亡する症例があり、悪性化を規定する因子の解明が待たれている.一方、甲状腺腫瘍は組織学的分類が予後と良く相関する腫瘍としても有名である.これまでに、癌の悪性度は乳頭癌、瀘胞癌、未分化癌の順に転移,浸潤の頻度が高く予後不良であることが臨床的研究から判明しており,細胞学的所見を重んじた分類が主流を占めてきた.一般に乳頭癌,瀘胞癌が10年生存の期待できる予後良好な癌であるが,未分化癌は殆ど全ての症例が発見から1年以内の経過で死に至る非常に予後の悪い癌であり,臨床的予後の点から極端な違いが認められる.Sakamotoらは予後の良好な癌である乳頭癌と濾胞癌に、高分化癌、低分化癌という組織学的分化度分類を提唱し、高分化癌と未分化癌の中間的存在としての低分化癌の概念を導入した.分化度分類は臨床病理学的に予後因子との相関が認められ、1988年の甲状腺癌取扱い規約分類にも亜分類に取り入れられ,重要な分類として注目されている.

 さて,細胞増殖因子は,正常細胞の増殖、分化や発生などに関与する重要な因子で、様々な癌細胞の増殖、形態形成、浸潤、転移等に関わっている可能性が示唆されている.甲状腺でも,上皮増殖因子,形質転換増殖因子ベータ,インスリン様増殖因子,血小板由来増殖因子等の増殖因子が,腫瘍の増殖や進展に関与することが報告されている.

 近年の分子生物学の進歩に伴って,甲状腺癌でも種々の癌遺伝子,癌抑制遺伝子の異常が報告されている.その中でも,甲状腺癌ではras遺伝子の異常が最も高頻度である.しかし,組織学的分化度とras遺伝子の変異の関連は明かではない.

 本研究では以上のような研究の進展状況を踏まえ、甲状腺癌を病理組織学的分化度により高分化癌,低分化癌,未分化癌と3型に分類した場合,その分類が各種の細胞生物学的マーカーと相関しているか否かを検討し,甲状腺癌の分化度分類の有用性,特に高分化癌と未分化癌の中間的存在としての低分化癌の位置付けを明かにすることを目的とした.細胞生物学的マーカーとしては,多様な生物活性を有する比較的新しい増殖因子である肝細胞増殖因子(HGF,hepatocyte growth factor)とそのレセプターc-Met及び広範な臓器に存在し甲状腺にも高発現している塩基性線維芽細胞増殖因子(basic fibroblast growth factor,bFGF)とその高親和性レセプターFGFR1の発現の変化,そしてras遺伝子の変異及びras遺伝子産物(Ras)の発現について検索した.

対象と方法

 東大病院および関連施設にて得られた甲状腺手術材料240例、剖検材料1例、計241例を対象とし以下の検索を行った.

 1)年齢、性別、腫瘍径,リンパ節転移及び腺内転移の有無について検索した.

 2)組織型分類及び組織学的分化度分類を行った.分化度分類の基準は,乳頭状あるいは濾胞状の構造をとるものは高分化癌と定義し、索状、充実性あるいは胞巣状の構造をとるものを低分化癌と定義した.未分化癌は,一定の構造をとらず多形性が非常に強い腫瘍と定義した.

 3)ホルマリン固定パラフィン包埋切片を用いて,HGF及びc-Met,bFGF及びFGFR1に関してsABC法による免疫組織化学的染色を施行した.染色結果は、HGF,bFGF,及びFGFR1については陰性、陽性、強陽性の3段階、c-Metは陰性、弱陽性,陽性、強陽性の4段階で評価した.

 5)新鮮凍結検体を用いて,ras遺伝子の変異を検索した.Nested PCR(polymerase chain reaction),ダイレクトシーケンス法により塩基配列を決定した.また,Rasの発現を免疫組織化学的に検索した.

結果1)臨床及び病理学的検索

 分化度の低下に伴って,高齢,男性の割合の増加,腫瘍径の増大,腺内転移の頻度の増加傾向が認められた.リンパ節転移の頻度は,分化度との相関は認められなかった.

2)細胞増殖因子に関する免疫組織化学的染色の結果

 c-Metの結果は.高分化癌では、114例中41例(35.9%)が強陽性、50例(43.9%)が陽性,13例(11.4%)が弱陽性、10例(8.8%)が陰性であった.低分化癌では、19例中2例(10.5%)が強陽性,2例(10.5%)が陽性、12例(63.2%)が弱陽性、3例(15.8%)が陰性であった.未分化癌では、全例(3例中3例)陰性であった.組織学的分化度とc-Metの染色性の間には統計的に有意な関連が認められた(Kruskal Wallis検定,p=0.001).c-Metの免疫組織化学的発現は高分化癌で高率で強く、低分化癌、未分化癌では低い傾向が認められた.一方、組織型分類では、乳頭癌で高率で、濾胞癌,未分化癌では低い傾向が認められ,有意な関連が認められた(p=0.002).

 HGFの結果は,高分化癌では、146例中33例(22.6%)が強陽性、27例(18.5%)が陽性、86例(58.9%)が陰性であった.低分化癌では、19例中4例(21.0%)が強陽性、3例(15.8%)が陽性、12例(63.2%)が陰性であった.未分化癌では、3例中1例(33.3%)が陽性、2例(66.7%)が陰性であった.組織学的分化度とHGFの染色性の間には有意な関連は認められなかった(p=0.787).また組織型との間にも有意な関連は認められなかった(p=0.419).

 FGFR1の結果は,高分化癌では、145例中74例(51.0%)が強陽性、46例(31.7%)が陽性、25例(17.3%)が陰性であった.低分化癌では、21例中5例(23.8%)が強陽性、5例(23.8%)が陽性、11例(52.4%)が陰性であった.未分化癌では、3例中1例(33.3%)が強陽性、2例(66.7%)が陰性であった.甲状腺癌の組織学的分化度とFGFR1の染色性の間には統計的に有意な関連が認められた(p=0.002).FGFR1の発現は,高分化癌が低分化癌,未分化癌に比し高率で強い傾向が認められた.一方,組織型分類では有意な相関は認められなかった(p=0.306).

 bFGFの結果は,高分化癌では、141例中70例(49.5%)が強陽性、14例(9.9%)が陽性,57例(40.5%)が陰性であった.低分化癌では、21例中7例(33.3%)が強陽性、4例(19.1%)が陽性,10例(47.6%)が陰性であった.未分化癌では、3例中1例(33.3%)が強陽性、2例(66.7%)が陰性であった.bFGFは腫瘍細胞の基底膜側,間質血管に強い陽性所見が認められた.甲状腺癌の組織学的分化度とbFGFの染色性の間には、有意な関連は認められなかった(p=0.689).また,組織型との間にも有意な関連は認められなかった(p=0.708).

3)ras遺伝子の突然変異およびras遺伝子産物の検索結果

 ras遺伝子の突然変異の検索結果は,高分化癌としては17例中11例(64.7%)に変異が認められた.そのうち,9例(52.9%)がアミノ酸置換を伴う変異であり,2例(11.8%)はアミノ酸置換を伴わない変異であった.低分化癌には3例中3例(100%)と全例にアミノ酸置換を伴う変異が認められた.良性腫瘍である濾胞腺種には5例中2例(40.0%)にアミノ酸置換を伴う変異が認められた.

 Rasの免疫組織化学的染色結果は,高分化癌では,16例中8例(50.0%)が強陽性,6例(37.5%)が陽性,2例(12.5%)が陰性であった.低分化癌では,3例中3例(100%)が陽性であった.検索した髄様癌は陰性であった.瀘胞腺種は,4例中1例(25.0%)は強陽性,3例(75.0%)は陽性であった.ras遺伝子変異の有無とpan-rasの間には有意な関連は認められなかった(Mann Whitney-U検定,p=0.517).

考察

 甲状腺癌におけるc-MetあるいはFGFR1の免疫組織化学的発現は,高分化癌で高く,低分化癌,未分化癌では低い傾向が認められた.この結果から,組織学的分化度分類は腫瘍の生物学的特性の一側面を反映する分類であることが示唆された.また,c-Metは,乳頭癌で高率に発現がみられ,組織型形成にも関与することが示唆された.FCFR1の発現からは,分化度分類の方が組織型分類に比べ,腫瘍の特性を反映する分類であると考えられた.c-Met,FCFR1は共に,癌化の初期に関与する可能性が考えられるが,甲状腺での発現の意義については今後の検討課題であると考えている.またそのリガンドであるHGF,およびbFGFは腫瘍細胞における発現は低く,分化度あるいはあるいは組織型との関連は認められなかった.

 ras遺伝子の点突然変異は,従来の日本の報告よりも高率に検出された.癌については組織学的分化度が低くなると変異の頻度は増加し,組織型分類よりも良く関連していた.ras遺伝子変異とRasの免疫組織化学的な発現の間には関連は認められなかった.このことから,Rasの免疫組織化学的発現に関しては細胞内情報伝達に関わる複雑な相互関係を反映しているものと考えられた.

 甲状腺癌については,組織学的分化度は,細胞生物学的,分子生物学的側面からも悪性度あるいは生物学的特徴をよく反映している分類であることが明かとなり,今後ますます臨床的にも重要な位置を占めていくものと考えられた.

審査要旨

 本研究は甲状腺癌の組織学的分化度分類の妥当性の検証を目的として,細胞増殖因子とそのレセプター(HGF/c-MET,bFGF/FGFR1),ras遺伝子の点突然変異及びras遺伝子産物(Ras)の発現について検索し下記の結果を得ている.

 1.低分化癌は,組織型分類で乳頭癌または瀘胞癌に分類される分化癌のうち13%を占めていた.

 2.臨床及び病理学的検索からは,高分化癌に比し,低分化癌,未分化癌では,高齢,男性の割合が高く,腫瘍径が大きく,腺内転移の頻度が高い傾向が認められた.これらは臨床的予後不良群に相当する.

 3.ホルマリン固定パラフィン包埋切片を用いた免疫組織化学的検索により下記の結果を得た.

 1)c-Metは,高分化癌で最も高率に強く発現しており,低分化癌,未分化癌では低率で弱い傾向が認められ,統計的にも有意な関連が認められた(P=0.001).また,組織型別では乳頭癌で最も高率であり,濾胞癌,未分化癌では低い傾向が認められた(p=0.002).

 2)HGFはc-Metに比し腫瘍細胞の陽性率は低かった.また組織学的分化度または組織型との関連は認められなかった(p=0.787,p=0.419).

 3)FGFR1は高分化癌で最も高率で強い発現が認められ,低分化癌,未分化癌では低率である傾向が認められ,有意な関連があった(p=0.002).一方,組織型別では有意な関連は認められなかった(p=0.360).

 4)bFGFは腫瘍細胞の基底膜側や間質血管に強い陽性所見が得られた.組織学的分化度または組織型との関連は認められなかった(p=0.689,p=0.708).

 以上より,組織学的分化度分類は,c-MetあるいはFGFR1の免疫組織化学的発現とよく関連することが明かとなり,腫瘍の生物学的な一側面を反映することが支持された.また,c-Met,FGFR1の発現は甲状腺の癌化,腫瘍化に関与する可能性が示唆されるが,その意義については,さらに今後の検討が必要である.

 4.ras遺伝子の検索の結果,高分化癌の11/17例(67.6%),低分化癌の3/3例(100%)に点突然変異が認められた.高分化癌よりも低分化癌で変異の頻度が高い傾向が認められた.変異の部位は,Nras codon61に多い傾向があったが特定のものはなかった.また,瀘胞腺腫でも2/5例(40%)に変異が認められ,腫瘍化の初期に関与することが示唆された.また,従来の日本の報告より高率に変異が認められたが,本研究では凍結検体を対象としたこと,direct sequenceの感度が高いことなどがその理由として考えられた.また,Rasの免疫組織化学的発現,ras遺伝子の点突然変異の有無との関連は認められなかった(p=0.517).Rasの発現は,遺伝子異常だけでなく情報伝達系の様々な因子の関与することが推察された.

 以上,本論文では,甲状腺癌の組織学的分化度分類について,分子細胞生物学的因子との関連を検索し,細胞増殖因子レセプターであるc-MetあるいはFGFR1の発現,また,ras遺伝子の点突然変異の頻度との関連が認められた.組織学的分化度分類は腫瘍の生物学的特性の一側面を反映する分類であることが明かとなり,今後ますます重要な位置を占めていくものと考えられ,学位の授与に値するものと考えられた.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54534