第一章:脳において高い発現を示す新しいチロシンキナーゼ遺伝子brtのクローニング 受容体型チロシンキナーゼを介したシグナル伝達系は細胞増殖ばかりではなく、動物の発生過程においても重要な役割を果たしていることが明らかになっている。例えば、ショウジョウバエで光受容細胞の発生異常を示す突然変異体から得られたsevenless遺伝子は受容体型チロシンキナーゼをコードし、補乳類細胞の増殖シグナル伝達と類似の機構がその下流に存在している。また、マウスの突然変異体であるW/W及びS1は、血球系細胞の分化過程に異常が見られるが、原因遺伝子はそれぞれ受容体型チロシンキナーゼとそのリガンドをコードしている。本研究では哺乳動物の神経系の発生、分化におけるチロシンキナーゼの関与を調べるための第一歩として、発生段階の脳において高い発現を示す新しいチロシンキナーゼ遺伝子のクローニングを試みた。
チロシンキナーゼはその活性ドメインとして、約250アミノ酸からなる領域を持っている。この中で特にによく保存されたアミノ酸配列を元にオリゴヌクレオチドを作成し、これをプライマーとしてPCR法によりcDNAを増幅した。増幅したcDNAをプラスミドにサブクローニングし、約80クローンの塩基配列を決定したところ、2クローンは未知のチロシンキナーゼ遺伝子のものであった。そのうちの1つについてcDNAの全長をクローニングし、塩基配列を決定した結果、新しい非受容体型チロシンキナーゼをコードしていることがわかったが、その直後にfocal adhesion kinase(FAK)として同じ遺伝子が報告された。熊本大学の相澤博士らとの共同研究によりこのcDNAをもとに遺伝子欠損マウスを作出したところ、受精後約8日で胎生致死となり、初期発生段階における重要性が示唆された(Ilic et al.Nature377,539-544)。
残るもう1つのクローンをプローブとして全長のcDNAをクローニングしたところ、チロシンキナーゼドメイン、疎水性に富むアミノ酸からなる膜貫通部位と思われる領域を含む856アミノ酸からなる蛋白質をコードしており、この産物は受容体型チロシンキナーゼであると考えられた。mRNAの発現をNorthern blottingで調べると、脳において高い発現が見られたことから、これをbrt(brain receptor protein-tyrosine kinase)と名付けた。既知のキナーゼとの類似性をデータベースで検索したところ、Axlチロシンキナーゼとほぼ全体にわたって比較的高い類似性を示した(全体で42%、キナーゼドメインで62%のアミノ酸が一致)。Axlチロシンキナーゼは、慢性骨髄性白血病(CML)由来の細胞から癌遺伝子として同定され、過剰に発現させると繊維芽細胞をトランスフォームさせることが報告されている。これに類似性を示すBrtチロシンキナーゼも細胞増殖シグナルの伝達に関わっている可能性があるが、これらの細胞外領域には、細胞接着に関わる分子によく見られるfibronectin typeIII(FNIII)様構造及びimmunoglobulin(Ig)様構造がそれぞれ2つずつ存在し、細胞増殖以外の機能を持っていることも予想された。最近になって、Axl及びBrtが、NIH3T3細胞の血清飢餓時に発現が誘導される遺伝子として同定されたGas6遺伝子産物に結合して活性が上昇することが報告されたが、この生理的意義は未だ明らかではなく、今後の解析が待たれる。
第二章:t(2;5)染色体転座によって生じたチロシンキナーゼ融合蛋白質p80(NPM-ALK)の細胞癌化能の解析 Ki-1リンパ腫はKi-1抗原(CD30)の発現及び大型の特徴的な形態の細胞の出現を指標とする非ホジキン型リンパ腫(NHL)で、その中の約30%には特定の染色体転座t(2;5)(p23;q35)が観察される。この染色体転座を持つKi-1リンパ腫細胞株において特異的に強くチロシンリン酸化されている蛋白質(p80と命名)が検出され、さらに抗リン酸化チロシン抗体を用いたこの蛋白質の精製およびアミノ酸配列の決定により6つの部分アミノ酸配列が得られた。そのうち4つは血球系において発現を示すインスリンレセプターファミリーに属するチロシンキナーゼであるLtk(Leukocyte tyrosine kinase)と高い類似性を示したことから、このp80蛋白質は新しいチロシンキナーゼであり、その活性化がこのリンパ腫の発症に関与していると予想された(Shiota et al,Oncogene,9,693-698)。
私はこのp80蛋白質の同定のため、アミノ酸配列より作成したオリゴヌクレオチドをプライマーとしてPCR法によりcDNA断片を増幅し、これをプローブとして約2.6kbのcDNAをクローニングした。塩基配列を決定したところ、精製蛋白質の解析によって得られたペプチド配列を含む約75kDaの蛋白質をコードするORFが見出された。Genbankデータベースで検索すると、5’-端約450bpの配列は既知の核蛋白質nucleophosmin(NPM)と完全に一致し、その下流の配列はLtkと最も高い類似性を持つ(キナーゼドメインにおいてLtkと約80%、インスリンレセプターと約35%のアミノ酸が一致)未知のチロシンキナーゼをコードしていた。Northern blottingによりmRNAの発現を検討したところ、チロシンキナーゼ部分のcDNAをプローブとして用いるとリンパ腫細胞にのみ約4kb,3kb弱の2種のmRNAが、またNPM部分をプローブとすると1.8kbのNPM mRNAに加えリンパ腫細胞においてはキナーゼ部分をプローブとした場合と同じ長さのmRNAが検出された。また、チロシンキナーゼ部分のcDNAをプローブとしてゲノムDNAをクローニングし、これを用いて染色体in situハイブリダイゼーションを行って、キナーゼ部分の遺伝子をこの細胞の転座点の一方である2p23にマップした。加えてこの頃、同じ転座点を5番染色体からの染色体歩行により解析していたグループより、この転座点付近より転写される遺伝子として、同じcDNAが報告された。これらのことより、p80蛋白質は、染色体転座によって生じた融合遺伝子によってコードされる融合蛋白質であると考えられた。
このリンパ腫の発症におけるp80の役割を明らかにするため、NIH3T3細胞を用いたフォーカス形成を指標として細胞癌化能の検討を行った。発現ベクターに組み込んだp80cDNAをNIH3T3細胞に導入し培養を続けると、p80を発現させた細胞は増殖の接触阻止がかからなくなりフォーカスを形成した。このフォーカス由来の細胞は親株のNIH3T3とは明らかに異なるトランスフォームした細胞の形態を示し、また軟寒天培地上でコロニーを形成した。興味深いことに、融合蛋白質のN’-末端のNPMと相同な部分を欠いた、チロシンキナーゼ部分のみを発現させた細胞ではフォーカス形成がみられず、p80の細胞癌化能にはNPM部分が必須であることが示された。
p80のキナーゼ部分は未知のものであったため、細胞の癌化に関わるシグナルを伝える下流の因子については全く不明であった。p80のアミノ酸配列に既知のシグナル伝達分子の結合配列を探すと、2つのShc及びIRS-1の結合配列が見つかった(NPNY156とNPTY567)。p80によりトランスフォームしたNIH3T3細胞を用いてp80とShc及びIRS-1のあいだの物理的な会合を免疫共沈法により調べた結果、p80はどちらの分子とも会合しており、またこれらの分子のチロシンリン酸化も上昇していた。このことから、Shc及びIRS-1がp80の活性化によるシグナルの伝達に関与していると考えられた。しかし、この2つの結合配列にチロシンからフェニルアラニンへの変異を導入したcDNA(Y156F,Y567F,Y156/567F)は、p80と同様にNIH3T3細胞をトランスフォームした。従ってこの部分はp80の細胞癌化能には必須ではないことが示唆された。一方、これら変異cDNAによってトランスフォームした細胞を用いて変異p80とShc及びIRS-1のあいだの物理的な会合を免疫共沈法により調べた結果、それぞれ異なる結合配列を介してp80と会合し、チロシンリン酸化を受けていることが明らかになった。この二つの結合配列の両方に変異を持つp80にはどちらの分子も結合できないが、Grb2/Ashアダプター分子は会合していることが観察され、p80による細胞癌化能の発現にGrb2/Ashが関与している可能性が示唆された。