本研究は、Tリンパ球が胸腺で分化・成熟する過程において、T細胞の分化後期のdouble positive(DP)細胞がセレクションを受ける段階でT細胞内に発現している非リセプター型チロシンキナーゼでsrcファミリーに属するp56lck(Lck)が果たす役割を明らかにするために、まずp56lckの酵素活性ドメイン内の、リン酸基受け渡し部位のアミノ酸1個を置換し、lckの遠位プロモーターを連結した遺伝子を構築し、これによって、キナーゼ活性を失ったLckを過剰発現させたドミナントネガティブのトランスジェニック(Tg)マウス(DLGKR Tg)を作成し、その胸腺細胞を用いて、またセレクション様式が明らかなTCRのTgマウスとの交配によって得られたF1マウスのT細胞を用いて解析を試みたものである。導入遺伝子発現を制御するプロモーターにはlckの遠位プロモーターを用いている。これはT細胞がセレクションを受けるDP細胞から末梢成熟T細胞まで連続的に働くプロモーターであり、本研究では下記の結果を得ている。 1.DLGKR Tgマウスの胸腺細胞についてCD4/CD8分子の発現パターンでは導入遺伝子の量に比例して、dose-dependentに成熟タイプのCD4 single positive(SP)細胞の数が減少し、成熟T細胞の指標となるT細胞リセプター(TCR)やセレクションを受ける細胞に特異的に発現する早期活性化マーカーCD69の解析からは、TCRhigh、CD69+の細胞についても数の減少が認められた。最も成熟度の高いHSA-Qa-2+細胞もdose-dependentに減少していた。 2.ウエスタンブロット法やin vitroキナーゼ解析法の結果から、DLGKR Tgマウスの胸腺細胞では、正常マウスの胸腺細胞に比べて細胞あたりのLck分子のタンパク量やCD4やCD8に会合しているLckのタンパク量は2倍存在するが、CD4あるいはCD8分子と会合しているLckのキナーゼ活性は1/3程度に減少していることがわかった。 3.雄抗原(H-Y)特異的classI(H-2Db)MHC拘束性TCR 遺伝子を導入したH-Y Tgマウスと、DLGKR Tgマウスとを交配し、ダブルTgマウスを得てCD4/CD8プロファイルを検討した結果、ポジティブセレクションがおこる雌では、DP細胞の産生には変化がなかったのに対し、CD8SP細胞の産生には著しい減少が確認された。雄のダブルTgマウスの胸腺細胞では、CD4/CD8のプロファイルはコントロールと比較しても有意な増減は認められなかった。したがって、DLGKRの遺伝子が存在することによってH-Y TCR陽性のT細胞のポジティブセレクションは抑制されるが、ネガティブセレクションは抑制されないことが示された。 4.CBA/JマウスではV 6、V 11、V 5陽性T細胞が、特定の内在性スーパー抗原と反応して、胸腺内でネガティブセレクションを受ける結果、成熟胸腺T細胞内のこれらのV 陽性T細胞の比率が減少しているが、DLGKRマウスとCBA/Jマウスの交配で得られたF1マウスの胸腺細胞の各V 陽性細胞群の比率にもコントロールのF1マウスと比べて変化は認められなかった。つまり、内在性スーパー抗原によるV 6、V 11、V 5のネガティブセレクションについてもDLGKRの遺伝子の存在によっては抑制されないことが確認された。 5.T細胞リセプターの刺激によっておこる細胞内カルシウム濃度の上昇に関して、またネガティブセレクションの指標となるin vitroでのDNA断片化に関しては、正常マウスとDLGKR Tgマウスの胸腺細胞との比較で顕著な差異は認められなかった。 以上、本論文はキナーゼ活性を失ったLckを発現したドミナントネガティブTgマウスの解析から、マウス胸腺細胞において、CD69の発現やポジティブセレクションにはp56lckチロシンキナーゼの活性化が必要だが、ほとんどのネガティブセレクションには必要ないことを明らかにしている。さらに本論文はT細胞レパートリーを形成するメカニズムであるポジティブセレクションにはLckの活性化が必要であるという事実を初めて明らかにした研究結果を記述したもので、学位の授与に値するものと考えられる。 |