学位論文要旨



No 112033
著者(漢字) 橋本,香保子
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,カホコ
標題(和) p56lckによる胸腺内T細胞分化の調節 : ポジティブセレクションとCD69の発現にはp56lckの活性化が必須である
標題(洋) Requirement of p56lck tyrosine kinase activation for CD69 expression and positive selection in the thymus
報告番号 112033
報告番号 甲12033
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1089号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,道夫
 東京大学 教授 高津,聖志
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 助教授 生田,宏一
 東京大学 講師 奥平,博一
内容要旨 本研究の背景と目的

 p56lckは、T細胞内に発現している非リセプター型のチロシンキナーゼで、srcファミリーに属する。p56lckのノックアウト(KO)マウスでは、double negative(DN)細胞からdouble positive(DP)細胞への分化が極度に阻害されるため、DP細胞への分化にp56lckは必須であると考えられている。T細胞リセプター(TCR)からシグナルを伝達すると考えられているZAP-70のKOマウスではCD4 single positive(SP)細胞もCD8SP細胞も産生されない。ZAP-70の活性化にはp56lckが必要であるという結果もあり、p56lckのCD4SP、CD8SP細胞産生への役割も注目されてきている。

 本研究では、T細胞の分化後期のDP細胞がセレクションを受ける段階でp56lckが果たす役割を明らかにするためにp56lckの酵素活性ドメイン内に存在し、リン酸基受け渡し部位の273番目アミノ酸リジンをアルギニンに置換し、lckの遠位プロモーターを連結した遺伝子を構築し、これによってキナーゼ活性を失ったp56lck("dead p56lck")を発現させたドミナントネガティブのトランスジェニック(Tg)マウスDLGKRを作製した。lckの遠位プロモーターは、成熟胸腺細胞にも発現し、セレクションの起こる段階でもその発現がみられる特徴がある。このTgマウスの胸腺細胞を直接用いて、あるいは、セレクション様式が明らかにされたTCRのTgマウスとの交配によって得られたF1マウスのT細胞を用いて、以下の実験を行った。

実験材料と方法◆"dead p56lck"マウス(DLGKR)の作製

 上記の変異lck遺伝子に遠位プロモーターを連結して構築した遺伝子を、C57BL/6マウスに導入し、Tgマウスを作製した。導入遺伝子の有無は、ジェノミックサザンブロットハイブリダイゼーション解析によって判定した。作製したTgマウス胸線細胞の解析はフローサイトメトリー(FACS)を用いて行った。また、p56lckのキナーゼ活性はin vitroキナーゼアッセイで測定した。

◆免疫沈降とin vitroキナーゼアッセイ

 細胞内に存在するp56lckのうち、CD4あるいは、CD8に会合するp56lckのチロシンキナーゼ活性について、抗CD4抗体、抗CD8抗体などを用いた免疫沈降とin vitroキナーゼアッセイで解析した。キナーゼ反応は氷上で5分、および15分間で測定した。キナーゼ反応物は10%SDSポリアクリルアミド電気泳動で分離し、オートラジオグラフィーによって、[-32P]ATPを反応産物に取り込んだバンドを検出した。

◆H-Y TCR Tgマウス

 von Boehmerらによって作製された、H-Y Tgマウスは、雌C57BL/6マウスから単離したCD4-CD8+キラーT細胞クローン由来の雄抗原(H-Y)特異的クラスI(H-2Db)MHC拘束性TCR遺伝子を導入したマウスである。このH-Y Tgマウスは大部分のT細胞でTg TCRを発現するようになる。このTCR発現T細胞はH-2bの遺伝的背景のもとで雌においてはポジティブセレクションを受け、雄においてはH-Y抗原とTCRが反応しネガティブセレクションを受ける。よって、H-Y Tgマウス雌の胸腺細胞では、ポジティブセレクションの結果、CD8SP細胞群の比率が増加している。H-Y Tgマウスの雄の胸腺細胞では、DPに分化する段階でネガティブセレクションがおこり、DP細胞群もCD8SP細胞群も極端に減少している像が見られる。このH-Y TgマウスとDLGKR Tgマウスを交配し、そのF1マウスを得て、抗CD4、抗CD8抗体で染色しFACSでCD4/CD8プロファイルを解析した。

◆内因性スーパー抗原によるネガティブセレクションシステム

 CBA/Jマウスは特定の内因性スーパー抗原を発現し、それと反応する特定の(5、11、6など)陽性細胞は、胸腺内でネガティブセレクションをおこし、成熟胸線細胞や末梢T細胞中にほとんど存在しない。CBA/JマウスとDLGKRマウスを交配させ、F1の胸腺細胞を抗CD4、抗CD8抗体、抗抗体で3カラーFACS解析を行い、胸腺細胞全体に占める、CD4SP細胞あるいはCD8SP細胞のうちの、特定のをもつT細胞の比率を算出し、ネガティブセレクションの起こり方を調べた。

結果と考察◆DLGKR Tgマウス胸腺細胞のFACSパターンからポジティブセレクションの抑制や成熟T細胞群の減少が観察された

 コントロールマウス、Tgヘテロ、ホモのマウスの胸腺細胞のCD4/CD8パターンを比較すると、導入遺伝子のコピー数に比例してCD4SP細胞群の比率が減少していた。成熟T細胞のマーカーとなるTCR、またセレクションをうける細胞に特異的に発現する早期活性化マーカーCD69の発現を比較すると、コントロールマウスよりヘテロTgマウス、ヘテロTgマウスより、ホモTgマウスのほうが、TCRhighの細胞についてもCD69+の細胞についても減少が認められた。未熟細胞のマーカーであるheat stable antigen(HSA)、成熟細胞のマーカーであるMHC classI分子の一つQa-2の発現パターンから、導入遺伝子の頻度が高いほどSP細胞中でも最も成熟度の高いHSA-Qa-2+細胞群の比率が減少していた。さらに、抗TCR抗体でコントロール、Tg各マウスの胸腺細胞を刺激し、CD69の発現上昇を検討したところ、コントロールマウスでは抗TCR抗体の濃度依存的にCD69の発現が上昇したのに対し、Tgマウスでは導入遺伝子のコピー数に比例して発現上昇度も抑制されていた。

◆DLGKR Tgマウス胸腺細胞でのp56lck分子のキナーゼ活性

 コントロールマウス、DLGKR Tgマウスの胸腺細胞を用いたin vitroキナーゼアッセイの結果から、CD4分子あるいはCD8分子と会合しているp56lckのキナーゼ活性は、DLGKR Tgマウスではコントロールのマウスに比べて約1/3であった。DLGKRマウスの胸腺細胞では抗CD4(IgM)抗体を用いて、CD4分子を5分、10分、架橋刺激した場合においても、p56lckのキナーゼ活性の上昇は認められなかった。T細胞内に発現し、やはりsrcファミリーのチロシンキナーゼp59fynのキナーゼ活性を比較するとコントロールマウスでもDLGKR Tgマウスでも胸腺細胞でのp59fynのキナーゼ活性には差異はなかった。

◆"dead p56lck"を発現するH-Y Tgマウス雌においてDPからSPへのポジティブセレクションは抑制された

 H-Y TgマウスとDLGKR Tgマウスの交配で得られた雌F1マウスの胸腺細胞のCD4/CD8プロファイルをコントロールと比較した。DP細胞群の比率に変化がなかったのに対し、CD8SP細胞群での著しい減少が確認された。即ち、"dead p56lck"発現DLGKR TgマウスにおいてDP細胞からCD8SP細胞への分化、すなわちポジティブセレクションが抑制されていることが示された。

◆"dead p56lck"を発現するH-Y Tgマウス雄においてネガティブセレクションは抑制されない

 H-Y Tgマウスの雄の胸腺細胞では、DN細胞からDP細胞へ分化する段階でネガティブセレクションをうけるため、DP細胞群やCD8SP細胞群の比率も極端に減少している。ネガティブセレクションが抑制されるならば、DP細胞の産生量が回復すると予想されるが、DLGKR Tgマウスとの交配で得られた雄のF1マウスの胸腺細胞のCD4/CD8プロファイルでは、DP細胞群の比率もCD8SP細胞群の比率もコントロールと比較しても有意な増減は認められなかった。即ち、dead p56lckを発現するH-Y Tgマウスにおいてネガティブセレクションは抑制されないことが示唆された。

◆内在性スーパー抗原による特定の TCR+細胞のネガティブセレクションは"dead p56lck"によって抑制されない

 CBA/Jマウスでは、6、11、5を鎖に持つT細胞が、内在するスーパー抗原と反応してネガティブセレクションを受け、その結果6、11、5陽性T細胞の比率が減少している。8.2+T細胞は、ネガティブセレクションを受けないので、コントロールとして用いた。DLGKRマウスとCBA/Jマウスの交配で得られたF1マウスの胸腺細胞のCD4SP細胞、CD8SP細胞での6、11や5の使用頻度には注目すべき変化は観察されなかった。8.2+T細胞群の比率にも変化は認められなかった。つまり、内在性スーパー抗原による6、11、5のネガティブセレクションは"dead p56lck"によって抑制されないことが示唆された。

 ポジティブセレクションとネガティブセレクションが誘導される際の、細胞内シグナル伝達系の違いについては、これまでほとんど解明されていなかった。1995年になって、1)カルシニューリンの活性化がポジティブセレクションには必要であるが、ネガティブセレクションには必要でない、2)p21ras-raf-MAPKK-MAPKのシグナル伝達系のp21rasやMAPKKのドミナントネガティブマウスではポジティブセレクションはブロックされるがネガティブセレクションはブロックされない、という報告がなされた。本研究では、新たにp56lckのチロシンキナーゼ活性の必要性に違いがあることが明らかになった。

結論

 "dead p56lck"を発現したトランスジェニックマウスの解析からCD69の発現やポジティブセレクションにp56lckのチロシンキナーゼ活性は必要だがネガティブセレクションには必要ないことがわかった。したがって、2つのセレクションには、p56lckへの依存度という観点から異なったシグナル伝達系が関与していることが示唆された。

審査要旨

 本研究は、Tリンパ球が胸腺で分化・成熟する過程において、T細胞の分化後期のdouble positive(DP)細胞がセレクションを受ける段階でT細胞内に発現している非リセプター型チロシンキナーゼでsrcファミリーに属するp56lck(Lck)が果たす役割を明らかにするために、まずp56lckの酵素活性ドメイン内の、リン酸基受け渡し部位のアミノ酸1個を置換し、lckの遠位プロモーターを連結した遺伝子を構築し、これによって、キナーゼ活性を失ったLckを過剰発現させたドミナントネガティブのトランスジェニック(Tg)マウス(DLGKR Tg)を作成し、その胸腺細胞を用いて、またセレクション様式が明らかなTCRのTgマウスとの交配によって得られたF1マウスのT細胞を用いて解析を試みたものである。導入遺伝子発現を制御するプロモーターにはlckの遠位プロモーターを用いている。これはT細胞がセレクションを受けるDP細胞から末梢成熟T細胞まで連続的に働くプロモーターであり、本研究では下記の結果を得ている。

 1.DLGKR Tgマウスの胸腺細胞についてCD4/CD8分子の発現パターンでは導入遺伝子の量に比例して、dose-dependentに成熟タイプのCD4 single positive(SP)細胞の数が減少し、成熟T細胞の指標となるT細胞リセプター(TCR)やセレクションを受ける細胞に特異的に発現する早期活性化マーカーCD69の解析からは、TCRhigh、CD69+の細胞についても数の減少が認められた。最も成熟度の高いHSA-Qa-2+細胞もdose-dependentに減少していた。

 2.ウエスタンブロット法やin vitroキナーゼ解析法の結果から、DLGKR Tgマウスの胸腺細胞では、正常マウスの胸腺細胞に比べて細胞あたりのLck分子のタンパク量やCD4やCD8に会合しているLckのタンパク量は2倍存在するが、CD4あるいはCD8分子と会合しているLckのキナーゼ活性は1/3程度に減少していることがわかった。

 3.雄抗原(H-Y)特異的classI(H-2Db)MHC拘束性TCR遺伝子を導入したH-Y Tgマウスと、DLGKR Tgマウスとを交配し、ダブルTgマウスを得てCD4/CD8プロファイルを検討した結果、ポジティブセレクションがおこる雌では、DP細胞の産生には変化がなかったのに対し、CD8SP細胞の産生には著しい減少が確認された。雄のダブルTgマウスの胸腺細胞では、CD4/CD8のプロファイルはコントロールと比較しても有意な増減は認められなかった。したがって、DLGKRの遺伝子が存在することによってH-Y TCR陽性のT細胞のポジティブセレクションは抑制されるが、ネガティブセレクションは抑制されないことが示された。

 4.CBA/JマウスではV6、V11、V5陽性T細胞が、特定の内在性スーパー抗原と反応して、胸腺内でネガティブセレクションを受ける結果、成熟胸腺T細胞内のこれらのV陽性T細胞の比率が減少しているが、DLGKRマウスとCBA/Jマウスの交配で得られたF1マウスの胸腺細胞の各V陽性細胞群の比率にもコントロールのF1マウスと比べて変化は認められなかった。つまり、内在性スーパー抗原によるV6、V11、V5のネガティブセレクションについてもDLGKRの遺伝子の存在によっては抑制されないことが確認された。

 5.T細胞リセプターの刺激によっておこる細胞内カルシウム濃度の上昇に関して、またネガティブセレクションの指標となるin vitroでのDNA断片化に関しては、正常マウスとDLGKR Tgマウスの胸腺細胞との比較で顕著な差異は認められなかった。

 以上、本論文はキナーゼ活性を失ったLckを発現したドミナントネガティブTgマウスの解析から、マウス胸腺細胞において、CD69の発現やポジティブセレクションにはp56lckチロシンキナーゼの活性化が必要だが、ほとんどのネガティブセレクションには必要ないことを明らかにしている。さらに本論文はT細胞レパートリーを形成するメカニズムであるポジティブセレクションにはLckの活性化が必要であるという事実を初めて明らかにした研究結果を記述したもので、学位の授与に値するものと考えられる。

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