学位論文要旨



No 112035
著者(漢字) 伊野宮,興志
著者(英字)
著者(カナ) イノミヤ,コウシ
標題(和) 無症候性頭蓋内疾患のスクリーニングの有効性に関する研究
標題(洋)
報告番号 112035
報告番号 甲12035
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1091号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 小島,通代
 東京大学 教授 金沢,一郎
 東京大学 教授 佐々木,康人
内容要旨 I.研究の背景と課題

 医学の急速な進歩に伴い、新しい技術やシステムが開発されているが、予後を真に改善するかどうかの評価を行う必要がある。また、価値観の多様化に伴い、単に寿命の延長のみならず、患者の主観的な満足度を考慮した上で方針を選択することの重要性が指摘されている。最近、MRA(Magnetic Resonance Angiography)が開発されたことに伴い脳ドック検診が普及しつつある。本研究では、脳ドック検診とその結果発見される疾患、特に未破裂脳動脈瘤を対象として、QOLや長期予後も考慮しつつ予防的手術とスクリーニングの有効性を評価した。また、患者の満足度の評価に不可欠な効用値を直接測定し、有効性に対する影響を検討した。

 未破裂脳動脈瘤はMRAで受診者の数%に発見される。一般に無症状であるが、破裂してくも膜下出血(SAH)となった場合の予後は不良であり、社会復帰できる患者は1/4〜1/3である。現在、未破裂脳動脈瘤が発見された場合、クリッピングなどの予防的手術が第一選択とされている。しかし、動脈瘤の大きさや形状、家族歴などにより破裂のリスクが異なり、全例を手術適応としてよいかは証明されていない。

 我々は、判断分析や状態遷移モデル(State Transition Model)など医学判断学の手法を用いて、未破裂脳動脈瘤の方針選択にかかわるQALY(Quality Adjusted Life Years)を算出した。脳動脈瘤の破裂率や有病率、MRIの性能などのデータについては文献的に検索し感度分析を行った。さらに、発症後および術後の各種の状態の効用値を面接およびアンケート調査で収集した。

 研究の内容をほぼ行った順に、以下のようにまとめた。

 (1) MRAによる未破裂脳動脈瘤のスクリーニングの有効性の検討

 ・未破裂脳動脈瘤の予防的手術の有効性の検討

 ・MRAによる未破裂脳動脈瘤のスクリーニングの有効性の検討

 (2) 効用値の測定

 ・脳ドック受診者に対する面接調査・アンケート調査

II. 方法と結果(1) MRAによる未破裂脳動脈瘤のスクリーニングの有効性の検討(1-1) 未破裂脳動脈瘤の予防的手術の有効性の検討

 未破裂脳動脈瘤に対する予防的手術について判断樹を作成した。経過観察した場合と直ちに予防的手術を行った場合の2つの選択肢を設定した。割引率(Discount)を5%として、Marcov modelを使い両選択肢についてQALY(Quality Adjusted Life Years)を算出した。手術の合併症の発生率と脳動脈瘤の破裂率についてMEDLINEや国内文献から検索したデータに基づいて基準例(Data A)を設定しQALYを算出した。また、手術成績が文献ほど良好でない場合の例として合併症を含む総合的な手術成績(Uo=Or・1+Om・Uom+Od・0)が低下した場合(Data B)も仮定して解析した。また、対象者の年齢・年間破裂率・予防的手術の成績などの要因について、予防的手術による改善(期待効用値の差:QALY)を指標として感度分析を行った。結果をまとめると以下の通り。

 (1) Marcov modelでの分析では、広い年齢層(20〜90)に対して予防的手術が優位であった。

 (2) QALYは最大でも2年、比率にして10%を越えなかった。

 (3) 感度分析では、Data Bの手術成績を用い、年間破裂率を1%以下とした場合、逆に経過観察が優位となった。

図表
(1-2) MRAによる未破裂脳動脈瘤のスクリーニングの有効性の検討

 未破裂脳動脈瘤のスクリーニングに関する判断樹を図に示す。で示した部分は、Marcov modelのサブディレクトリを示す。MRAで脳動脈瘤有りと判定された場合、血管造影検査(DSA)による精密検査を行い脳動脈瘤を確認する。分析には、前項で用いたデータに加え、MRAとDSAの性能(感度・特異度・合併症の頻度)が必要である。DSAの合併症の発生率については、健常人のみのデータではないが、Johnらの数値0.003を用いた。DSAでの未破裂脳動脈瘤の見落としは無視した。脳動脈瘤に対するMRAの性能は日本磁気共鳴学会・頭部MRAスクリーニング検討委員会のデータ(感度73.6%、特異度76.2%)を用いた。未破裂脳動脈瘤の有病率については、中川らの脳ドック受診者のデータに基づき5.7%とした。

図:未破裂脳動脈瘤の判断樹

 前項のData A及びData Bについて、健常人にスクリーニングを行った場合と行わない場合についてQALYを算出し、判断樹の各ノードの吹き出し内に表示した。2段に表示してあるものは、下段がData Bに対応する。いずれもスクリーニングを行った場合の方が優位であった。しかし、期待効用値の差(QALY)は小さく、40才男性の場合でData AとData Bのいずれの場合についても、0.1QALY以下であった。さらに、対象者の年齢・脳動脈瘤の有病率・年間破裂率・予防的手術の手術成績・MRAの感度・特異度について感度分析を行った。

 結果をまとめると以下の通り。

 (1)広い範囲の年齢に対してスクリーニングを行った場合の方が優位であった。

 (2)有病率と年齢に対する感度分析ではQALYは最大でも0.35以下であった(20才で有病率0.2とした場合)。

 (3)総合的な手術成績(Uo)と年齢に対する感度分析ではQALYは最大でも0.1以下であった。

 (4)有病率や年間破裂率のQALYに対する影響は、年齢が若いほど大きくなった。

 (5)MRAの感度および特異度が高いほどQALYは大きくなる。感度分析を行った範囲でスクリーニングを行った場合の方が優位であったが、QALYは最大でも0.1以下であった。

(2) 効用値の測定(2-1) 健康人に対する面接調査・アンケート調査

 前節までの分析では、効用値の値について、Crevelらの根拠のない数値を採用した。しかし、効用値は予後の各種の状態を評価する上で必須のデータであり、健康人を対象として実際に測定した例がなかったので調査を行うこととした。自覚的には異常の無い脳ドック受診者約100名を対象に以下の項目の効用値の測定を行った。

 (1)軽い麻痺の効用値

 (2)重い麻痺の効用値

 (3)未破裂脳動脈瘤と発見された状態の効用値

 面接調査では評点尺度法(Scale Method)と標準的賭法(Standard Reference Lottery)の両方を行った。自記式アンケート調査では、記入時間の負担を考慮して標準的賭法のみを行った。効用値の変動要因として健康管理に対する関心の程度、脳ドックの意義、年収についても質問した。脳ドックの意義については「脳腫瘍を早期に発見する」、「痴呆になり易さがわかる」、「脳梗塞になり易さがわかる」、「脳動脈瘤を発見できる」の4つをあげ、関心度の順番を調査した。

 Crevelらは、重い麻痺の状態を0.75、脳動脈瘤の状態を1としており、これと比較して、アンケート調査で得られた値はかなり低かった。対象者間での変動は大変大きかった。この結果を適用すると、予防的手術については優位性が高くなる。

図表

 また、脳ドックに対しては未破裂脳動脈瘤のみが期待されているわけではなく、スクリーニングの効果については他の疾患についても評価を行う必要があることがわかった。

III.考案

 マルコフモデルと複数の変数による感度分析、および効用値の実測によって、個人個人の立場から見ての有効性をより実態に即した形で評価することができる。また、こうした評価に基づき、集団の構成を考慮して分析を行うことによって、いかなる集団に対してスクリーニングや予防的手術を行うべきかを検討することができる。

 検討すべき問題点としては、以下のようなものがある。

 (1)今回の分析では90才前後まで予防的手術が優位であったが、加齢によって有病率や年間破裂率は増加し、予防的手術の成績は低下することが推測される。このため、予防的手術が優位となる年齢範囲は、今回の分析結果より狭くなる可能性がある。

 (2)分析の基礎としたデータは健康人以外をも含む。健康人はより有病率が低い可能性があり、スクリーニングの優位性を過大評価している可能性がある。

 (3)合併症の発生率や手術成績は、publication biasなどを考慮する必要があり、予防的手術やスクリーニングの優位性はより低くなる可能性がある。

 (4)効用値の測定では、個人差が大きかった。この影響は多方面に渡り複雑であるので、個々の例について分析する必要がある。

 (5)スクリーニングおよび予防的手術による期待効用値の改善(QALY)は大きくないので、今後、費用効果分析などを加える必要がある。

IV.結論

 状態遷移モデルと感度分析を用いて、臨床成績を現実的な範囲で分析した結果では、未破裂脳動脈瘤の予防的手術やスクリーニングは経過観察に比べ概ね優位であった。しかし、有病率、年間破裂率、手術成績それぞれと年齢を組み合わせた感度分析では、年齢と他の要因の関係次第で予防的手術やスクリーニングの優位性が逆転する場合があり、高齢者では予防的手術やスクリーニングを行うべきであると判断することはできないと考えられた。また、有病率、年間破裂率、手術成績の変化によって、QALYの相対的な変動は大きいことが示された。本研究の分析で使用した臨床成績の質の問題点の考察から、QALYがさらに低下する可能性もあると推定された。今後、信頼性の高い資料が入手可能となった時点で再分析を行うことと、スクリーニングの費用-効用値分析を行っていくことが必要と考えられた。

 これまでの未破裂脳動脈瘤の判断分析では、個人の好みや社会的背景の個人差については軽視されてきた。こうした分析に必要である効用値を、自覚症状のない脳ドック受診者114名を対象として初めて実測した。既存の未破裂脳動脈瘤に関する判断分析で仮定されていた効用値と比べて、麻痺のある状態や未破裂脳動脈瘤であることを診断された状態の効用値を低く回答する傾向が見られた。また、対象者間の差も大きかった。このことから、対象者の好み、家族歴、社会的活動性によって、効用値の評価がかなり変わってくることが推定された。今後、こうした要因も考慮して個人毎に分析を行うことと、スクリーニングの対象群を選択することの必要性が示唆された。

 本研究の分析から、脳ドック検診における未破裂脳動脈瘤のスクリーニングについては以下のような検討を加えていく必要があると考えられる。

 (1) 個人の選択として見た場合、未破裂脳動脈瘤のスクリーニングの適応は、個人ごとのリスクファクターや好みの問題が大きく影響するので、それを考慮して個々のケースについて判断を行う必要がある。

 (2) 集団としての立場からの解析では、一般健康人に対して無差別に未破裂脳動脈瘤のスクリーニングをするべきではないと考えられる。リスクファクターや費用の分析を追加することによって、スクリーニングの有効性が高く、スクリーニングを行うべき対象群を分類していかなくてはならない。また、可能であれば好みの傾向に基づく対象群の分類も追加していく必要があると考えられる。

審査要旨

 本研究は無症候性頭蓋内疾患のスクリーニングにおいて、重要な意味を持っていると考えられる無症候性未破裂脳動脈瘤のスクリーニングについて、その有効性を検討するために、マルコフモデル、多次元の感度分析、効用値の実測に基づいた解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 (1)状態遷移モデルと感度分析を用いて、臨床成績を現実的な範囲で分析した結果では、未破裂脳動脈瘤の予防的手術やスクリーニングは経過観察に比べ概ね優位であった。しかし、有病率、年間破裂率、手術成績それぞれと年齢を組み合わせた感度分析では、年齢と他の要因の関係次第で予防的手術やスクリーニングの優位性が逆転する場合があり、高齢者では予防的手術やスクリーニングを行うべきであると判断することはできないと考えられた。また、有病率、年間破裂率、手術成績の変化によって、QALYの相対的な変動は大きいことが示された。本研究の分析で使用した臨床成績の質の問題点の考察から、QALYがさらに低下する可能性もあると推定された。今後、信頼性の高い資料が入手可能となった時点で再分析を行うことと、スクリーニングの費用-効用値分析を行っていくことが必要と考えられた。

 (2)これまでの未破裂脳動脈瘤の判断分析では、個人の好みや社会的背景の個人差については軽視されてきた。こうした分析に必要である効用値を、自覚症状のない脳ドック受診者114名を対象として初めて実測した。既存の未破裂脳動脈瘤に関する判断分析で仮定されていた効用値と比べて、麻痺のある状態や未破裂脳動脈瘤であることを診断された状態の効用値を低く回答する傾向が見られた。また、対象者間の差も大きかった。このことから、対象者の好み、家族歴、社会的活動性によって、効用値の評価がかなり変わってくることが推定された。今後、こうした要因も考慮して個人毎に分析を行うことと、スクリーニングの対象群を選択することの必要性が示唆された。

 (3)本研究の分析から、脳ドック検診における未破裂脳動脈瘤のスクリーニングについては以下のような検討を加えていく必要があると考えられるた。

 ・個人の選択として見た場合、未破裂脳動脈瘤のスクリーニングの適応は、個人ごとのリスクファクターや好みの問題が大きく影響するので、それを考慮して個々のケースについて判断を行う必要がある。

 ・集団としての立場からの解析では、一般健康人に対して無差別に未破裂脳動脈瘤のスクリーニングをするべきではないと考えられる。リスクファクターや費用の分析を追加することによって、スクリーニングの有効性が高く、スクリーニングを行うべき対象群を分類していかなくてはならない。また、可能であれば好みの傾向に基づく対象群の分類も追加していく必要があると考えられる。

 以上、本論文は個人毎のリスクファクターや好みの傾向を考慮して、未破裂脳動脈瘤に対する予防的手術やスクリーニングを行うべきかどうかの判断を行う必要のあること、及び、費用に関する分析を加えてスクリーニングを行うべきかどうかの判断を行う必要のあることを明らかにした。これまでの分析では個人の好みの要素やリスクファクターについては軽視されていたが、今後こうした要素も考慮して医療上の判断を行う上で、本研究は重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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