学位論文要旨



No 112047
著者(漢字) 西山,和利
著者(英字)
著者(カナ) ニシヤマ,カズトシ
標題(和) 神経変性疾患についての組織化学的研究、特に筋萎縮性側索硬化症に注目して
標題(洋)
報告番号 112047
報告番号 甲12047
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1103号
研究科 医学系研究科
専攻 第一臨床医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 石川,隆俊
 東京大学 教授 坂本,穆彦
 東京大学 教授 生田,宏一
内容要旨 研究の背景と目的、及び研究方法

 筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis:ALS)は上位及び下位運動ニューロンが選択的かつ系統的に障害されるヒト神経変性疾患である。上位運動ニューロン障害としては大脳前頭葉運動野のベッツ巨細胞と錐体路の変性が生じ、下位運動ニューロン障害としては脊髄及び脳幹の運動神経核の変性が生じる。ALSは多くは孤発性であるが、約5〜10%は家族性に発症し家族性筋萎縮性側索硬化症(familial amyotrophic lateral sclerosis:FALS)と呼ばれる。近年この難治性疾患に関して数多くの研究がなされてきたにもかかわらず原因は未だに不明の点が多く、有効な治療法も確立されていない。本論文の目的はALSの病態に関して組織学的見地から検討を加えることであり、本研究では最近の進歩を踏まえてALSの病態や発症機序について4つの新しい側面からのアプローチを試みた。

 第一にALSにおける神経伝達物質の動向を免疫組織学的に検討した。ヒト中枢神経系においては多くの神経伝達物質が存在することから、神経変性疾患と神経伝達物質は密接な関係を持ち、神経伝達物質の研究はALSの今後の治療に有用な知見をもたらす可能性がある。本研究ではALSの病変部における神経伝達物質の動向ならびに変化を免疫組織学的に再検討することとした。

 第二にFALS家系の一部でのCu/Zn superoxide dismutase(SOD1)遺伝子変異が報告されて以来、運動ニューロン死とSODの関係が大いに注目されている。そこで第二のアプローチとして実際のヒトALS症例病変部位でのSODの動向を蛋白及びmRNAレベルで組織学的に検討した。またSODに関する所見がALSに特異的なものか否かを検証するために、Parkinson病(PD)、Huntington病(HD)、Hallervorden Spatz病(HS)を対照疾患として検討した。

 第三にALSにおけるapoptosisの関与を組織学的に検討した。近年運動ニューロン死は興奮性アミノ酸によるexcitotoxicityとの関連でも大いに議論されてきた。Excitotoxicityが単独でも、またSOD異常との相互作用としてもapoptosisを生じる可能性が示されるに至り、ヒトALS組織においてもapoptosisの存在を検討する必要が出てきた。今回はin situ nick endlabeling法(TUNEL法)によりALS組織におけるapoptosis、DNA fragmentationの有無を検討した。

 第四に軸索流関連の分子について免疫組織学的に検討した。ALSの病理学的特徴にspheroidの出現があり、これはneurofilament(NF)の密な蓄積から成る。NFは遅い軸索流によって軸索内を細胞体から移送されることから、ALSのspheroid形成に軸索流が関与している可能性が示唆されてきた。さらに昨今NF遺伝子を過剰発現させたトランスジェニックマウスではALS類似の運動ニューロン障害が出現することが報告され、ALSと軸索流の関係はさらに注目されてきている。遅い軸索流を担う運動蛋白は未だ不明であるが、速い軸索流関連の運動蛋白としてはkinesinが近年同定された。そこでspheroidの出現する疾患、即ちALS、HD、HSをkinesinという見地から免疫組織学的に検討した。

結果と考察1神経伝達物質について

 ALSにおいてはNFの異常集積が見られる部位、即ちLewy body-like inclusion(LI)、spheroid、cord-like swelling(CS)などでcalcitonin gene-related peptide(CGRP)-likeimmunoreactivity(IR)の増加を認めた。CGRPは一種の運動ニューロン栄養因子である可能性があるが、ALS組織ではCGRP-IR亢進部位が運動ニューロン細胞体自体ではなく、近位軸索や神経封入体のようなNFの異常蓄積の見られる部位であったことから、NFに関連した遅い軸索流異常に伴ってCGRP-IRは蓄積しているものと考えた。

2SODについての検討

 これまではFALS組織で認められるSOD1-IR亢進はFALSに特異的な所見であり、運動ニューロン障害に対する何らかの防御反応を示し一次的原因を表していると考えられてきた。今回のSODに関する広範な免疫組織学的検討ではALSに特徴的な病理学的構造物であるLIやspheroid、CSに強いSOD1-IRを認めたが、同部位にはSOD2-IRは軽度しか存在しなかった。さらに脊髄運動ニューロンでのSOD1 mRNA発現量にはALS症例と正常対照とで有意な差はなかった。このことから免疫組織化学の結果で得られたALSでの一部構造物でのSOD1-IR増加は、mRNAレベルでのSOD1合成亢進を介する生体反応ではなく、何らかの原因による蓄積である可能性が高いと考えた。実験動物では遅い軸索流の異常がSOD1-IR亢進を生じることから、SOD1もCGRPと同様に軸索流の阻害により蓄積しうると考えた。

 個々の細胞レベルでのSOD1 mRNA発現に関しては、個々のニューロン間で比較すると、ALSにおいて障害されやすい種類のニューロン、即ち運動ニューロンにおいて有意にSOD1 mRNA含有量は高レベルであった。この事実はSOD1遺伝子変異によるALSの発症機序に関する"Gain of function"説を支持する可能性がある。

 またSOD-IRに関して得られた結果がALSに特異的なものなのかどうかをPD、HD、HSを対照疾患として検討した。PDで出現するLewy body(LB)にもSOD1-IRやSOD2-IRが存在したことから、神経封入体についてはSOD1-IR亢進はALSの封入体のみに特異的なものではないことを証明した。またspheroidに関してもHDやHSで出現するspheroidにおいてもSOD1-IRやSOD2-IRが亢進することを示した。以上よりSOD1-IRの上昇はALSに見られる神経封入体やspheroidのみに特異的ではないことを証明した。

 HDやHS症例の基底核のspheroidにはSOD1-IR増加を認めたが、同部位において他の抗酸化酵素であるSOD2や、酸化的障害を引き起こす鉄やその担体であるferritinが増加していたことから、SOD1-IRは酸化的ストレスに対して抗酸化酵素として誘導されていると考えた。さらにHS症例脊髄のspheroidにはSOD1-IR増加は存在したが、同部位にはNFの蓄積は比較的少なく、鉄を介する酸化的障害の存在も否定的であった。よってSOD1-IR上昇の機序には本研究で言及していない別の因子も働いている可能性がある。

3Apoptosisについての検討

 Apoptosis、即ちDNA fragmentationの有無に関する組織学的検討ではALSの脊髄運動ニューロンでは残存ニューロンにTUNEL陽性所見は認めなかった。このことからALSの脊髄における神経細胞死にapoptosisが関与していないとは断定できないが、apoptosisが主たる機序ではないことを示唆している。

4Kinesinについての検討

 速い軸索流を担う運動蛋白であるkinesinに関しては、ALS脊髄のspheroidにはkinesin-IRは軽度しか存在しなかったが、膜小器官などの集積であるHSやHDのspheroidにはkinesin-IRは高度または中等度に存在した。これまで超微形態ではALSのLI、spheroid、CSはNFが主体であり、HSなどのspheroidは膜小器官が主体であることが知られていた。この所見から前者には遅い軸索流が、後者には速い軸索流が関与しているものと推測されていたが、本研究は種々の疾患でのspheroidにおけるkinesin-IRはその中の膜小器官の量に依存していることを示し、速い軸索流を担っているkinesinがspheroidの形成に関与していることを直接証明した。またSODやkinesinといった観点からは現在spheroidと表現されている構造物は必ずしも均一なものではなく、正確を異にするものが混在していると考えられた。

結論と今後の展望

 本研究ではALSに注目して神経変性疾患を4つの新しい側面から組織学的に検討した。

 1)神経伝達物質に関しての研究からはALSの病的構造物の一部でCGRP-IRの亢進を認めた。ALSでのCGRP-IRの上昇はNFに関連した軸索流の異常によりLIやspheroid、CSなどNFに富む構造物に出現するものと結論した。

 2)SODに関する検討でもALSのLIやspheroid、CSに強いSOD1-IR亢進を認めた。一方脊髄運動ニューロンでのSOD1 mRNA発現量はALS症例と正常対照とで有意差はなかった。このことからALSでの一部構造物におけるSOD1-IR増加は遅い軸索流阻害による蓄積であると考えた。

 またSOD1 mRNAの発現に関しては興味深い結果が得られた。ALSにおいて障害されやすい種類のニューロン、即ち運動ニューロンでは有意にSOD1 mRNA含有量が高レベルであった。この事実はSOD1遺伝子変異によるALSの発症機序に関する"Gain of function"説を支持する可能性がある。

 さらにSODなどにPD、HD、HSを対照疾患として検討したところ、SOD1-IRの上昇はALSに見られる神経封入体やspheroidのみに特異的なわけではないこと、HDやHSの基底核では酸化的ストレスが存在することが示唆された。

 3)Apoptosis、即ちDNA fragmentationの有無に関しては、ALSの脊髄運動ニューロンにapoptosisの関与を示す所見は得られなかった。

 4)速い軸素流関連蛋白であるkinesinに関する免疫組織化学では、ALSのspheroid形成にはkinesinの関与は少ないことが示唆された。他方HDやHSのspheroidにはkinesin-IRが高いレベルで存在したことから、kinesinが膜小器官に関連していることをヒト組織において初めて示すと同時に、ある種のspheroidの形成にはkinesinが関与している可能性を示した。

 本研究はspheroidの出現を特徴とするいくつかの疾患でkinesinがその病態に関与している可能性や、いくつかの神経変性疾患ではSODの関与した酸化的障害が存在する可能性を示した。またALSについてはCGRPやSOD1の局所的増加を組織学的に証明したが、これは軸索流阻害に関係した二次的蓄積である可能性が示唆された。さらにALSでの神経細胞死の選択性に関してはSOD1 mRNA発現量との関連を示し、運動ニューロン死の解明への新たな手がかりを示した。いずれの結果も種々の方面からのさらなる検討を要するが、こうした新たな所見を元にALSを初めとする神経変性疾患の研究が今後とも継続され、将来的に正確な病因究明や治療へと結びつくことを期待する。

審査要旨

 本研究はヒト神経変性疾患、特に筋萎縮性側索硬化症(ALS)の病態や発症機序について組織学的な側面からのアプローチを試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.第一にALSにおける神経伝達物質の動向を検討したところ、家族性ALS(FALS)及び孤発性ALS(SALS)症例において脊髄前角内に出現するspheroidやcord-like swelling(CS)、Lewy body-like inclusion(LI)といった構造物にはcalcitonin gene-related peptide(CGRP)-like immunoreactivity(IR)の増加が特異的に出現していた。局在部位からこうした増加は遅い軸索流の異常により移送の遮断が起こり近位軸索に蓄積している可能性が考えられた。

 2.第二にsuperoxide dismutase(SOD)の動向をヒトALS組織において蛋白レベル及びmRNAレベルで明らかにした。免疫組織化学的にはALS症例で特徴的な病理学的構造物であるLIやspheroid、CSに強いSOD1-IRを認めたが、同部位にはSOD2-IRは軽度しか存在しなかった。さらに脊髄運動ニューロンでのSOD1 mRNA発現量にはALS症例と正常対照とで有意な差はなかった。このことから免疫組織化学の結果で得られたALSでの一部構造物でのSOD1-IR増加は何らかの原因による蓄積である可能性が高いと考えた。実験動物では遅い軸索流の異常によりSOD1-IR亢進を生じることから、SOD1もCGRPと同様に軸索流の阻害により蓄積してきている可能性が示された。さらにSOD1 mRNAの発現に関しては興味深い結果が得られた。ALSにおいて障害されやすい種類のニューロン、即ち運動ニューロンでは有意にSOD1 mRNA含有量が高レベルであり、この事実はSOD1遺伝子変異によるALSの発症機序に関する"Gain of function"説を支持する可能性がある。

 またSODに関して得られた結果がALSに特異的なものなのかどうかをParkinson病(PD)、Huntington病(HD)、Hallervorden Spatz病(HS)を対照疾患として検討した。神経封入体についてはSOD1-IR及びSOD2-IRがALSに生じる封入体のみに特異的なものではなく、PD症例におけるLBのような封入体においても存在することを証明した。またspheroidに関してはHD症例やHS症例のspheroidにおいてもSOD1-IRやSOD2-IRが亢進することを証明した。以上よりSOD1-IRの上昇はALSに見られる封入体やspheroidのみに特異的なわけではないこと、HDやHSの基底核では酸化的ストレスが存在することが示唆された。

 3.第三にALSにおけるapoptosisの関与を組織学的に検討した。Apoptosis、即ちDNA fragmentationの有無に関する組織切片上の検討では、ALSの脊髄運動ニューロンでは残存ニューロンにin situ nick end labeling陽性所見は認めず、このことはALSの脊髄における神経細胞死においてapoptosisの関与は主体ではないことを示唆した。

 4.第四にkinesinについて免疫組織学的に検討した。HDやHSのような疾患のspheroidにはkinesin-IRが存在していたことから、速い軸索流関連運動蛋白が膜小器官に関連していることをヒト組織において初めて示すと同時に、ある種のspheroidの形成にはkinesinが関与していることを示した。しかしながらALSに見られるspheroidではkinesin-IRはごく軽度であり、ALSのspheroid形成にはkinesinの関与は少ないことが示唆された。SODやkinesinといった観点からは現在spheroidと表現されている病理学的構造物は必ずしも均一なものではなく、正確を異にするものが多数混在していると考えられた。

 以上のように本研究では神経科学の分野での昨今の進歩を踏まえて新しい4つの側面から神経変性疾患の病態に迫った。組織学的手法を駆使して検討を行った結果、前記のような多くの新しい組織学的知見を明らかにした。本研究はALSを初めとする神経変性疾患の病態の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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