学位論文要旨



No 112061
著者(漢字) 中澤,弥子
著者(英字)
著者(カナ) ナカザワ,ヒロコ
標題(和) 乳児の摂食機能の発達及び離乳食の影響 : 縦断観察調査
標題(洋) Development of oral motor function and the effect of weaning food : A longitudinal observation study
報告番号 112061
報告番号 甲12061
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1117号
研究科 医学系研究科
専攻 保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 助教授 高戸,毅
 東京大学 講師 中村,安秀
 東京大学 講師 奥,恒行
内容要旨 I.緒言

 ヒトは出生直後から、原始反射に基づき経口による栄養摂取を開始するが、やがて中枢神経系の成熟ならびに口腔器官の形態的な変化とともに固形食を咀嚼・嚥下する随意的な摂食機能が発達してくる。

 乳児の摂食機能については、1937年から系統的な研究が報告されはじめ、その口腔の運動機能の発達には、感覚経験や口唇や舌などの口腔器官の形態的な変化、粗大運動・微細運動の発達の重要性とともに、食べ物の種類や調理形態なども重要な影響を与えることが指摘された。さらに、臨床経験から"critical period"の概念を応用し、固形食の導入が6〜7ヵ月時より遅れると、咀嚼機能の獲得が難しくなると主張された。

 その後行われた縦断観察研究は少数を対象としたため、乳児の摂食機能の発達の個人差および正常なレンジについては検討されていない。また、乳児の摂食機能の発達に及ぼす離乳食の影響についても系統的な研究は皆無であった。

 本研究は個人差および正常なレンジに注目しながら、以下の2点を明らかにすることを目的とした。

 (1)摂食機能の発達と他の発達要因(粗大運動・微細運動や歯の萌出など)との関連

 (2)摂食機能の発達における離乳食の影響

 さらに、現在日本の保育所での離乳の進め方や保健所での離乳指導に、最も多く利用されている「離乳の基本(1981)」に対して、改善点を指摘することも目的とした。

II.対象と方法

 対象は、東京都内の乳児保育所において(1)調査開始時に月齢が5.0〜7.5ヵ月で、(2)身体的な問題がない男児8名、女児11名の計19名とした。なお、本調査は乳児の両親の了承後に行った。すべての対象が正常な在胎週数で出生し(40±1週)、出生体重および身長は平成2年乳幼児身体発育調査結果の3パーセンタイル値以上であった。保育所での離乳過程は、食事の内容により5期に分けられた。

 約半年間の予備調査の後、本調査を平成4年9月から平成6年3月まで行った。調査は原則として、保育所での離乳食の開始後から1歳まで、連続3日間の調査を月に2回、約半月間隔で行った。離乳食については、厚生省により定められた高齢者用食品の試験法で測定した硬さに基づき、各離乳段階を代表し、頻繁に与えられている食物を選択した。摂食機能の評価は、尾本(1992)による評価項目を参照し、口唇、舌および下顎の各運動機能の発達についてのチェックリストを作成して実施した。観察調査は著者1名のみで行い、食事開始から終了までをチェックリストに基づき直接観察した。同時にビデオ撮影を行い、そのビデオ記録により観察結果を各2回確認した。

 乳児の体重を半月毎、身長を1ヵ月毎に測定した。日本版デンバー式発達スクリーニング検査による粗大運動・微細運動の発達、および歯の萌出の観察も半月に1回行った。

 統計解析にはSASを用い、検定の有意水準は5%とした。

III.結果1.体重および身長の発育

 5〜12ヵ月にわたる体重および身長の平均値は、厚生省による平成2年乳幼児身体発育調査結果の10〜90パーセンタイル値の間に含まれていた。

2.粗大運動・微細運動の発達

 参照データに比べ通過月齢の中央値が1.0ヵ月以上異なった項目は、粗大運動では10項目中2項目、微細運動では8項目中1項目だけであった。

3.歯の萌出

 最初の歯の萌出月齢は7.2±1.4ヵ月で、日本人乳児の参照データ(8±1ヵ月)と比較し、わずかに早い結果であった。

4.摂食機能の発達

 取り込み時の口唇閉鎖の開始月齢は5.5〜7.5ヵ月であり、処理時ならびに嚥下時の口唇閉鎖の開始月齢は、いずれも5.5〜7.0ヵ月であった。下唇の巻き込みは半固形食に対してのみ観察され、固形食では観察されなかった。口角の牽引は、固形食に対しては全ての対象者で観察され、半固形食では1名以外で観察された。なお、下唇の巻き込みおよび口角の牽引については、各運動を断続的に示す対象者がいたため、開始月齢を検討できなかった。舌の歯列内への配置の開始月齢は5.5〜8.5ヵ月の広いレンジを示した。舌運動は、半固形食に対しては、前後運動から上下運動へと推移したが、側方運動は示さなかった。一方、固形食に対しては側方運動を6.5〜9.0ヵ月に示し始めた。下顎のコントロールが良好となった月齢は5.5〜7.0ヵ月であり、下顎運動は上下運動から側方運動を伴う咀嚼運動へ推移した。なお、下顎の咀嚼運動は固形食にのみ観察され、その開始月齢は舌の側方運動の開始月齢と一致した。各摂食機能の開始月齢間の相関分析の結果、取り込み時の口唇閉鎖機能と舌の側方運動および下顎の咀嚼運動の間を除き、全項目間に有意な相関が認められた。

5.摂食機能の発達と他の発達要因との関連

 性差、哺乳様式の違いによる有意な影響は、各摂食機能の開始月齢に対して認められなかった。また、相関分析の結果、粗大運動・微細運動の各発達項目の通過月齢および歯の萌出月齢と各摂食機能の開始月齢との間には、有意な相関がほとんど認められなかった。

IV.考察1.摂食機能の発達

 身長・体重の順調な発育状況および小児科医師による毎月2回の健診の結果から、本研究対象は正常な日本人乳児を代表すると考えられた。

 観察された各摂食機能の開始月齢をまとめると、処理時の口唇閉鎖、嚥下時の口唇閉鎖、舌の歯列内への配置、舌の上下運動、良好な下顎のコントロールの5機能がほぼ同時に獲得され、約0.5ヵ月遅れて取り込み時の口唇閉鎖が習得され、その後、舌の側方運動並びに下顎の咀嚼運動が可能となることが明らかとなった。また、相関分析の結果、取り込み時の口唇閉鎖機能の発達が、舌の側方運動ならびに下顎の咀嚼運動とは独立していることが示唆された。

 摂食機能の開始月齢のレンジは1.5〜3.0ヵ月であり、このレンジの広さは、生後1年間の乳児の急速な発育を考慮すると無視できないと考えられた。

2.離乳食が及ぼす摂食機能の発達への影響

 離乳食が及ぼす摂食機能の発達への影響は、舌および下顎運動に顕著に認められた。半固形食と固形食の両方が一度の食事で与えられていた第3期および第4期には、乳児は半固形食に対して舌の前後・上下運動を示し下顎の上下運動を行ったが、舌の側方運動・下顎の咀嚼運動は示さなかった。一方、固形食に対しては、舌の側方運動および下顎の咀嚼運動により処理した。すなわち乳児は半固形食および固形食に対し最も効率よい方法を選択しており、"critical period"仮説を考慮すると、舌の側方運動および下顎の咀嚼運動の発達には固形食物の導入が重要であることが示唆された。

 「離乳の基本」では、月齢に応じて3タイプの離乳食、(1)ドロドロ状(5-6ヵ月)、(2)舌でつぶせる硬さ(7-8ヵ月)、(3)歯ぐきでつぶせる硬さ(9-11ヵ月)を定めているが、本研究のほとんどの対象が7-8ヵ月時に歯ぐきによる固形食の咀嚼を開始したことから、固形食の7-8ヵ月での導入について検討すべきことが示唆された。

3.摂食機能の発達に関するその他の要因

 先行研究において粗大運動・微細運動発達、歯の萌出が摂食機能の発達に影響を与えると指摘されてきたが、本研究において、それらの項目の各通過月齢と摂食機能の各開始月齢との関係にはほとんど有意な相関が見られなかった。粗大運動・微細運動のいずれも、舌の側方運動ならびに下顎の咀嚼運動の開始月齢と有意な相関がなく、乳中切歯の萌出時期も摂食機能の開始月齢と有意な相関が認められなかった。これらの知見から、粗大運動・微細運動の確立および歯の萌出が、乳児の咀嚼運動の開始のために必須のものではないことが示された。

V.結論

 本研究の重要な知見は、以下の2点である。

 第1に、口唇,舌および下顎の各運動機能の開始月齢のレンジは1.5〜3.0ヵ月であり、著しい個人差が認められたが、その発達順序は一定であった。処理・嚥下時の口唇閉鎖機能が最初に確立され、約0.5ヵ月後に取り込み時の口唇閉鎖機能が習得された。舌運動は前後から上下、側方運動へ推移し、下顎運動は上下から咀嚼運動へ推移した。

 第2に、離乳食が及ぼす摂食機能の発達への影響は、舌および下顎運動に顕著に認められた。乳児は半固形食に対して、舌の前後・上下運動を示し下顎の上下運動を行ったが、舌の側方運動・下顎の咀嚼運動は示さなかった。一方、固形食に対しては、舌の側方運動および下顎の咀嚼運動を開始した。

審査要旨

 本研究は乳児の摂食機能の発達について、個人差および正常なレンジに注目しながら、(1)摂食機能の発達と他の発達要因(粗大運動・微細運動や歯の萌出など)との関連、(2)摂食機能の発達における離乳食の影響の2点を明らかにするため、乳児保育所に在園する健常乳児19名(男児8名、女児11名)を対象として縦断観察調査を行い解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1. 口唇,舌および下顎の各運動機能の開始月齢のレンジは1.5〜3.0ヵ月であり、著しい個人差が認められた。しかし、その発達順序は一定で、処理・嚥下時の口唇閉鎖機能が最初に確立され、約0.5ヵ月後に取り込み時の口唇閉鎖機能が習得された。また、舌運動は前後から上下、側方運動へ推移し、下顎運動は上下から咀嚼運動へ推移した。

 2. 観察された各摂食機能の開始月齢をまとめると、処理時の口唇閉鎖、嚥下時の口唇閉鎖、舌の歯列内への配置、舌の上下運動、良好な下顎のコントロールの5機能がほぼ同時に獲得され、約0.5ヵ月遅れて取り込み時の口唇閉鎖が習得され、その後、舌の側方運動並びに下顎の咀嚼運動が可能となることが明らかとなった。

 3. 離乳食が及ぼす摂食機能の発達への影響は、舌および下顎運動に顕著に認められた。半固形食と固形食の両方が一度の食事で与えられていた第3期および第4期には、乳児は半固形食に対して舌の前後・上下運動を示し下顎の上下運動を行ったが、舌の側方運動・下顎の咀嚼運動は示さなかった。一方、固形食に対しては、舌の側方運動および下顎の咀嚼運動により処理した。すなわち乳児は半固形食および固形食に対し最も効率よい方法を選択しており、"critical period"仮説を考慮すると、舌の側方運動および下顎の咀嚼運動の発達には固形食物の導入が重要であることが示唆された。

 4. 先行研究において粗大運動・微細運動発達、歯の萌出が摂食機能の発達に影響を与えると指摘されてきたが、本研究において、それらの項目の各通過月齢と摂食機能の各開始月齢との関係にはほとんど有意な相関が見られなかった。粗大運動・微細運動のいずれも、舌の側方運動ならびに下顎の咀嚼運動の開始月齢と有意な相関がなく、乳中切歯の萌出時期も摂食機能の開始月齢と有意な相関が認められなかった。これらの知見から、粗大運動・微細運動の確立および歯の萌出が、乳児の咀嚼運動の開始のために必須のものではないことが示された。

 以上、本論文は健常乳児の摂食状況の縦断観察調査から、離乳開始後〜12ヵ月における乳児の摂食機能の発達およびその発達に及ぼす離乳食の影響について明らかにした。本研究は、乳児の摂食機能の発達の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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