学位論文要旨



No 112079
著者(漢字) 水谷,明生
著者(英字)
著者(カナ) ミズタニ,アキオ
標題(和) ラット海馬シナプス伝達及び可塑性へのプロテアーゼの関与とその機構の解析
標題(洋)
報告番号 112079
報告番号 甲12079
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第744号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 助教授 小野,秀樹
 東京大学 助教授 松木,則夫
 東京大学 客員助教授 岩坪,威
内容要旨

 プロテアーゼは、その蛋白質分解作用を通して生体内で様々な働きをしているが、近年では神経系においてもニューロンの突起伸展や細胞移動または増殖にプロテアーゼが関与することが示唆され注目されている。プラスミンは血栓溶解作用をもつセリンプロテアーゼの一つであり、プラスミノーゲン活性化因子により不活性前駆体であるプラスミノーゲンから産生される。中枢神経系でもミクログリアからプラスミノーゲンが分泌されることが報告され、また最近プラスミノーゲンが中枢神経系において神経栄養活性をもつことが示されている。一方、海馬の長期増強現象(long-term potentiation;LTP)は、シナプス前終末に強い刺激(高頻度刺激)を与えるとその後シナプス伝達効率が上昇し、その状態が長時間にわたって持続する現象で、記憶・学習の基礎過程と考えられており、シナプス可塑性の一例として近年精力的に研究されている。海馬歯状回で長期増強発現の後に組織型プラスミノーゲン活性化因子のmRNAが海馬歯状回で誘導されたという報告や、培養海馬神経細胞を用いた実験でNMDAによる細胞内カルシウムイオン濃度の上昇をプラスミノーゲンが増強したという報告があるが、プラスミン類が長期増強に直接作用するかどうか等シナプス伝達や可塑性への影響については未だ不明である。本研究では、プラスミン及び他のプロテアーゼの長期増強形成への影響を比較検討し、またその作用機構を解析した。

1.各種プロテアーゼの海馬CA1野の短期増強への影響

 海馬スライス標本から誘発電位を細胞外記録し、各種プロテアーゼのCA1野短期増強への影響を検討した。高頻度刺激条件は、control群において誘発電位の増強が30分以内に消失し長期増強が形成されずに短期増強が観察される条件を用いた。プラスミノーゲンとプラスミンは単独では誘発電位に作用しなかったが、プラスミノーゲンまたはプラスミン存在下では、それ自体では長期増強を形成させない高頻度刺激による短期増強が有意に増大され長期増強が形成された。この作用には濃度依存性がみられた。またプラスミン特異的阻害剤である2-アンチプラスミンは単独作用及び短期増強に対する作用はなかったが、プラスミンと併用するとプラスミンの長期増強誘発促進作用が消失した。しかし他のセリンプロテアーゼ(トロンビン、トリプシン)やシステインプロテアーゼ(カテプシンB)には長期増強誘発促進作用はみとめられなかった。よってプラスミン類には長期増強誘発促進作用があるが、この作用はプロテアーゼの非特異的作用ではない可能性が示唆された。

2.プラスミン類の海馬CA1野の長期増強への影響

 プラスミノーゲン、プラスミンはそれ自体で長期増強を形成させる強い高頻度刺激による長期増強に対しては相加的に作用しなかった。このことから、プラスミン類は通常の長期増強と同様の機構を介して作用しており、その作用は長期増強形成の閾値を下げるような機構である可能性が示唆された。一方、2-アンチプラスミンは長期増強を有意に抑制した。またセリン、システインプロテアーゼの非特異的阻害剤であるロイペプチンも長期増強を有意に抑制したが、システインプロテアーゼの特異的阻害剤であるE64は長期増強を抑制しなかった。これらのことから、内来性のプラスミンが生理的に分泌されており、それが長期増強の形成に関与している可能性が示唆された。

3.プラスミン類の海馬歯状回の短期増強、長期増強への影響

 プラスミノーゲン、プラスミンは歯状回の短期増強も有意に促進し、その作用は2-アンチプラスミンとの併用により拮抗された。プラスミノーゲン、プラスミンは歯状回の長期増強に対しても作用しなかった。これらのことから、プラスミン類はCA1野と歯状回の両部位で長期増強の形成に関与していることが示唆された。

4.プラスミン類の長期増強への作用機構のスライス標本を用いた細胞外記録による解析

 プラスミンは高頻度刺激適用の後に投与した場合は短期増強増大作用はみられなかったことより、プラスミンは長期増強形成の初期過程に作用していることが示唆された。またプラスミンで短期増強が増大され長期増強が形成された後に与えた強い高頻度刺激によるさらなる増強の程度は小さかった。このことは、プラスミンの作用は通常の長期増強の形成機構と同じである可能性を示唆している。またプラスミンはシナプス前細胞への作用を反映するとされるpaired-pulse facilitationに作用しなかった。よってプラスミンはシナプス前ではなく後細胞に働く可能性が考えられた。そこでシナプス後細胞への作用の機序としてまず後細胞の興奮性を上げる可能性を考え、NMDA受容体を介したシナプス伝達にプラスミン類が作用するかを検討した。プラスミノーゲン、プラスミンはマグネシウムを含まずnonNMDA受容体拮抗薬であるCNQXを添加した灌流液中で観察されるNMDA受容体を介したシナプス伝達に影響を与えなかった。このことから、プラスミン類はNMDA受容体には作用しないことが示唆された。

5.プラスミンの作用機構のスライスパッチクランプ法を用いた検討

 海馬スライス標本でCA1野錐体細胞からホールセルパッチクランプ法により、ホールセル電流を記録した。プラスミンはシャッファー側枝刺激によるNMDA受容体を介した興奮性シナプス後電流及びnonNMDA受容体を介した興奮性シナプス後電流に影響を与えなかった。ところが、プラスミンはCA1野の介在神経を刺激することによるGABAA受容体を介した抑制性シナプス後電流を有意に抑制した。またその作用はシナプス後細胞内のカルシウムイオン濃度を強いキレート剤で低く保った場合にはみられなかった。さらにプラスミンはGABA投与によるGABA誘発電流を抑制した。これらの結果より、プラスミンは興奮性シナプス伝達に作用するのではなく、シナプス後細胞のGABAA受容体を抑制することにより抑制性シナプス伝達を抑制する作用をもつことが明らかとなった。またプラスミンのGABAA受容体抑制機構にシナプス後細胞内のカルシウムイオン濃度変化が関与している可能性が示唆された。

6.プラスミン類の麻酔下ラット短期増強・長期増強への影響

 プラスミンは麻酔下ラット歯状回の短期増強を増大させ長期増強を起こりやすくさせた。また2-アンチプラスミンは麻酔下ラット歯状回の長期増強を有意に抑制した。これらのことから、プラスミン類はより生理的なin vivoの系においても長期増強形成機構に関与することと内在性のプラスミンが長期増強形成に必要であることが示唆された。

まとめ

 以上の結果により、プロテアーゼの中でプラスミンに長期増強形成を促進する作用があることと、長期増強形成機構を内在性のプラスミンが修飾していることをはじめて明らかにした。またプラスミンの長期増強への作用は、今回検討した他のプロテアーゼにはそのような作用はみられなかったことから、プロテアーゼの非特異的作用ではない可能性が示唆された。プラスミンの長期増強への関与の機構としては、興奮性のシナプス伝達に作用するのではなく、シナプス後細胞のGABAA受容体を抑制することによりGABAA受容体を介した抑制性シナプス伝達を抑制することによる可能性が示唆された。また、そのプラスミンのGABAA受容体抑制機構には、シナプス後細胞内のカルシウムイオン濃度変化が関与している可能性が示唆された。本研究により、プラスミンがシナプス伝達に短期的に働き、シナプス可塑性を調節する作用をもつことをはじめて明らかにしたので、今後さらにこの機構を解析することにより、シナプス可塑性のメカニズム解明に役立つものと期待される。

審査要旨

 近年は高齢化社会で老年性痴呆症が社会問題となってきており、記憶障害の治療・予防法が望まれている。海馬は記憶・学習に重要と認められている脳部位であるが、海馬における長期増強現象つまり高頻度刺激後にシナプス伝達効率が長期にわたり促進される現象は、シナプス可塑性の典型例であり、記憶・学習の基礎過程と考えられ近年精力的に研究されている。本論文は、記憶・学習の機構解明を目的として、プロテアーゼ類のシナプス伝達及び長期増強へ及ぼす影響についてセリンプロテアーゼの一つであるプラスミンの作用を中心に電気生理学的に研究した結果をまとめたものである。

 本研究では、まずラットの海馬スライス標本を用いて、閾値下の高頻度刺激による短期増強と十分強い高頻度刺激による長期増強を細胞外記録で観察し、それらに対する各種プロテアーゼの影響を検討した。その結果、プラスミンとその前駆体であるプラスミノーゲンが海馬CA1野と歯状回の両部位において長期増強には顕著な影響を及ぼさないが、短期増強を有意に増大させ長期増強を起こりやすくする作用をもつことをはじめて明らかにした。またプラスミンとプラスミン特異的阻害剤である2-アンチプラスミンを併用するとプラスミンの短期増強増大作用が消失することを発見した。プラスミノーゲン、プラスミン及び2-アンチプラスミンはそれぞれ単独で誘発電位に影響しないことも明らかにしており、プラスミン類は通常のシナプス伝達に作用するのではなく、長期増強の形成過程に作用する可能性を示した。さらに他のいくつかのプロテアーゼは短期増強に影響を及ぼさないことを明らかにした。このことはプラスミン類の作用はプロテアーゼ全般がもつ作用ではなく、プラスミン類特異的な作用である可能性を示唆している。また2-アンチプラスミンは長期増強を有意に抑制することを明らかにした。この結果は内来性のプラスミンが長期増強形成機構に関与している可能性を示唆する新規の知見である。

 次に、プラスミンの長期増強への作用機構を細胞外記録で検討している。プラスミンは高頻度刺激適用時に存在した場合にのみ短期増強を増大させること及びプラスミンによる短期増強増大後に強い高頻度刺激を与えてもさらなる増強は起こらないことを発見した。これよりプラスミンは長期増強形成の初期過程に作用しまた長期増強の形成機構に直接作用することが示唆された。またプラスミンはNMDA受容体を介したシナプス伝達に作用しないことも明らかにしている。

 さらに、プラスミンの作用機構を海馬スライス標本を用いてホールセルパッチクランプ法により検討している。CA1野錐体細胞からシナプス伝達の結果生じるホールセル電流を測定しており、プラスミンはNMDA受容体またはnonNMDA受容体を介した興奮性シナプス後電流に顕著な影響を及ぼさないが、介在神経刺激によるGABAA受容体を介した抑制性シナプス後電流を有意に抑制することを発見した。またプラスミンによる抑制性シナプス後電流抑制作用はシナプス後細胞内のカルシウムを強くキレートしておくと消失することを明らかにした。よってプラスミンの作用にカルシウム濃度変化が関与する可能性が示唆された。さらに、GABAを投与することによるGABA誘発電流をプラスミンが抑制することを発見した。これはプラスミンの作用点がシナプス後細胞であることを強く示唆している。

 最後に、麻酔下ラットを用い、プラスミンが短期増強を増大することと2-アンチプラスミンが長期増強を有意に抑制することをin vivoの系でも明らかにしており、この結果は生理的条件下で長期増強形成にプラスミンが関与していることを強く示唆するものである。

 以上、本論文において著者は、内来性プラスミンが長期増強形成機構に含まれていることをはじめて明らかにした。プラスミンは興奮性シナプス伝達には作用せずGABAA受容体を介した抑制性シナプス伝達を抑制することを明らかにし、抑制系の抑制が長期増強への作用機序である可能性を示した。本論文は長期増強におけるプラスミンの関与を電気生理学的に詳細に検討したものであり、記憶・学習機構解明の基礎研究のみならず記憶障害の治療に貢献するところ大であると思われ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。

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