近年は高齢化社会で老年性痴呆症が社会問題となってきており、記憶障害の治療・予防法が望まれている。海馬は記憶・学習に重要と認められている脳部位であるが、海馬における長期増強現象つまり高頻度刺激後にシナプス伝達効率が長期にわたり促進される現象は、シナプス可塑性の典型例であり、記憶・学習の基礎過程と考えられ近年精力的に研究されている。本論文は、記憶・学習の機構解明を目的として、プロテアーゼ類のシナプス伝達及び長期増強へ及ぼす影響についてセリンプロテアーゼの一つであるプラスミンの作用を中心に電気生理学的に研究した結果をまとめたものである。 本研究では、まずラットの海馬スライス標本を用いて、閾値下の高頻度刺激による短期増強と十分強い高頻度刺激による長期増強を細胞外記録で観察し、それらに対する各種プロテアーゼの影響を検討した。その結果、プラスミンとその前駆体であるプラスミノーゲンが海馬CA1野と歯状回の両部位において長期増強には顕著な影響を及ぼさないが、短期増強を有意に増大させ長期増強を起こりやすくする作用をもつことをはじめて明らかにした。またプラスミンとプラスミン特異的阻害剤である2-アンチプラスミンを併用するとプラスミンの短期増強増大作用が消失することを発見した。プラスミノーゲン、プラスミン及び2-アンチプラスミンはそれぞれ単独で誘発電位に影響しないことも明らかにしており、プラスミン類は通常のシナプス伝達に作用するのではなく、長期増強の形成過程に作用する可能性を示した。さらに他のいくつかのプロテアーゼは短期増強に影響を及ぼさないことを明らかにした。このことはプラスミン類の作用はプロテアーゼ全般がもつ作用ではなく、プラスミン類特異的な作用である可能性を示唆している。また2-アンチプラスミンは長期増強を有意に抑制することを明らかにした。この結果は内来性のプラスミンが長期増強形成機構に関与している可能性を示唆する新規の知見である。 次に、プラスミンの長期増強への作用機構を細胞外記録で検討している。プラスミンは高頻度刺激適用時に存在した場合にのみ短期増強を増大させること及びプラスミンによる短期増強増大後に強い高頻度刺激を与えてもさらなる増強は起こらないことを発見した。これよりプラスミンは長期増強形成の初期過程に作用しまた長期増強の形成機構に直接作用することが示唆された。またプラスミンはNMDA受容体を介したシナプス伝達に作用しないことも明らかにしている。 さらに、プラスミンの作用機構を海馬スライス標本を用いてホールセルパッチクランプ法により検討している。CA1野錐体細胞からシナプス伝達の結果生じるホールセル電流を測定しており、プラスミンはNMDA受容体またはnonNMDA受容体を介した興奮性シナプス後電流に顕著な影響を及ぼさないが、介在神経刺激によるGABAA受容体を介した抑制性シナプス後電流を有意に抑制することを発見した。またプラスミンによる抑制性シナプス後電流抑制作用はシナプス後細胞内のカルシウムを強くキレートしておくと消失することを明らかにした。よってプラスミンの作用にカルシウム濃度変化が関与する可能性が示唆された。さらに、GABAを投与することによるGABA誘発電流をプラスミンが抑制することを発見した。これはプラスミンの作用点がシナプス後細胞であることを強く示唆している。 最後に、麻酔下ラットを用い、プラスミンが短期増強を増大することと2-アンチプラスミンが長期増強を有意に抑制することをin vivoの系でも明らかにしており、この結果は生理的条件下で長期増強形成にプラスミンが関与していることを強く示唆するものである。 以上、本論文において著者は、内来性プラスミンが長期増強形成機構に含まれていることをはじめて明らかにした。プラスミンは興奮性シナプス伝達には作用せずGABAA受容体を介した抑制性シナプス伝達を抑制することを明らかにし、抑制系の抑制が長期増強への作用機序である可能性を示した。本論文は長期増強におけるプラスミンの関与を電気生理学的に詳細に検討したものであり、記憶・学習機構解明の基礎研究のみならず記憶障害の治療に貢献するところ大であると思われ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。 |