日清戦争の結果、日本は植民地を所有するアジア唯一の帝国主義国となった。「国際法」の尊重と朝鮮の「独立」とを対外的な名義とした明治天皇の対清宣戦詔書が象徴するように、日本の帝国主義化は、欧米列強からの外圧に対応しながら、中華体制を崩壊させる過程を通して成し遂げられた。 ところが、従来の研究では、対外膨張を志向する日本の急速な近代国家建設を刺激し催促する要因として、外圧の重みは常に意識されながらも、日本政府の外圧への対応と東アジア政策との関連に関しては、十分な究明はなされてこなかった。本稿では、このような研究状況を考慮し、特に日本政府の外圧への対応という側面に細心の配慮を与えながら、壬午事変期から日清戦争期に至るまでの日本政府の東アジア政策を再照射しようとした。その結果得られたことは、次のように整理することができる。 日本政府は、欧米列強からの外圧と日本の独立保全との関連を常に意識しながらも、その外圧が今現在の日本の独立の保全を脅かすほどの直接の脅威であるとは判断していなかった。日清戦争前における外圧に対する日本の警戒とは、朝鮮問題をめぐる日清間の対立に、列強が何らかの干渉を行い、それによって日本に不利益が生じることに対する不安であった。そして、日本政府内の諸政策論者における、対清開戦策か対清避戦策かをめぐる葛藤は、列強の干渉可能性に対する判断の差めぐる葛藤は、井上馨の例からも明白であるように、一個人の場合においても、一定していたわけではなかった。薩摩派=対清開戦論、長州派=対清避(非)戦論というような派閥論をもって、その葛藤の現況を整理することは、有効でないのではないだろうか。対清開戦策は、列強の干渉可能性に対するその場その場の判断の変化によって、堪えず連動する不安定なものであった。その意味で、日本の軍拡政策が、列強の軍備を常に意識しながら推進されていたことは、注目に値する。 巨文島事件(一八八五年四月)による外圧の増大は、表層的には「日清協調」策による朝鮮現状維持論を生みだしたが、しかし裏面から見れば、それは朝鮮問題をめぐる日清の対立を根本的に解決し、日本を中心とする新たな東アジア秩序を築き上げるための外交主義、あるいは国力主義を支障なく推進していくための、一時的な対外宣伝文句に過ぎないものであった。そして、井上馨の朝鮮弁法八ヶ条(一八八五年六月)および山県有朋の「外交政略論」(一八九〇年三月)の内容が示しているように、日本政府は「日清協調」という宣伝文句をあげながらも、必ずといってよいほど朝鮮問題をめぐる日清間の権力の平衡という問題に、注意を怠ったことはなかったのである。 日本政府は、朝鮮を日本の勢力圏内におさめなければ、例え「小欧羅巴国」日本を建設できるにしても、将来的には日本の独立を保全することは、極めて困難であるとの判断をもっていた。日本が対外膨張政策に走ることを選択した理由は、このような判断があったからである。 ちなみに、この時期の日本政府の対外膨張政策は、紆余曲折の内に展開していたため、一貫した観点の下で、それを継続的に追い掛けることは、確かに難しいことではある。従来の研究が、日本の東アジア政策は侵略主義であるか否か、あるいは日本の軍備政策はそのような政策を支えるためのものか否かをめぐって、激しい対立を繰り返しているわけも、実はここにあるのではないか、と思われる。しかし、江華島事件以後日清戦争期に至るまでの日本の東アジア政策の最大の課題であった、朝鮮「独立」政策の段階的変化を考慮するならば、そのような研究史上における対立は、相当の部分で解消できるのではなかろうか、と判断される。日本政府の朝鮮「独立」政策は、清国および欧米列強の動向を常に意識しながら、朝鮮「独立」待遇政策から朝鮮「独立」公認化政策へ、そして朝鮮「独立」公認化政策から朝鮮「独立」否定政策へと、段階的に転換していったのであり、これを通じて日本は、日本単独の朝鮮に対する宗主国としての地位獲得へ、自覚的に一歩一歩近づいていったのである。日清戦争は、まさにこのような過程のなかで、一八九四年七月勃発したのである。 |