近年の半導体デバイスの微細化は、リソグラフ技術によるミクロンスケールの加工から更に進み、分子線エピタキシーなど新しい結晶成長技術の導入によっていわゆるナノメートルスケールの領域にまで達しつつある。これに伴い、デバイスの特性を左右する結晶の不完全性、すなわち結晶欠陥の存在形態(欠陥種とその分布)の評価も、ナノメートルスケールの空間分解能をもって行う必要が生じてきた。半導体のエネルギーギャップ中に深い電子準位を持つ結晶欠陥を検出するためには、従来から容量過渡応答分光法(Deep Level Transient Spectroscopy: DLTS)が有効な測定法として用いられているが、DLTS測定には、ショットキー電極などの接触電極が必要であること、これがために空間分解能がこれまで最も良い場合でも1ミクロン程度と低いという欠点があった。本論文は、走査トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscopy: STM)を使ってDLTS測定を非接触かつ極めて高い空間分解能で行う新しい方法を考案し、そのための実験装置を試作し、試作装置を使って本手法の有効性を実証することを試みたものである。 本論文は8章よりなる。 第1章は序論であり、研究の背景として、上に述べたナノスケール微細構造における局所物性測定の必要性が述べられ、本研究の目的として、「走査トンネルDLTS顕微鏡」とでも呼ぶべき新しい原理にもとづく測定装置を試作することが述べられ、装置が機能的に満たすべき条件を列挙している。 第2章は本論文のキーワードのひとつであるDLTS法と関連する諸概念に関する基礎的事項を説明している。特に走査トンネルDLTS顕微鏡に直接対比すべき光DLTS法と、非接触DLTS法のひとつで本研究と最も関係が深い表面光起電力(Surface Photovoltage:SPV)を使ったDLTS法について解説を加え、本研究の位置づけを行っている。 第3章は本研究で考案した「走査トンネルDLTS顕微鏡」の原理とSPVの過渡応答に関する著者による理論的考察が述べられている。まずDLTSをSTMで行うにあたって、空乏層近似のもとでSPVの過渡応答がどのようなパラメータに依存するか、また表面固有なパラメータを消去して表面下にあるトラップセンター密度を抽出するためにはどのような量を測定すべきかを理論的に検討している。 第4章は実験装置に関する説明で、STM装置とSTM-DLTS装置に分けて、各部の仕様と設計思想、試作した装置の構造と機能が述べられている。STM機構の主要部、制御回路系、制御用ソフトウェアはいずれも本論文提出者の自作で、市販装置にない操作上のフレキシビリティを備えている。STM-DLTS装置は、STM装置に断続光を照射する機構と試料加熱機構及び測定系を付加したもので、試料の温度スキャンによってDLTS温度スペクトルを、探針の試料面上スキャンによって諸信号の試料面内分布像を得ることができる。またこの章では、実験上発生する種々の偽情報を実験結果の解析の際にいかに考慮すべきかを定量的に検討している。 第5章は試作した装置の性能を評価するための実験方法を記している。試料には室温よりわずか上にホールトラップのピークが検出されることが期待される塑性変形したn-GaAs単結晶を用い、光DLTS法によるトラップ存在の確認、非接触DLTS温度スペクトルの測定、DLTS信号等の試料面内分布像の観察を行うための手順が記されている。 第6章は実験結果について述べられている。まず、本方法によって得られたDLTS温度スペクトルは光DLTS法で得られるものと基本的に良く一致することが示される。次に、DLTS信号とSPV信号が試料面内で分布を示すこと、さらに両者のあいだに空間的な相関が認められることを明らかにしている。また、DLTS信号の試料面内分布像の分解能は数十nm以上であった。 第7章は実験結果に対する考察に充てられている。最初に、DLTS温度スペクトルに見られるデータ点の大きなばらつきは、単なるノイズではなくて、非常に鋭い探針が温度スキャンとともに熱ドリフトによって試料面上の異なる場所をプローブして行く結果、DLTS信号の温度変化のうえに試料面内分布による変動が重なってしまうためであることを、試料面内分布像のコントラストから定量的に示している。また、DLTS信号とSPV信号の空間的な相関からは、DLTS信号像のコントラストが表面下空乏層内に存在するホールトラップの密度分布を表したものであることを結論している。さらに、この結論にもとづき、本方法で実現する空間分解能を理論的に考察し、実験との良い一致を得ている。 第8章は本論文のまとめで、試作した「走査トンネルDLTS顕微鏡」により、DLTS温度スペクトルが非接触に測定可能であること、表面下に存在する少数キャリアトラップが検出可能であること、数十nm以上の空間分解能を有すること、が実証されたと結論している。 以上を要するに、本研究は、ナノメートルスケールの空間分解能でDLTS測定を非接触で行う新しい原理に基づく「走査トンネルDLTS顕微鏡」を考案・試作し、その基本的性能を試作機で実証したものである。これらの業績は、半導体工学における結晶評価技術に従来の限界を打ち破る新しい測定手法を提供するのみならず、結晶欠陥物理学の基礎的研究の発展にも寄与するところが大きい。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |