学位論文要旨



No 112146
著者(漢字) 根本,美作子
著者(英字)
著者(カナ) ネモト,ミサコ
標題(和) 文学と眠り : プルースト、カフカ、谷崎
標題(洋)
報告番号 112146
報告番号 甲12146
学位授与日 1996.05.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第89号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蓮實,重彦
 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 小林,康之
 東京大学 助教授 松浦,寿輝
 明治学院大学 教授 清水,徹
内容要旨

 主体とは一体誰なのか、あるいは何なのか、本論は、文学における主体の問題をつうじてこの問いに迫ろうとする試みである。

 小説は、近代ヨーロッパにおいて、現実世界を模倣(ミメーシス)し、再現する文学形式として発展した。小説とともに、現実を確定的に記述することが可能であるという暗黙の了解のもとで、虚構世界をまるで「現実のように」物語ることを基本とする形式が樹立されたといえるだろう。虚構を「現実のように」物語るこの形式の特徴の一つは、語る主体が仮構されている点に求められる。かくて小説は、主体の問題を顕在化させる領域となったのである。

 語る主体は、現実に小説を書く主体の、虚構的表象/再現/代行として登場したわけだが、その根底には、主体を確定的に記述することが可能であるとする思考法が読みとれる。虚構が現実の模倣であるように、語る主体は、書く主体の模倣であり、書く主体に一元的に従属する虚構的形象として形成されたのである。

 主体の確定/限定性に疑問を抱き、小説における書く主体と語る主体の関係の矛盾をはじめて明確に意識したのが、本論で研究対象としてとりあげる三人の作家である。彼らは、小説という形式の伝統のある同じ段階において、小説を書くということの主体的問題をはじめて明確に意識した。プルーストとカフカは1920年代のヨーロッパで、そして谷崎は、ヨーロッパの動向を日本に転移するのに必要な時差を経て、1930年代の日本で、それぞれ別の方法によってだが、書く主体と語る主体の一元的な関係を打ち壊し、二十世紀文学の行方を決定づけた。

 書く主体と語る主体のあいだには、現実における作者と虚構における話者という関係には還元しきれない、根本的な位相のずれが潜んでいる。それは「主体」という問題の内包するずれであり、小説とは、主体を、書く主体と語る主体の二次元に分解する形式である。それゆえ、確定/限定的な主体の幻想を打ち砕くために格好の場であったとも考えられるのである。

 われわれは「失われた時を求めて」、「城」、そして「細雪」の読解をつうじて、〈うつわ〉のように〈空(うつ)〉になったり〈現(うつつ)〉として充たされたりする、主体の本来の姿を見極めるにいたった。それは皮膜のような〈境界〉として機能する主体であり、小説の冒頭という現実と虚構の〈境界〉においてもっとも明瞭に読みとることのできる、作者にも話者にも還元されえない〈何者か〉である。〈何者か〉が、三つの作品の冒頭において、現実でも虚構でもない〈現在〉に身を置き、現実と虚構を、互いに〈写し〉〈映り〉合わせ、〈移し〉変える、現実よりも現実的(リアル)なひとつの〈現〉に統合するのである。

 われわれは、各作品に顕現する主体の新しい様相を一章ごとに論じた。いずれの章でも、それぞれの作品の冒頭を起点に分析作業を進めた。どの作品においても、〈何者か〉が語り出す丁度そのとき、語りの所在がはぐらかされると同時に、書く主体は確定性の位相から遠く身を離し、いわば〈夢うつつ〉の状態に〈空洞(うつ)〉化されている姿が浮かび上がった。このことは、三つの作品が眠りの領域の測深を行っていることと無関係ではない。三つの小説は、主体のありかたを根底から掘り起こす過程において、眠りのなかの主体という、主体の究極的な姿にまで遡らざるをえなかったはずなのだ。

 最初から仕組まれた語りの無限定性のうちに、物語全体が描き込まれるという構造と、眠りとの密接な関連が、三つの小説に共通な特徴として浮上する。そこでわれわれは、書く主体と語る主体の謎を、眠れる主体の問題になぞらえて考えるにいたった。〈うつわ〉のような主体とは、まさに眠れる主体そのものなのではないか。眠れる主体に主体性がないのではない。眠れる主体から主体性を剥奪するのは、覚醒時の主体を、確定的に記述することが可能とする思考法であろう。だが、眠れる主体に主体性がないとすれば、何ゆえにわれわれは目覚めるたびに、われわれとして甦るのか。

 三つの作品の共通点は、眠りと主体の問題を軸に、さらに広範囲にわたって認められる。しかしそれは、日本語における眠りにまつわる言葉によって概括できるテーマである。日本語では、夢うつつ、うとうとする、うつらうつらする、うたた寝、といった〈うつ〉を語幹とする言葉が眠りと関係しており、折口信夫は、〈うつ〉を、〈現〉、〈空〉、という対概念を結ぶ言葉として捉えている。つまり〈うつ〉は、充たされて〈現〉となることと、〈うつろ〉であることをともに示唆する思考法を暗示するといえよう。このような思考法を可能にするのは、〈現〉となったり〈うつろ〉になったりする〈うつわ〉の概念であろう。うとうとしたり、夢うつつになるのは、主体が、みずからの主体性を〈うつわ〉として顕在化させる際に生じる状態にほかならないのだ。

 写し、映り、移ることもまた、〈うつ〉を語幹としている。そして三つの作品は、写し、映り、移ることへの際立った関心でも共通している。「失われた時を求めて」における<移り変わり〉のテーマ、「城」の〈映ること〉/〈似ていること〉のテーマ、そして「細雪」における〈写すこと〉への執着を、われわれは眠りと主体の問題として、同一の位相のもとで分析した。これらのテーマと、三つの作品を特徴付ける語りの無限定性は、眠りと主体の問題を媒介に、密接に関連しているのである。

 本論の第一章のなかで、眠りと主体の問題を概括し、二章で「失われた時を求めて」を、三章で「城」を、四章で「細雪」を、眠りと主体の観点から詳論した。書く主体は、みずからの主体性を限界まで〈空〉にし、〈うつわ〉となって、物語をはじめる。この書く主体の輪郭を抽出しうるのは、無論テクストそのものの分析しかない。テクストは、〈うつわ〉と化した書く主体の位置に、語りを配置する。われわれの問題とする三つの作品では、語りは伝統的な小説の約束を離れて、虚構の限定性を越え、現実へと絶えず送り返す無限定性を孕むよう仕組まれている。それは、「失われた時を求めて」の場合には、一人称単数としてしか限定されていない、〈うつわ〉にまで還元された〈私〉という話者であり、「城」では、〈私〉という書く主体を横線で消し去って、〈うつろ〉な〈K.〉を三人称として見据える〈私〉/〈K.〉/語りであり、「細雪」においては、雪子という〈空〉の〈人形(ひとがた)〉を絶えず窺う幸子の声に、声を重ねるようにして語り出す〈二人称的〉な語りである。第二章の副題を「一人称の眠り」、第三章の副題を「三人称の眠り」、第四章のそれを「二人称の眠り」としたのも、それぞれの作品の語りの特徴を示しておきたかったからである。

 三つの作品に、主体のアイデンティティーを問い掛けてゆく作業のなかで次第に浮かび上がってきたのは、語りの問題に不可分な人称の問題と、〈似ていること〉の呪縛である。伝統的小説の脱皮を試みたプルーストにおいてすでに、それぞれの人物(たとえばゲルマント夫人、シャルリュス、またはオデット)がそれぞれの環境に順応してゆくのを描く際に、〈似ていること〉―彼らは環境のエッセンスに染まり、「それらしきもの」に限りなく似てくる―に関してきわめて鋭い感覚を見出すことが可能なのである。またカフカは〈似ていること〉の呪術的側面を、助手という奇怪な形象において表現しているだけではなく、クラムという中心的人物の特徴として描いている。しかし〈似ていること〉の作用をもっとも根底的に追求しているのは「細雪」であろう。谷崎は「源氏物語」から〈似ていること〉という物語構造を継承し、〈似ていること〉の権化としての〈人形〉を、その作品の中核に据えているのである。

 プルースト、カフカ、そして谷崎と論が展開されるにつれて、主体は、〈私〉という<うつわ〉のような一人称から、〈似ていること〉の二人称的空間へと遡り、未分化なその本来の姿を現わしてゆく。主体の根源性に近づけば近づくほど、現実というものが、一人称と三人称に明確に区別される、私/他者の関係性から成り立っているのではなく、二人称的な〈身近さ〉の混沌とした〈現〉として把握されるであろう。言葉や概念によって認識されることによって影響力(インパフト)を失ってしまう手前の、本来の現実とは、〈うつ〉のめくるめく作用を及ぼす二人称的な混沌なのではないか。そして主体はそのなかで、〈うつること〉の果てしなさに脅かされながら、みずからの確固とした輪郭を育んでゆくのだ。

 二十一世紀を迎えようとするわれわれは、現実の無限定性を認識しはじめ、主体の活力を新たにする機会にようやく巡り合ったのではないか。この機会は、プルースト、カフカ、谷崎の創り出した二十世紀文学の最大の恵みにほかならず、われわれはいま、彼らが文学において開拓した道を、現実に歩みはじめているのである。

審査要旨

 根本美作子氏の博士論文「文学と眠り―プルースト、カフカ、谷崎」は、フランス語、ドイツ語、日本語というそれぞれ異なる言語によって書かれた三つの近代小説の分析を通じて、文学における「主体」の意味を追求した野心的な研究である。

 現実の「模倣(ミメーシス)」を提示する文学形式としての小説は、虚構の世界を「あたかもそれが現実であるかのように」物語る技術を洗練させてきた。「語る」行為においては、当然それを行う「語りの主体」が存在する。では、そこで語っているのは「誰」か―この問いは、しかし、一見するほど自明なものではない。一九二〇年代のヨーロッパで書かれた「失われた時を求めて」と「城」、一九三〇年代の日本で書かれた「細雪」という、小説の歴史において「現代性」を画する三つの傑作において、「語る行為」がいかなる様態のもとに行われているかを細かく見てゆくと、そこで語っている「主体」の輪郭の曖昧さ、その置かれている境位のあやうさが、改めて浮かび上がってくる。むしろ、「主体」の概念そのものを疑問に付し、根底から問い直す試みとして、この三作を読み直すことが可能となるであろう。

 根本氏は全四章で構成される本論文の第一章で、まず「主体」をめぐる一般的な理論的枠組みを提示する。そこでの眼目は、確固たる個我の輪郭を備えた充実した「主体」という考えかたに対する批判にある。たとえば眠りこんでいるとき、またそこで夢を見ているとき、人は、自己同一性が溶解し、自分でありながら自分でなくなってゆくような奇妙な感覚を味わうが、根本氏によれば、このように「他なるもの」を自在に呼びこんでゆく空虚な「器」の様態こそ、むしろ「主体」の本源的なありかたなのである。夢「うつつ」の状態のとき、他者を「うつし」出しつつ絶えず「うつろい」つづける「うつろ」な「うつわ」としての「私」が現われる。根本氏は、「うつ」という音素をめぐる折口信夫の語源論に依りながら、西欧哲学における「確定的主体」の概念を批判し、眠りの中で特権的に立ち現われてくるこの特異な、しかし本源的な「主体」の位相の定義を試みる。

 残りの三章では、三つの長篇小説が一篇ずつ扱われてゆくが、とくに集中的に考察されるのは、それぞれの作品の書き出しの部分である。第一ページの第一行で「何者か」が語り始める-そのとき、「語りの主体」の出現というこの出来事のうちに、第一章で提示された「うつろ=うつつ」という「非=確定性」の境位が凝縮されたかたちで現われてくる、というのが根本氏の洞察であった。プルーストにおける独特な一人称主語の問題、カフカにおいて「K」という頭文字だけで呼ばれる三人称主語の問題、また谷崎潤一郎の屈曲の多い文章における、「主語」という西欧的な文法概念それ自体を無化してしまうかのごとき特異な日本語の構造の問題、等々に対して、根本氏は一つ一つ緻密な分析を加えていった。さらに、プルーストとカフカにおいて頻出し、物語の重要な構成要素となっている「眠り」の主題の表象が、こうした「語りの主体」の特徴的なありかたと緊密な関係を持っていることが示された。また、谷崎が執着した「類似」と「人形」の主題もまた、この「主体]批判の文脈に位置づけられうること、プルーストとカフカにおいても「類似」の主題は大きな意味を持ち、伝統的な西欧小説からの脱皮と方法的革新に重要な役割を演じていることが指摘された。

 本論文「文学と眠り―プルースト、カフカ、谷崎」は、小説の説話理論の緻密化と「主体」概念の現象学的批判との接合を試みた力作であり、単なる作品研究の域を越え、またジュネットの「物語のディスクール」など従来のいわゆる説話理論からも批判的な距離をとりつつ、文学における「表象」の一般理論へと向かう広大な展望を切り開いた雄篇として、高く評価することができる。四百字詰め原稿用紙に換算して一千枚に及ぶ長大な記述を通じて、根本氏は、テクストの細部一つ一つの前に根気強く立ち止まって具体的な読解を積み上げ、その上に立って、文学における「主体」という巨大な問題を追求してゆく。その考察は、高度に抽象的な内容でありながら、作品を織りなす言葉の一つ一つに密着しつつ「書く主体」としての作家の欲望を追体験してゆこうとする根本氏の篤実な姿勢と豊かな感性とによって、空理空論の思弁に終わることを免れ、刺激的な文学理論としての広がりを得ることに成功している。プルーストをフランス語で、カフカをドイツ語で深く精細に読みこなし、広い領域にわたる先行論文(そこには英語やイタリア語のものも含まれる)を自在に活用しつつ、この巨大な研究主題に大胆な貢献を行っている根本氏の言語能力と博識は、感嘆に値する。「思いこみ」に基づくやや強引な展開や譬喩に頼った牽強付会と見受けられる箇所がところどころあり、論旨の説得力をいくぶんか弱めていることは否定できないが、こうしたささやかな瑕瑾は、この秀抜な論考の水準の高さを決定的に損なうものではいささかもない。審査委員全員の賛同のもとに、博士の学位(学術)を授与するにふさわしい論文と判定するものである。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54541