学位論文要旨



No 112147
著者(漢字) 一戸,裕司
著者(英字)
著者(カナ) イチノヘ,ユウジ
標題(和) 高角度分解X線光電子回折に関する研究
標題(洋)
報告番号 112147
報告番号 甲12147
学位授与日 1996.06.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3718号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二瓶,好正
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 北澤,宏一
 東京大学 教授 安井,至
 東京大学 助教授 尾張,真則
内容要旨 1.

 X線光電子回折(X-ray photoelectron diffraction,XPED)法は,固体表面近傍の原子的構造に関する情報を提供する分析法である.XPED法においては,光電子スペクトル強度の角度分布(XPEDパターン)を測定するため,装置の角度分解能は重要な測定パラメーターである.しかしながら,XPED測定の高角度分解能化に関する検討はこれまでほとんど行われていない.一方で,単結晶中における光電子回折現象の解明は従来十分にはなされておらず,この問題を解決するためには,高い角度分解能によるXPED現象の観測が必要不可欠である.また,高角度分解XPEDに関する検討は,実験的な精度を向上させるという意味だけでなく,理論計算との比較に際して参照すべき真のデータを提供するという点で重要であり,今後のXPED法の発展の鍵を握る最重要課題であるといっても過言ではない.そこで,本研究は,高角度分解XPED装置の開発を行った上で,高角度分解能化がXPEDパターン測定に及ぼす効果を明らかにし,単結晶中における光電子回折現象の本質的解明と,光電子回折理論の高精度化に対して新しい知見を与えることを目的としている.

2.高角度分解XPED装置の開発

 XPEDの装置においては,電子レンズ入口に設置されたアパーチャーにより光電子の検出角規制が行われている.非常に微小なチャンネルを極めて薄い壁を隔てて配列させた2種類のアパーチャー(II,III型)を精密加工により作成し,検出率の大幅な低下を伴わない高角度分解XPED装置を実現した.角度分解能(検出角の平均偏差)は,それぞれ,0.6°(II型),0.3°(III型)であり,従来のアパーチャー(I型)と比べると,6倍(II型),24倍(III型),と格段に高い角度分解能を実現することができた.図1において,3種類の角度分解能を用いたXPEDパターンの測定を行った結果を示した.標準試料としてCaF2(111)面を選び,Ca2p光電子の極角走査によるXPEDパターンを測定した.図に示されるように,角度分解能が向上するにつれ,XPEDパターンのコントラストとシャープネスが大幅に増大し,多くの回折ピークが明瞭に分離された.

図1.CaF2(111)面からのCa2pXPEDパターン.用いたアパーチャー(a)I型,(b)II 型,(c)III型.
3.XPEDパターンの高角度分解能2次元精密測定

 物理・化学的に比較的安定なMgO(001)面からのX線励起Mg KLLオージェ電子回折パターンの高角度分解能2次元精密測定を行った(図2).測定に用いたアパーチャーはII型で,極角を表面法線方向から90°,方位角を160°走査した.また,送り角度は0.5°であった.この結果,多くの帯状や円状の微細構造を正確に測定することができ,微細構造と結晶構造との関連を完全に特定することができた(図3(a)(c)参照).観測された帯状の回折パターンは,汎用の電子線回折において観測されるKikuchi bandに極めてよく類似していることがわかりKikuchi-like bandと名付けられた.

図2.MgO(001)へき開面からのX線励起Mg KLLオージェ電子回折パターンの高角度分解能2次元精密測定結果.用いたアパーチャーはII型.送り角度0.5°
4.高角度分解XPEDにおけるKikuchi-like bandと円状パターンの特性

 高角度分解能2次元精密測定により観測されたKikuchi-like bandと円状パターンのエネルギー依存性とサイト識別特性に関する検討を行った.このような検討を行う目的は,これまでよく知られていたXPEDパターンのエネルギー依存性とサイト識別特性が,本質的には主としてKikuchi-like bandと円状パターンの特性に基づくことを示すことにある.

4.1.エネルギー依存性

 MgO(001)へき開面からのX線励起Mg KLLオージェ電子(運動エネルギーEk=1182eV)回折パターンとMg2p(Ek=l435eV)XPEDパターンの高角度分解能2次元精密測定を行った(図3(a)(b)).図3(c)(d)において,測定したパターンの解析結果が示されている.実線はKikuchi-like bandと円状パターンの強度プロファイルの一部である暗い線のフィッティング結果を示しており,また,破線はMgO結晶中の低指数結晶面に関わる1次,または,2次のBragg角のプロットである.図3(c)において,結晶面の面指数と,Braggの式2dsinBragg=n(1)における次数nが示されている.また,点線はMgO結晶中の低指数結晶軸における一次元回折の式ak(1-cos)=2(2)における散乱角のプロットである.ここで,aは結晶軸の原子間距離,kは波数である.この結果はKikuchi-like bandと円状パターンが,それぞれ,特定の結晶面におけるBragg回折と,特定の結晶軸における一次元回折に由来していることを示している.図が煩雑になることを避けるため,図3(d)において面指数,次数,並びに,軸指数は示されていないが,Mg KLLオージェ電子回折パターン中に観測されたすべてのKikuchi-like bandと円状パターンが,Mg2pXPEDパターンにおいてももれなく観測された.そこで,同種のKikuchi-like band,並びに,円状パターンをそれぞれ比較してエネルギー依存性を調べた.

図3.高角度分解能2次元精密測定により得られたMgO(001)へき開面からの(a)Mg KLL(Ek=1182eV),(b)Mg2p(Ek=1435eV)の回折パターンと,解析結果(c)Mg KLL(d)Mg2p.実線はパターン中に観測された暗い線のフィッティング結果.破線は特定の結晶面における,1次もしくは2次のBragg角のプロット,破線は結晶軸における一次元回折の散乱角の計算値のプロット.

 図3において,電子の運動エネルギーが高いほど,Kikuchi-like bandの幅と,円状パターンのサイズが小さくなることが示され,エネルギー依存性が検証された.一方,それぞれの電子の運動エネルギーが既知であったためKikuchi-like bandの幅と円状パターンのサイズのエネルギー依存性に基づく変化を,(1),(2)式から高い精度で予測することができた.光電子,オージェ電子回折においては,電子の運動エネルギーが既知であるため,Kikuchi-like bandと円状パターンのエネルギー依存性を利用して正確な距離に関する情報を得ることができると期待される.

4.2.サイト識別特性

 構造的に非等価な結晶格子サイトを点光源とする複数のXPEDパターンはそれぞれ異なることから,XPED法はサイト識別特性を保持する分析法であるといえる.ここでは,2種類の結晶格子サイトを含むCaF2に注目し,異なるサイトを占有するCaとFからのCa2p(Ek=1139eV),F1s(Ek=801eV)XPEDパターンの高角度分解能2次元精密測定を行った.図4(a),(b)において測定されたXPEDパターンが示されており,また,図4(c),(d)において解析結果が示されている.

図4.高角度分解能2次元精密測定により得られたCaF2(111)へき開面からの(a)Ca2p(Ek=1139eV)(b)Fls(Ek=801eV)の回折パターンと,解析結果(c)Ca2p,(d)F1s.

 Ca2p,F1sXPEDパターンの比較において,エネルギー依存性に基づく違いばかりでなく,放出原子周囲の構造の違いに基づくKikuchi-like bandと円状パターンの違いが測定され,サイト識別特性を検証することができた.特に,(111)面に関連するKikuchi-like bandは,Ca2pXPEDパターンにおいては明瞭に観測されたものの,F1sXPEDパターンにおいては観測されなかった.この特異な現象は,放出原子と関連する結晶面との幾何学的関係に由来し,放出原子が結晶面に対して対称中心の位置にない場合,Kikuchi-like bandは観測されないことがわかった.

 一方,Kikuchi-like bandが約50Å以上遠方で生起した回折パターンであることから,単結晶からのXPEDパターンを理論的に再現するためには,従来用いられていた15Å程度のクラスターよりもさらに大きいクラスターを想定する必要があることを示した.

5.化学状態識別X線光電子回折法を用いた電子線照射によるCaO/CaF2(111)生成層の構造解析

 新しい分析法である化学状態識別X線光電子回折法を用いることによって,共存する複数の化学状態にある原子周囲の構造を個々に解析することができる.本研究においては,電子銃を用いて電子線照射の処理をCaF2(111)面に対して施すことにより,CaO層が室温においてもエピタキシャル成長したことを化学状態識別X線光電子回折法を用い明らかにし,本法がヘテロエピタキシャル複合層の構造解析に有効であることを示した.

6.結論

 高角度分解XPED装置の開発を行い,従来より格段に高い角度分解能を実現した.アパーチャーIII型により実現された角度分解能は,現時点において世界最高である.さらに,非常に鮮明な,多くの微細構造をともなったXPEDパターンを測定した上で,単結晶中の光電子回折現象に関する新規な知見を明らかにし,光電子回折理論に寄与した.

審査要旨

 本論文は「高角度分解X線光電子回折に関する研究」と題し,X線光電子回折装置の高角度分解能化を行った上で,単結晶中における光電子回折現象に関わる新しい知見を明らかにしたことについてまとめたものである.単結晶中における光電子回折現象の解明は従来十分にはなされておらず,この問題を解決するためには,高い角度分解能によるX線光電子回折(XPED)現象の観測が必要不可欠である.また,高角度分解XPEDに関する検討は,実験的な精度を向上させるという意味だけでなく,理論計算との比較に際して参照すべき真のデータを提供するという点で重要であり,今後のXPED法の発展の鍵を握る最重要課題であるといっても過言ではない.そこで,本研究は,高角度分解XPED装置の開発を行った上で,高角度分解能化がXPEDパターン測定に及ぼす効果を明らかにし,単結晶中における光電子回折現象の本質的解明と,光電子回折理論の高精度化に対して新しい知見を与えることを目的としている.本論文は7章からなっている.

 第1章において,固体表層構造解析法としてのX線光電子回折法において考察すべき問題点を論じ,本研究の目的について簡潔に述べている.

 第2章において,XPED法の原理的特徴と,XPEDパターンを測定するために現在広く用いられている角度分解型X線光電子分光装置について具体例を挙げて述べている.

 第3章で,高角度分解XPED装置開発の過程を示し,さらに,角度分解能の向上がXPEDパターン測定に及ぼす効果を検討している.また,本来のXPEDパターンを正確に観測するためにはどの程度高い角度分解能が必要とされているのか検討を行っている.

 第4章においては,物理・化学的に比較的安定な結晶面であるMgO(001)面より得られるXPEDパターンの高角度分解能2次元精密測定を行い,従来報告されていなかった多くの微細構造を正確に測定した上で,微細構造と結晶構造との関連を完全に特定することを試みている.

 高角度分解能測定により分離された微細構造は,2次元XPEDパターン中に多数観測された帯状,並びに,円状の回折パターンの断面であった.帯状のパターンは,汎用の電子線回折においてしばしば観測されるKikuchi bandに極めてよく類似していることが示され,Kikuchi like bandと名付けられた.

 第5章においては,高角度分解能2次元精密測定により観測されたKikuchi-like bandと円状パターンのエネルギー依存性,並びに,サイト識別特性に関する実験的,理論的考察が行われている.つまり,Kikuchi-like bandと円状パターンの特性についての検討がなされている.このような検討を行う目的は,単結晶中における光電子回折現象を明確化するためである.つまり,これまでよく知られていたXPEDパターンのエネルギー依存性とサイト識別特性が,本質的には主としてKikuchi-like bandと円状パターンの特性に基づいていることを示すことにある.また,第5章の章末において,本研究が光電子回折理論の高精度化に対して与えた新しい知見を示している.

 第6章においては,新しい分析法である化学状態識別X線光電子回折法の応用に関する検討がなされている.この分析法を用いることによって,共存する複数の化学状態にある原子周囲の構造を個々に解析することができる.本研究においては,電子銃を用いて電子線照射の処理をCaF2(111)面に対して施すことにより,CaO層が室温においてもエピタキシャル成長したことを化学状態識別X線光電子回折法を用い明らかにし,本法がヘテロエピタキシャル複合層の構造解析に有効であることを示した.

 第7章において,本研究の結論が述べられている.つまり,大幅な検出率の低下をともなわない高角度分解XPED装置の開発を行い,世界最高の角度分解能を実現した上で,従来より格段に鮮明で,正確な,多くの微細構造をともなったXPEDパターンを測定し,単結晶中の光電子回折現象の本質的解明に重要かつ有意義な知見を明らかにしたことが述べられている.

 以上のように,本論文は,新しい着想によりX線光電子回折装置の角度分解能を大幅に向上させた上で,X線領域における光電子回折現象の本質に関わる事実を明らかにし,理論,実験の両面において本法の今後の発展に貢献するところの重要な知見を得た.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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