学位論文要旨



No 112148
著者(漢字) 森,孝雄
著者(英字)
著者(カナ) モリ,タカオ
標題(和) ドープされたペンタセンの磁気的及び電気的性質についての研究
標題(洋) Study of Magnetic and Electronic Properties of Doped Pentacene
報告番号 112148
報告番号 甲12148
学位授与日 1996.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3114号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 壽榮松,宏仁
 東京大学 教授 神部,勉
 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 助教授 大塚,洋一
内容要旨

 近年、有機物、例えば層間化合物や低次元物質の研究が盛んに行なわれ、超伝導や擬一次元伝導体における様々な性質など、豊富な物性が観測されてきた。

 鎖状のアセン系列の有機物はドーピングに重要と思われるバンドギャップや電子親和力などの量をベンゼン環の数を変えることで、パラメーターとして制御できる。ペンタセン(PEN)はアクセプターもドナーもドープできる母体として適当な位置にあると思われる。既にヨウ素ドープしたペンタセン薄膜の抵抗が測定されており、ドープ前は絶縁体(伝導が約10-8S/cm)であるが、ドープにより伝導は約150S/cmになり、大きな異方性(108)もあることが知られていた。240K以上では伝導の温度依存性が半導体的であり、240K以下では金属的である。これが金属非金属転移であると予想されているが、そのメカニズムが不明であり、高温では半導体、低温で金属になるという非常に珍しいものである。

 我々はこの振る舞いをより詳しく調べるため、またアルカリ金属ドープも行って、その性質を初めて広い温度域において調べるために、電子状態のミクロなプローブとしてESR(電子スピン共鳴法)、及びSQUID(超伝導量子干渉計)装置による帯磁率を測定した。

 ESR、NMR(核磁気共鳴法)に用いた試料は、粒状(微結晶)のペンタセンで、これに、ヨウ素やカリウムを飽和ドープしたものである。得られた試料の組成はPEN1l2.5-2.7とPEN1K3.6である。

 ESRは2つの著しく異なる周波数領域で行った。X-バンド9.3GHzのESRの測定温度域は300K〜4Kであり、7.7MHzにおけるESRは3He-4He希釈冷凍機を用いて最低温度50mKまで測定した。

 静帯磁率測定も300K-2K、そして3He-4He希釈冷凍機を用いて最低温度40mKまで測定した。絶対スピン帯磁率を求めるためにESR/NMRを測定した。

(1)ヨウ素ドープした試料について:

 240K以上では伝導の温度依存性は半導体的であり、240K以下では金属的であったが、一方、ESRのスピン帯磁率、また、静帯磁率は240Kで変化しなかった。つまりフェルミ面における状態密度は240Kを境に変化していない。このことより金属と非金属の間の転移が起こっているとは考えにくい。

 最も特徴的な実験結果として、図1に示すように、gシフトについて大きな温度依存性が観測された。このような挙動は珍しく、gシフトがそのような温度依存性を持つメカニズムは説明できなかった。

 gシフトg、及びESR吸収線幅dHにおいて共に、抵抗と同様に240Kにおいて温度依存性の変化が観測された(図1)。ここで仮に、温度の全域においてエリオットの緩和機構

 

 が有効であるとして、実験結果から緩和時間Rを計算した結果、抵抗の特徴的な温度依存性と定性的に似た振る舞いを示した。つまり、スピン帯磁率の結果も考え合わせると、伝導の振舞いが金属非金属転移によるのでなく、電子の散乱による緩和時間が240Kで何等かの原因で極小を持つことによる可能性があると考えられる。散乱による緩和時間がこのような極小を持つことを説明する可能性として、ペンタセン分子の熱振動運動や、何等かの構造相転移(インターカレントの安定な配置の変化など)に関係していることが考えられる。

(2)カリウムドープした試料について:

 X線回折の測定により、カリウムドープによって格子定数の変化が認められ、その大きさから、PEN分子の並んだ層間に挿入されるヨウ素の場合に比べ、よりPEN分子の間に挿入されていることが示唆された。

 ESRにおいて、吸収信号に2つの成分が観測された:線幅のシャープなもの(室温で約0.8G)とその幅の約3倍のものである。微量な空気を導入した試料の測定結果との比較などから、鋭い方の成分が酸化に起因するもの--例えば酸素によってピン止めされたスピン--であり、広い方の成分のみがカリウムドープに本質的に因るものであることが分かった。

 次に、ESRをより低温まで測定した結果、線幅、及びスピン帯磁率が0.2K以下において急激に小さくなった(図2)ので、0.2Kにおいて何らかの転移が起こり、最低温度までに広い方の信号がほぼ消えてなくなっていると考えられる。これを説明するのに超伝導転移や、パイエルス転移や、強磁性的な転移なども考えられるが、図3に示すように、超伝導転移に期待される静帯磁率やQ値の変化が観測されなかったこと、パイエルス転移に期待される静帯磁率の変化や1次元性を示すESR線幅の周波数依存性が見られなかったこと、そして強磁性的な転移に期待される静帯磁率の増加やESR線幅が狭まることが観察されなかったことより、以上の可能性は除外される。それらの結果と、Xバンドにおいて広い信号が低温側においてキュリーワイス則に従い、漸近キュリー温度が負であることや、0.2K直上の静帯磁率もやはりキュリーワイス則に従い、が負であること、を考え合わせると、反強磁性的な転移であると結論できる。

 更に、静帯磁率の測定によって上記の反強磁性的転移温度が磁場の増大に対し、250G近傍で0Kに近づいた。この臨界磁場は局在モーメントの場合に期待されるものより1桁以上低いこと、及び、局在モーメントを仮定してキュリーワイス則から見積もったスピンの数が、飽和モーメントから見積もったスピンの数の約3倍であること、を考えると、この転移が遍歴電子系における反強磁性転移であると考えられる。

 しかし、温度ヒステリシス(図4)、及び磁場ヒステリシスが観測され、通常の反強磁性転移ではない特徴を持つものであった。

 まとめると、ペンタセンに対し、アクセプターであるヨウ素だけでなく、ドナーであるアルカリ金属(カリウム)のドープも行った結果、著しく異なる物性を示した。

 ヨウ素ドープの場合は、散乱をミクロな面から見ることにより、抵抗の特徴的な温度依存性は、従来から考えられていた金属非金属転移によるものではないことを明らかにし、電子の散乱時間が240Kで極小を持つことに起因すると解釈できる。そうした振る舞いの原因として、ペンタセン分子の熱振動励起や構造相転移などが考えられる。

 カリウムドープ試料において、ESRや静帯磁率測定における顕著な振る舞いの変化から、0.2Kにおいて反強磁性的な転移が起きていることを見い出した。アルカリドープした電子系でこのような転移が観測されるのは初めてである。

 また、この転移は、単純な反強磁性的な転移にはない上に挙げたような特異な特徴を持ち、新しい磁気転移が起っている可能性がある。

図1 ヨウ素ドープしたペンタセンのX-バンドESRの線幅とgシフトの温度依存性。図2 カリウムドープしたペンタセンの測定温度の全域におけるESRのスピン帯磁率の温度依存性(昇温過程)。白丸が7.7MHzの結果、黒丸がXバンドにおける広い成分の結果。図3 カリウムドープしたペンタセンの昇温過程における静帯磁率の温度依存性。測定磁場は、50G、100G、200G、500G、1kG、2kG、3kG。図4 カリウムドープしたペンタセンの昇温過程と冷却過程における静帯磁率の温度依存性。測定磁場は50G。
審査要旨

 本論文は、ペンタセン分子性結晶にヨウ素およびカリウムをドープし、それらの結晶構造及び電子的・磁気的特性を実験的に明らかにした研究である。実験手法としては、X線回折による構造解析と、電子スピン共鳴及び超伝導量子干渉計による帯磁率測定法を利用し、さらにヘリウム希釈冷凍法を用いて、室温から50mKにいたる広い温度範囲で測定を行い、、いくつかの新しい現象を発見した。

 本論文は、六章から構成されている。第一章は序論であり、本研究の背景と目的が述べられている。第二章では、本論文で取り上げられているペンタセン分子性結晶の一般的な性質、およびヨウ素・ドープのペンタセン結晶について、従来から知られている研究結果が紹介されている。第三章において、本研究で用いられている試料結晶の作成法、および測定手法について述べられている。実験結果とその考察は、第四章及び第五章に詳述されており、それぞれヨウ素・ドープしたペンタセン結晶とカリウム・ドープしたペンタセン結晶について章を分けて述べられている。第六章において、本研究で得られた結論をまとめ、その意義を述べて終えている。

 有機分子が規則的に並んで形成される分子性結晶は、一般的に構造に柔軟性があり、人為的に様々な構造変調を加えることが可能で、その結果、豊富な物性物理の研究対象となっている。本研究で取り上げられたペンタセン分子(ベンゼン環が五個直線状に繋がった分子)は、直立したまま凝集して、長方格子構造を持つ1枚の分子層を作り、その分子層が多数枚重なって層状結晶を作る。この分子性結晶にヨウ素をドープすると、ペンタセン分子層間に侵入し、一種の層間化合物を作ることが知られていた。純粋なペンタセン分子結晶は絶縁体であるが、このヨウ素・ドープした結晶は良導体となり、さらに興味深いことに、そのドープされた結晶の電気伝導度の温度依存性が、240K以上では半導体的であるが、それ以下では金属的に変化し、一種の金属・非金属転移が起こっていることが報告されていた。そこで、本研究では、その特異な伝導特性のメカニズムを明らかにするため、電子状態のミクロなプローブである電子スピン共鳴法を利用して研究した。その結果、従来の説を排除する新たな解釈を得た。また、電気陰性度が大きいヨウ素の代わりに、電気陰性度が非常に小さいカリウムをペンタセン結晶にドープすれば、著しく異なる物性が期待できるので、カリウムのドープを試みた。その結晶構造解析から、やはり規則的な結晶構造を組む層間化合物が形成されていることがわかった。さらに、その電子・磁気物性を広い温度範囲に渡って測定し、今までに知られていない特徴を持つ磁気相転移を発見した。その新しい現象の完全な解明には、他の手法による相捕的な研究が必要であるが、本研究は、新規な分子性結晶が示す新しい物性研究の端緒となるものである。以下、ヨウ素・ドープの結晶とカリウム・ドープの結晶について得られた結果を詳述する。

1.ヨウ素・ドープ・ペンタセン結晶について

 スピン帯磁率および静帯磁の温度変化を測定した結果、240K付近でなんら変化を示さなかった。これはフェルミ面での電子状態密度が変化しないことを意味しており、従来から考えられたいた金属・非金属転移の存在を否定するものである。しかし、電子スピン共鳴吸収の線幅とgシフトが240Kで特徴的に変化していることが見いだされた。これは、緩和時間が変化したためと解釈できる。よって、従来から観測されていた電気伝導度の特徴的な温度依存性は、伝導電子の散乱機構の変化に起因することが明らかになった。その変化は、何らかの原子配列構造の変化によって引き起こされると考えられる。

2.カリウム・ドープ・ペンタセン結晶について

 X線回折の結果から、ヨウ素・ドープの場合と異なり、ペンタセン分子層間距離があまり広がらず、ドープされたカリウム原子がペンタセン分子層内に部分的にめりこむ形でドープされていることがわかった。この層間化合物について電子スピン共鳴法によってスピン帯磁率を測定したところ、0.2K以下の極低温で帯磁率が急激に減少することを見いだした。超伝導量子干渉計による静帯磁率の測定結果も考慮して検討した結果、この現象は超伝導転移やパイエルス転移、または強磁性的な磁気相転移ではないことがわかった。さらに、帯磁率の温度依存性がキュリー・ワイス則に従い、漸近キュリー温度が負になることから、この現象は反強磁性的な相転移であると結論した。また、この相転移の臨界磁場の大きさ、および帯磁率自体の大きさから、この磁気秩序は局在モーメントでは説明できず、遍歴電子系での反強磁性転移であると結論した。しかし、この転移は、特徴的な温度ヒステリシスと磁場ヒステリシスを示し、通常の反強磁性転移では説明できない特徴を持つことも見いだした。

 以上述べたように、本研究では、ペンタセン分子結晶にヨウ素およびカリウムをドープし、その結晶構造および電子・磁気物性を極低温までの広い温度範囲で測定し、その結果をもとに、今までの説を覆す解釈を与え、また、今までに知られていない種類の磁気相転移を見いだした。これは、新規な分子性結晶の物性物理の分野での新たな展開に寄与したと認められるので、博士(理学)を授けるに十分な内容を持つものであると審査委員全員一致で認定した。なお、本研究の一部は指導教官をはじめとする所属研究室のメンバーとの共同で遂行されているが、本論文の中核をなす実験の実施およびその解析については、論文提出者が主体的に行ったものと判断した。

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