本論文は中国近代史上の重大事件である太平天国運動(1850年〜1864年)発生の原因を、運動発生の地である広西省(現チワン族自治区)における移民社会の形成に注目することで明らかにすることをめざした。 太平天国前夜の広西における移住は生計の安定と社会的上昇をめざす様々な階層の人々によって担われた。それは地方政府の保護を得て「上等の人」に成長した官僚移民から、「下等の人」の代表として本論文が取り上げた客家移民、少数民族まで多岐に亙ったが、それぞれが対抗意識を持ちながら成功のために必死の選択を行なった。この時彼らが安定と上昇のために選択し、或いは選択出来なかった基本的戦略については、移民各階層で本質的な違いはなかった。 こうした中で拝上帝会が急速に発展した理由は、移民社会が持つ厳しい競争性と、その競争に見られた事実上の不公平さにあった。無論科挙制度そのものは少数の賤民階級を除くと万人に門戸を開いた開放的な制度であったが、科挙合格者を中心に形成された「客籍」エリート集団のメンバーは、入植当初から地方政府の庇護を得た官僚、商業移民や、彼らと婚姻、交遊関係を築くことでそのサークルに加わった一部の新興宗族や少数民族に限定されていた。これに対して入植時に政府の庇護を得られなかった漢族下層移民、「客籍」エリートの佃戸となった大多数の少数民族は、「煖籍」「冷籍」の区別に示される差別的な慣行によって政治的上昇の可能性から事実上排除されていた。そして有力宗族は自らの指導的立場を安定的なものとするために、下位集団の上昇への試みに対して王朝政府の権威を盾に牽制を加えた。 このように太平天国前夜の広西移民社会における主要な社会矛盾は、「客籍」エリートとして政治的実力を握った漢族有力移民、土官の後裔などの一部少数民族と、「土人」として彼らの抑圧を受けた少数民族や漢族下層移民、或いは彼らと密接な関係を持つに至った客家などの後発移民の間で最も先鋭に現れた。両者の対立は土着民か移民か、漢族か少数民族か、或いは広東人か客家かといった民族間、エスニック集団間の区別など多様な要素を含んでいたが、そのうち最も重要であったのは「官」への上昇を約束された科挙エリートとその隊列に加われなかった非エリートとの対立であったと考えられる。 つまり太平天国が生み出された原因とは、広西移民社会の政治、宗教的権威をめぐる独占と不公平にあった。科挙エリートに賦与される政治的権威は移民社会を統合する軸となり、安定と成功をもたらす唯一の価値として人々の心を捉えた。移民達はこの栄光を求めて激しい科挙受験熱を巻き起こしたが、それは厳しい競争によって多くの人々に挫折と屈辱を与え、勝者となった「客籍」エリートの敗者に対する過酷な支配を生み出した。また新たな成功をめざす下層移民の上昇の試みは、「客籍」エリートの認知を得ない限り「冷籍」による挑戦として迫害を受けた。こうした中で非エリートの地位に甘んじた客家や少数民族は、自らの存在に「正統」性を与え、上昇への道程を指し示す新たな「価値」体系を、既存の王朝や社会体制とは異なる地点に築かなければならなかったのである。 |