学位論文要旨



No 112151
著者(漢字) 菊池,秀明
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ヒデアキ
標題(和) 太平天国前夜の広西移民社会
標題(洋)
報告番号 112151
報告番号 甲12151
学位授与日 1996.07.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第151号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 尾形,勇
 東京大学 教授 末成,道男
 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 並木,頼寿
内容要旨

 本論文は中国近代史上の重大事件である太平天国運動(1850年〜1864年)発生の原因を、運動発生の地である広西省(現チワン族自治区)における移民社会の形成に注目することで明らかにすることをめざした。

 太平天国前夜の広西における移住は生計の安定と社会的上昇をめざす様々な階層の人々によって担われた。それは地方政府の保護を得て「上等の人」に成長した官僚移民から、「下等の人」の代表として本論文が取り上げた客家移民、少数民族まで多岐に亙ったが、それぞれが対抗意識を持ちながら成功のために必死の選択を行なった。この時彼らが安定と上昇のために選択し、或いは選択出来なかった基本的戦略については、移民各階層で本質的な違いはなかった。

 こうした中で拝上帝会が急速に発展した理由は、移民社会が持つ厳しい競争性と、その競争に見られた事実上の不公平さにあった。無論科挙制度そのものは少数の賤民階級を除くと万人に門戸を開いた開放的な制度であったが、科挙合格者を中心に形成された「客籍」エリート集団のメンバーは、入植当初から地方政府の庇護を得た官僚、商業移民や、彼らと婚姻、交遊関係を築くことでそのサークルに加わった一部の新興宗族や少数民族に限定されていた。これに対して入植時に政府の庇護を得られなかった漢族下層移民、「客籍」エリートの佃戸となった大多数の少数民族は、「煖籍」「冷籍」の区別に示される差別的な慣行によって政治的上昇の可能性から事実上排除されていた。そして有力宗族は自らの指導的立場を安定的なものとするために、下位集団の上昇への試みに対して王朝政府の権威を盾に牽制を加えた。

 このように太平天国前夜の広西移民社会における主要な社会矛盾は、「客籍」エリートとして政治的実力を握った漢族有力移民、土官の後裔などの一部少数民族と、「土人」として彼らの抑圧を受けた少数民族や漢族下層移民、或いは彼らと密接な関係を持つに至った客家などの後発移民の間で最も先鋭に現れた。両者の対立は土着民か移民か、漢族か少数民族か、或いは広東人か客家かといった民族間、エスニック集団間の区別など多様な要素を含んでいたが、そのうち最も重要であったのは「官」への上昇を約束された科挙エリートとその隊列に加われなかった非エリートとの対立であったと考えられる。

 つまり太平天国が生み出された原因とは、広西移民社会の政治、宗教的権威をめぐる独占と不公平にあった。科挙エリートに賦与される政治的権威は移民社会を統合する軸となり、安定と成功をもたらす唯一の価値として人々の心を捉えた。移民達はこの栄光を求めて激しい科挙受験熱を巻き起こしたが、それは厳しい競争によって多くの人々に挫折と屈辱を与え、勝者となった「客籍」エリートの敗者に対する過酷な支配を生み出した。また新たな成功をめざす下層移民の上昇の試みは、「客籍」エリートの認知を得ない限り「冷籍」による挑戦として迫害を受けた。こうした中で非エリートの地位に甘んじた客家や少数民族は、自らの存在に「正統」性を与え、上昇への道程を指し示す新たな「価値」体系を、既存の王朝や社会体制とは異なる地点に築かなければならなかったのである。

審査要旨

 本論文は、中国近代史上の重大事件であった太平天国運動を生み出した社会的背景を、運動の発生地となった広西省(現チワン族自治区)における移民社会の形成という角度から明らかにしようと試みている。本論文の最大の特徴は、長期間にわたる現地調査により、農家に保存されていた大量の族譜を収集し、それらを基礎として、明清時代のこの地方における社会変動を、移住という水平方向の移動のみならず、エリートの地位を目指す激しい競争という垂直方向の移動にも注目しつつ、立体的に描き出していることにある。

 本論文の篇別構成は、清代の人々自身のもつ階層認識――「上等之人」「中等之人」「下等之人」――に基づいて組み立てられている。第一部では「上等之人」即ち太平天国当時の広西で地域リーダーとして勢力をもった漢族移民及び少数民族土官の後裔を取り上げ、第二部では「中等之人」即ち、エリート集団への参入をめざした新興勢力とそれに失敗した中流宗族を、第三部では「下等之人」として、客家を中心とする漢族下層移民と少数民族を取り上げる。各章は典型的な宗族を対象とする事例研究の性格をもつが、諸階層・諸宗族相互の婚姻・公共事業などを通じての結合や対抗関係が克明に検討されており、単に羅列的な事例の集積ではなく、この地方における勢力構造の全体的図柄を厚みを以て描写することが目指されている。そうした労を惜しまぬ作業の結果、単純な階級関係或いはエスニックな関係の枠組で割り切ることのできないこの地域の社会矛盾のあり方が、従来の研究水準を越えた動態的な詳細さを以て解明されているといえよう。太平天国運動そのものの考察は簡略だが、太平天国運動を、辺境社会における上昇競争の産物として、長期的な地域史総体のなかでとらえようとする新しい視点が鮮明に提起されている。

 少数民族の上昇戦略としての積極的な「漢化」と科挙応試、中下層の人々の流動的かつ兼業的な生業形態(作者はこれを広東語の「食(ウェンセク)」という語で表現する)など、作者のいくつかの特徴的論点は、今後大きな発展可能性をもつ議論として評価できる。国家の役割などにつき、やや性急な否定的評価が気になるところもあるが、これもまた、現地の人々と深くつきあい、彼らの情念を感じとるなかから問題意識を醸成していこうとする作者の研究姿勢の所産という側面もある。総じて、大量の一次史料の発掘と整理に基づく克明な地域社会研究として、また、実体験に基づく方法的問題提起において、読者に強い印象を与える力作であり、学位論文としての水準を十分に満たしているものと判定し得る。

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