学位論文要旨



No 112153
著者(漢字) 青木,信夫
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,ノブオ
標題(和) 日本近代における皇族・華族邸宅の成立と展開に関する歴史的研究
標題(洋)
報告番号 112153
報告番号 甲12153
学位授与日 1996.07.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3719号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨

 この論文は,日本近代における皇族・華族邸宅を,現存ならびに記録上の建築作品の成立過程を通じて叙述し,そのことによってわが国近代住宅成立の重要な側面を明らかにしようとするものである。従来の研究では,それら上層階級の邸宅を近代住宅様式成立の予備的段階として説明されるか,あるいは使い方における二分法(ハレとケ)を推測的に提示するかのいずれかで,皇族・華族邸宅の体系的な研究報告はなされていない。

 しかしながら当該邸宅の成立に関する解明は,わが国近代の住宅史において,そうした一面的な視点によって説明しつくされるものではなく,当該邸宅特有の建築的特質を備えている。この論文は,従来の研究を踏まえながら,機能論と呼ばれる使い方の調査を前提とし,さらに都市史的な視点を導入することにより,多面的な分析を行ったものである。

 この論文は,大きく二部から構成されている。第I部は5章からなり,皇族・華族邸宅の成立と展開における五つの側面にそれぞれ対応している。第II部は邸宅の各論であるが,施主層により分類し,その代表的な例を紹介している。以下にその内容を要約して述べ,あわせて研究上の狙いとその結果とを明らかにしておきたい。

 まず序においては,従来の研究史について,主としてその方法上の特質をたどりながら簡単に述べ,この論文の背景を説明した。

第I部成立と展開第I章皇族・華族邸宅の誕生

 明治期において西洋から導入した洋風貴族邸宅が,わが国の上層階級(皇族・華族)の意識や住まい方に如何なる変化を及ぼしたかを,明治宮殿をはじめ,皇族邸,華族邸,高官官舎の代表的なものを例に検討した。皇族邸では,明治17年に完成した有栖川宮邸と北白川宮邸を皮切りに,次々に本格的な洋風邸宅が建設され,生活様式そのものも積極的に洋風化を進めていた事実を示した。一方,明治国家の上層階級を自認する華族にあっても,明治20年頃より次々と洋館建設を実現して見せたが,大半が大名屋敷の流れを継ぐ広大な和館を併設しており,殆どの場合,日常の生活はその和部で営まれ,洋館は接客用に使われた。皇族が自らの生活まで洋風化しようとしたのとは対照的であった。そこでは,自邸に洋館を持つことが上層階級の証であり,政府の欧化政策を自ら実践することにつながっていた。さらに都市史的な視点から,明治中期における皇族・華族の邸宅地を分析し,当該邸宅の立地が天皇を中心とした都市の儀礼的空間の演出に重要な役割を果たしていたことを示した。

 つぎに,明治末期から大正期における当該邸宅の動きについて検討した。まず,皇族・華族邸宅が営まれた地域的分布と変遷を示し,明治末期から郊外化が進み,関東大震災後に急激にそれが加速されていった事実を示した。この背景には,華族の経済的基盤の変化--世襲財産法の改正に伴い,世襲財産に占める土地の比重が低下し,その結果として公債・株式の比重が高まり,さらに金融恐慌により,株式配当を基盤とする華族は大打撃を受けた,があることを指摘した。また,従来の研究では,明治以来つづいた華族の生活は戦前まで,建物の洋風化とは対照的に前近代的なものであったとされていたが,大正期以後,特に関東大震災を契機として再建された邸宅の個別の事例を検討してゆくと,徐々にではあるが和館が建てられなくなり,生活の洋風化が進行していた傾向を窺うことができる。これは,留学や社交を通じて洋風の生活様式に慣れた第二世代の当主が,新邸建設に当たって洋風生活への転換を自然なものとして受け入れたためと考えられる。

第II章別邸の造営と別荘地の形成

 前章では触れなかった別邸の造営も視野に入れて,皇族・華族における邸宅の構え方(所有形式)を検討した。まず,従来あまり知られていなかった東京における別邸を外観し,さらに当該別邸が営まれた代表的な別荘地である鎌倉を中心に,関東のリゾート地について分析し,それぞれの別荘地の形成において,皇族・華族が先駆的な役割を果たしていたことを明らかにした。華族邸宅の構え方には,一つの理想形式とも言えるものがあった。それは,東京に本邸(タウン・ハウス)と別邸を構え,京都に別邸をもち,その他にプランテーション農場とカントリー・ハウスを持つというものである。このような邸宅の構え方は,山縣有朋公爵・細川護立侯爵・岩崎久彌男爵など明治期の有力華族に見られるもので,旧幕時代からの土地持ちの豪商・武家層の邸宅所有の形式と,西欧の貴族に見られる邸宅所有の形式とを重ね合わせ持ったスタイルと考えられる。なお,皇族については,東京を本邸に別邸は葉山・箱根・小田原など天皇の御用邸所在地に構えることが多く,京都には久邇宮を除いては別邸を営むことはなかった。

第III章皇族・華族邸宅における住宅様式

 明治期における皇族・華族邸宅について,住宅様式成立の具体的内容について分析を行うとともに,さらに大正・昭和初期に現れる皇族邸宅の変容について検討した。まず,皇族・華族という施主層と建築家の関係に注目すると,皇族邸については宮内省内匠寮,岩崎男爵家をはじめとする三菱系についてはJ.コンドル,住友男爵家については住友営繕組織,というように専属的な関係にあるもの,さらに渡辺仁のように学習院という学閥を軸とした関係,設計施工一貫の請負業として清水組やあめりか屋などが多くの皇族・華族邸宅を手がけているが,それ以外では建築家と当該邸宅の必然的な関係は見られない。

 次に,「和洋併置型式」をもって知られる華族邸宅を,大きく洋館部と和館部に分けてその空間構成を分析した。とくに,従来指摘されてきた-洋館部を接客に,和館部を生活にという使い分けの二分法については,機能的には和館部で充足していたものに,さらに洋風の接客空間として洋館部が存在していたことを具体例を通して明らかにした。とくに和館部における空間構成については,従来ほとんど明らかにされてこなかったが,いわゆる<表>と<奥>の存在やその使われ方において,部屋の階層的空間構成が指摘できるのであり,少なくとも明治期の当該邸宅にあっては,封建的住宅観が強く認められることを示した。

第IV章華族の経済と生活様式

 華族邸宅造営の詳細な内容を解明するために,廃藩置県(明治2年)を契機として制定された華族制度が華族の邸宅造営ならびに土地経営に如何なる影響を及ぼしたかについて検討した。あわせて,家政運営についても分析を行った。華族はその特権として貴族院議員となる資格を有し,爵位に相当する礼遇を受け,家範に法的効果を与えられ,さらに差し押さえの出来ない世襲財産を設定し得た。しかし皇室の藩屏といわれた華族の財産・収入は千差万別で,旧大藩の大名華族(前田・細川・鍋島侯爵)や財閥華族(岩崎・三井男爵)などは甚だ富裕で,潤沢な資本を背景に,邸宅所有の理想を実現し,貸地・貸家の多角的な経営を展開していたが,公卿華族には殆ど見られなかったことを指摘した。つぎに,こうした特権により守られていた皇族・華族の家政運営について分析した。多くの場合,家の全体を統轄する存在として執事(家令)がおかれ,そののもとに,事務,現業,女中の三グループが配されていた。富裕な華族では,その人員は数十名にも及び,さらに相談会なる家主の諮問機関を設置して,家政執行上,重要な役割を担っていたことを示した。

 また生活史的な視点から,論者が行ったインタビューならびに回顧談を中心にして,皇族・華族の生活様式の具体的内容(接客,年中行事,日常生活)について概観した。

第V章大名屋敷跡地の跡地開発

 旧大名屋敷の跡地における住宅地開発において,如何に皇族・華族が関与していたかについて明らかにした。まず,明治維新後,新政府によって収用された武家地が,官庁・兵営・官員住宅地などに転用されるとともに,武家地・寺社地・町人地というかつての三元的土地支配から私有地の集合体へと変化し,そこに新たに皇族や華族たちの邸宅が建設されてゆくことを示した。つぎに,江戸の大名屋敷は,多くの部分が維新後,大規模施設等に転用され現在に至っているが,一方では,大名家や財閥家などの大土地所有者による住宅地開発,借地・借家経営等を通じて敷地が細分化され,一般的市街地に変化したものも少なくない。本論では文京区を例に,三菱の岩崎男爵家による大和村の開発,旧大名家の阿部伯爵家による本郷西方町の開発のほか,東京市による市営住宅の建設などを指摘し,それらを通じて結果的に,華族の土地経営が既成市街地の形成にも大きな比重を占めていることを示した。

 さらに,大正時代に入ると,東京における住宅不足問題を背景として,大土地所有者でもあった華族たちの庭園開放の動きが起こり,地主以外の企業が土地を取得して開発するようになるが,そうした例として箱根土地株式会社の活動に注目し,旧皇族・華族邸宅地を利用した住宅地開発という一貫した企業活動の実態を明らかにした。

第II部邸宅各論

 1.皇族邸,2.旧公家邸,3.旧大名家邸,4.財閥家邸,5.政府高官邸,6.その他,に分類し,各邸宅について建設の経緯および建築的特徴,邸宅の使われ方などについて明らかにした。

 以上,総論と各論のそれぞれによって,皇族・華族の存在が,邸宅造営と住宅地開発において,わが国近代住宅成立の重要な側面を有していたことを明らかにした。

審査要旨

 本論文は,日本近代における皇族・華族邸宅を,現存ならびに記録上の建築作品の成立過程を通じて叙述し,そのことによってわが国近代住宅成立の重要な側面を明らかにしようと試みたものである。

 本論文は,大きく二部から構成されている。第I部は5章からなり,皇族・華族邸宅の成立と展開における五つの側面にそれぞれ対応させ,第II部は邸宅の各論であるが,施主層により分類し,各邸宅について建設の経緯および建築的特徴,邸宅の使われ方などについて明らかにしている。

 まず序においては,従来の研究史について,主としてその方法上の特質をたどりながら簡単に述べ,この論文の背景を説明している。

 第I章では,明治期において西洋から導入した洋風貴族邸宅が,わが国の上層階級(皇族・華族)の意識や住まい方に如何なる変化を及ぼしたかを,皇族・華族邸宅の代表的なものを例に分析し,洋館の建設がステイタスシンボルとしての意味を担っていたことを指摘している。また明治中期における皇族・華族の邸宅地に注目し,当該邸宅が天皇を中心とした都市の儀礼的空間の演出に重要な役割を果たしていたことも併せて指摘した。つぎに,明治末期から大正期における当該邸宅の変容について論じ,そこでは,郊外化の様子を華族の経済的基盤の変化とともに分析し,さらに個別の事例を検討することにより,この時期における当該邸宅の洋風化の動きを指摘している。

 第II章では,前章では触れなかった別邸の造営も視野に入れて,皇族・華族における邸宅の構え方(所有形式)を論じている。まず,従来あまり知られていなかった東京における別邸について指摘し,さらに代表的な別荘地である鎌倉を中心に,関東のリゾート地について分析し,それぞれの別荘地の形成において,皇族・華族が先駆的な役割を果たしていたことを明らかにした。

 第III章では,明治期における皇族・華族邸宅について,住宅様式成立の具体的内容について検討している。まず,皇族・華族という施主層と建築家の関係に注目し,当該邸宅の設計者とその作品について検討している。次に,「和洋併置型式」をもって知られる皇族・華族邸宅を,大きく洋館部と和館部に分けてその空間構成を分析している。とくに,従来指摘されてきた-洋館部を接客に,和館部を生活にという,使い分けの二分法に対しては,機能的には和館部で充足していたものに,さらに洋風の接客空間として,洋館部が存在していたことを具体的に明らかにしている。

 第IV章では,廃藩置県を契機として制定された華族制度が華族の邸宅造営ならびに土地経営に如何なる影響を及ぼしたかについて明らかにした。皇室の藩屏といわれた華族の財産・収入は千差万別で,旧大藩の大名華族や財閥華族などは甚だ富裕で,潤沢な資本を背景に,邸宅所有の理想を実現し,貸地・貸家の多角的な経営を展開していたが,公卿華族には殆ど見られなかったことを指摘した。つぎに,こうした特権により守られていた華族の家政運営の具体的内容について分析した。

 第V章では,旧大名屋敷の跡地における住宅地開発において,如何に皇族・華族が関与していたかについて明らかにした。まず,明治維新後,新政府によって収用された武家地が,官庁・兵営・官員住宅地などに転用されるとともに,私有地の集合体へと変化し,そこに新たに皇族や華族たちの邸宅が建設されてゆくことを示した。つぎに,江戸の大名屋敷の跡地が旧大名家や財閥家などの大土地所有者による住宅地開発,借地・借家経営等を通じて敷地が細分化され,一般的市街地に変化していることに注目し,文京区を例に,華族の土地経営が既成市街地の形成にも大きな比重を占めていることを示した。さらに,大正時代の動きとして,地主以外の企業が土地を取得して開発するようになるが,そうした例として箱根土地株式会社の活動に注目し,旧皇族・華族邸宅地を利用した住宅地開発という一貫した企業活動の実態を明らかにした。

 以上,皇族・華族邸宅の存在が,わが国近代住宅成立の重要な側面を有していたことを明らかにした。本論文は従来までの断片的な当該邸宅の捉え方から脱し,当該邸宅の実体の解明と位置づけをはじめて本格的になしたものであり,住宅史・都市史研究に新しい展望を拓いたものと言える。よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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