本稿は、中国近代における西洋思想(特に進化論)の紹介者として著名な厳復の思想を、主に「科学」という観念を一つの核として論じる試みである。 第一章においては、厳復の名声を決定的なものとしたT.H.ハクスリーの「進化と倫理」の翻訳である『天演論』において紹介された進化論の問題が検討される。いうまでもなく、彼にとっては進化論とは、当時の最先端をゆく「科学」理論であった。 そもそも、ハクスリーの原著は、厳復が最も傾倒していたスペンサーの唱える「進化の倫理」の批判をも一つの目的として執筆されたものであるが、『天演論』に付された彼のコメントなどを検討してみる限り、厳復自身は、スペンサーとハクスリーの対立する場面においては、一貫してスペンサーを支持していると筆者は考える。 これまで、厳復はハクスリーのスペンサー批判にも一部同調したとの解釈もあったが、それらは主に皮相なスペンサー理解に基づいた立論であり、根拠は薄弱である。また、筆者と同様の解釈をとるものも、厳復が如何なる論理でスペンサーを是とし、ハクスリーを非としたかは明確ではない。そこで、本章では、スペンサーとハクスリーの主な対立点であった、個人の利己的自己主張と最適者生存という二つの問題についての厳復の立場が検討され、そのハクスリー批判の論理がたどられる。 第二章においては、より直接的に、厳復の「科学」観、「科学」理解がとりあげられる。 第一節では、1890年代後半の段階で、厳復の「科学」観が同時代人のそれと如何に異なっていたかが論じられる。つまり、当時の殆どの論者が、中国の伝統的学術と西洋科学の同質性と相互補完性を強調することで、西洋科学の輸入を推進しようとしていたのに対して、厳復は、西洋科学は、その体系性、確実性において中国の伝統的知識とは次元の異なるものであり、いわば唯一の「学」として聖別された知識であるという、当時としては極めて突出した議論を展開していたことが指摘される。 第二節では、「不可知論」との関連から、そもそも「科学」というものが、如何なる形で基礎づけられるのかという点が論じられる。ここでは、厳復の認識論的な諸前提が検討され、彼にとって、認識の(人間にとっての)客観性の根拠となるのは、人間の感覚器官の相同性であると理解されていたことが指摘される。また、「科学」において使用される言語の問題も言及される。 第三節では、厳復にとって「科学」が、単なる世界の認識の手段のみでなく、人間の行為を導く規範としての機能を果たすにいたる論理的プロセスが検討される。厳復にとっては、人間の行為の善悪は、それが社会にもたらす効果によって判定され、また、いかなる行為がいかなる効果を社会に与えるかを教えるのが「群学(社会学)」の知識であるとすれば、少なくとも「群学」の知識を持つ者にとっては、それが自らの行為の方向を導く指針として機能することになる。また、社会の進化の途上において規範の機能を果たす宗教について、その可否を判定するのも「群学」の知識であり、ここでは「群学」は、いわばメタ・レヴェルの規範として機能することになることが指摘される。 また、本章では、補論が二編付され、(補論一)においては、1890年代後半から1910年代にいたる「科学」観の変化の中における厳復の「科学」観の位置づけ、(補論二)においては、厳復が「科学」の名において、過去の聖人たちをどのように批判したかが検討される。 第三章では、より具体的なレヴェルで、厳復の「政治」をめぐる言論の中で、「科学」的なるものが、如何なる形で現れているかが検討され、主材料として『政治講義』が用いられる。その中で、厳復が中国の伝統的な思考の病根として、善悪の単純な二分法的思考を念頭に置いていること、「西洋では政治はすでに科学となっている」という厳復の発言における「科学」の意味の検討、厳復が国家の「進化」の過程を如実に表現すると考えていた国家の分類、厳復のいう「政治的自由」の具体的内容、厳復の理解するところの「専制」と「立憲」の根本的差異とそこにおける「議院」の持つ意味、などが検討される。 |