学位論文要旨



No 112162
著者(漢字) 小松,香織
著者(英字)
著者(カナ) コマツ,カオリ
標題(和) 近代オスマン海運史研究
標題(洋)
報告番号 112162
報告番号 甲12162
学位授与日 1996.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第154号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,次高
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 鈴木,董
 明治大学 教授 永田,雄三
 お茶の水女子大学 助教授 小風,秀雅
内容要旨

 本研究の目的は、近代オスマン海運の形成過程を分析することにより、オスマン帝国の資本主義的世界経済への従属的包摂に伴ういくつかの問題点を明らかにすることにある。

 オスマン帝国における近代海運業の育成は、商業汽船を海軍が直接経営するという特異な形態をとって行われた。小論で取り上げた「特別局(Idare-i Mahsusa)」とは、19世紀中葉から20世紀初頭にかけて海軍の監督の下に運営された官有官営の海運企業の代表的な呼称である。この企業は、首都イスタンブル市内(ポスフォラス海峡と金角湾を除く)および周辺海域航路の独占権と、帝国内のすべての港への汽船運航権をスルタンから与えられた、いわばオスマン帝国のナショナル・フラッグであった。にもかかわらず、その実態はこれまであまり知られていなかった。そこで本研究では、既存研究ではほとんど用いらていない海軍側の史料によって、この組織の全体像を解明しようと試みた。

 まず第1章では、オスマン帝国における汽船海運の草創期を取り上げ、官有海運誕生の歴史的背景と初期の活動、その中での海軍の役割、および経営形態をめぐる様々な試行錯誤の末一つの組織に統合されていく経緯を述べた。第2章第1節では、スルタン・アブデュルハミト2世時代の官有海運「特別局」について、汽船の運航状況、船団の構成、他社との競争、財政問題を検討し、その実態を明らかにした。同時に海運業の発展のための環境の整備についても概観した。第2節においては、特別局の民営化問題を取り上げ、海運政策をめぐる海軍省と商業・公共事業省との対立の構図を探った。第3節では、特別局とオスマン海運に対する世論の動向を当時の新聞報道によって把握した。第2章全体を通して、政府、海軍、民間それぞれの立場における海運論が特別局にどのように投影されたのか、また、実際の活動においてなぜ経営に行き詰まっていったのかについての検証を行った。第3章は、オスマン帝国における海軍と海運との関わりに焦点を絞り、第1節、第2節でアブデュルハミト2世時代のオスマン海軍の実態とその問題点を明らかにし、それらをふまえた上で、第3節において海軍と特別局との関係、海軍にとって商業海運の経営はどのような意味を持っていたのかを考察した。第4章では、第2次メシュルーティエト期の海運界の動向を追いながら、アブデュルハミト2世の専制政治の終焉、「青年トルコ人」政府の政策、オスマン帝国崩壊前夜の内外の環境が海運界に、また官営海運と海軍との関係にどのような影響を及ぼしたのかを、最後の民営化計画とその挫折を通して論証した。

 以上、特別局に代表されるオスマン帝国の官営海運に関する諸問題を検討した結果、海運の自立をめざす上での軍部を中心とするムスリム・トルコ系エリートと非ムスリム(特にアルメニア)系の経済官僚、資本家との対立、「軍・民」、「軍・産」が未分化であるというオスマン国家の性格、経済的植民地化の中で現れた「オスマン国民意識」のトルコ・ナショナリズムへの変容といった事象が浮かび上がった。これらは、オスマン帝国末期の国家と社会の性格、トルコ共和国との連続性を考える手がかりとなるはずである。

審査要旨

 論文「近代オスマン海運史研究」は、19-20世紀におけるオスマン海運の形成過程の分析を通じて、帝国が資本主義的世界経済へ従属することに伴う政治・経済・社会問題を実証的に明らかにすることを主要な課題としている。筆者は、トルコ共和国海軍博物館付属歴史文書館、同総理府オスマン朝文書館を中心に関係史料の徹底した調査を行い、そこで発見・収集したトルコ語文書を解読することによって、オスマン海運の実体とその変容を解明したのは世界でも初めてのことである。

 オスマン帝国における近代海運業の育成は、海軍が商業汽船を直接経営するという特異な形態をとって行われた。論文では、海軍省のもとで運営された官営の海運企業「特別局」を中心に考察が行われ、汽船の運行状況、船団の構成、他社との競争、財政問題、海軍省との関係、民営化問題などが一次史料にもとづいて綿密に分析されている。この分析の結果、市場原理に疎い軍人たちの経営への介入は海運事業の発展を阻害する一方、海軍との強固な結びつきによってオスマン海運が外国資本の支配下に入ることを免れさせたという重要な結論を導き出した。

 欧米の研究者によって唱えられた従属理論の再検討、「軍・産」未分化の意味の明確化などさらに研究を深める余地は残されている。しかし膨大な文書史料の検索にもとづくオスマン海運の実態解明は中東近代史に新しい一頁を開くものであり、博士(文学)論文として十分な評価に値する。

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