本研究の目的は、近代オスマン海運の形成過程を分析することにより、オスマン帝国の資本主義的世界経済への従属的包摂に伴ういくつかの問題点を明らかにすることにある。 オスマン帝国における近代海運業の育成は、商業汽船を海軍が直接経営するという特異な形態をとって行われた。小論で取り上げた「特別局(Idare-i Mahsusa)」とは、19世紀中葉から20世紀初頭にかけて海軍の監督の下に運営された官有官営の海運企業の代表的な呼称である。この企業は、首都イスタンブル市内(ポスフォラス海峡と金角湾を除く)および周辺海域航路の独占権と、帝国内のすべての港への汽船運航権をスルタンから与えられた、いわばオスマン帝国のナショナル・フラッグであった。にもかかわらず、その実態はこれまであまり知られていなかった。そこで本研究では、既存研究ではほとんど用いらていない海軍側の史料によって、この組織の全体像を解明しようと試みた。 まず第1章では、オスマン帝国における汽船海運の草創期を取り上げ、官有海運誕生の歴史的背景と初期の活動、その中での海軍の役割、および経営形態をめぐる様々な試行錯誤の末一つの組織に統合されていく経緯を述べた。第2章第1節では、スルタン・アブデュルハミト2世時代の官有海運「特別局」について、汽船の運航状況、船団の構成、他社との競争、財政問題を検討し、その実態を明らかにした。同時に海運業の発展のための環境の整備についても概観した。第2節においては、特別局の民営化問題を取り上げ、海運政策をめぐる海軍省と商業・公共事業省との対立の構図を探った。第3節では、特別局とオスマン海運に対する世論の動向を当時の新聞報道によって把握した。第2章全体を通して、政府、海軍、民間それぞれの立場における海運論が特別局にどのように投影されたのか、また、実際の活動においてなぜ経営に行き詰まっていったのかについての検証を行った。第3章は、オスマン帝国における海軍と海運との関わりに焦点を絞り、第1節、第2節でアブデュルハミト2世時代のオスマン海軍の実態とその問題点を明らかにし、それらをふまえた上で、第3節において海軍と特別局との関係、海軍にとって商業海運の経営はどのような意味を持っていたのかを考察した。第4章では、第2次メシュルーティエト期の海運界の動向を追いながら、アブデュルハミト2世の専制政治の終焉、「青年トルコ人」政府の政策、オスマン帝国崩壊前夜の内外の環境が海運界に、また官営海運と海軍との関係にどのような影響を及ぼしたのかを、最後の民営化計画とその挫折を通して論証した。 以上、特別局に代表されるオスマン帝国の官営海運に関する諸問題を検討した結果、海運の自立をめざす上での軍部を中心とするムスリム・トルコ系エリートと非ムスリム(特にアルメニア)系の経済官僚、資本家との対立、「軍・民」、「軍・産」が未分化であるというオスマン国家の性格、経済的植民地化の中で現れた「オスマン国民意識」のトルコ・ナショナリズムへの変容といった事象が浮かび上がった。これらは、オスマン帝国末期の国家と社会の性格、トルコ共和国との連続性を考える手がかりとなるはずである。 |