内容要旨 | | ベールイは自分の象徴主義論のなかで、当時代の近代社会を、文化の危機に落ちていると認識した。この近代的な文化の危機を克服するための新しい芸術論として、かれは象徴主義論を提唱している。その芸術的実践としてベールイの最大の傑作『ペテルブルグ』を、我々は、そのモダニズムを越える要素を掘り出して示すことを目標に、ラカンの精神分析学を援用した読みを試みる。 ベールイは、当時の社会主義のイデオロギーはエロチシズム的なことがらに陥り、テロリズムは偽りの十字架の道を宣伝するが、それは、サディズム、マゾヒズムの本質をもっているにすぎないと言っている。このことは、『ペテルブルグ』のもつ、革命、テロリズムという題材を読むことに当たって新しい見方を要求している。このような性的要素は、ラカンの精神分析学の立場から分析されうるであろう。 我々は、ラカンの無意識の形成の機材である隠喩の概念が、物語のテキスト的次元のおいて、そのテキストの言説の明示的次元と無意識的次元を作りだし、それらを結合させているという点を重んじて『ペテルブルグ』の読みを試みた。 アポローンの「第二空間」においては、無意識的次元では、家出した妻アンナに対する抑圧と、アポローンの欲望の「他者」的性格と主体の満たされない欲望が読みとれる。それに彼のファルスに対する欲望が現れる。ニコライの場合からは、精神分析学で言う父の禁止に対する復讐と、去勢に対する恐怖が読みとれる。 エディプス的主人公は、すべて「他者」の欲望にとらわれている。彼らの欲望が作り出すのが、この物語であり、その言説は隠喩的体系が作り出すテキストの明示的次元と無意識的次元の差を明瞭に示してくれる。無意識的次元での言説は、主体のファルスでありたいというプリマルな(primal)欲望を現している。それをめぐる去勢コンプレックスは、小説の出来事の動因である。その欲望は、記表となってこの物語をになっている。そのような例を我々は、手紙と爆弾に関する多くの譬喩から見ることが出来る。 そしてこの小説のなかには、いくつかの反復される場面がある、その反復を拡張的反復と機能的反復に分けることが出来る。拡張的反復を成す代表的なものは、出会いと対話である。この反復と差異をとおしてプロットの展開が行われている。機能的反復もこの作品の解釈に主要な鍵となる。この夢と幻覚のなかでの彼らの行動は、彼らの運命の差を象徴する。 要するに『ペテルブルグ』は、ラカンの言う主体のドラマチクな物語の世界を見せてくれる。ベールイが作り出した人物たちは、近代的自我と言われてきた「cogito」の自我ではなく、象徴界で生を営まねばならないポストモダン的主体であることを現しているのである。この小説においてそのような象徴界は、都市ペテルブルグにたとえられていると言える。そのなかで父の形象として、制度、法、革命などの言説の下にある「他者」の欲望を見せる。このことでベールイの『ペテルブルグ』はポストモダンに眼を向けていると言えよう。 |
審査要旨 | | 論文はロシア後期象徴派の中心的作家アンドレイ・ベールイの最高傑作とされる長篇小説『ペテルブルグ』(シーリン版)の主要な登場人物である二人のテロリストの行動の「無意識的」意味を,ラカン等の精神分析学を援用しつつテクストに即して解明しようとする試みである。 全5章からなる論文の第1章で,論者はまず小説の草稿にあった当時のロシアの社会主義運動の性的倒錯症的性格についての作者の言及に注目し,先行研究では作者の伝記的事実に還元されていた登場人物の異常な振る舞いのもつ象徴的意味を精神分析学的観点から見直すことの必要性を強調する。主として色彩語,比喩,イメージ,単語の音韻等の分析を通じて,実際的対象を指向しない倒錯した性的感情を抱く地下活動家とその指導者の精神的父子関係を論じた第2章,母親の不倫・家出をきっかけとして緊張関係に陥る大学生と元老院議員の父子関係を論じた第3章,大学生の恋人の女性の抑圧された欲望の分析を通じて去勢コンプレックスの象徴としての爆弾の意味を論じた第4章,二人のテロリストの2度の出会い,3種類の幻想的空間がそれぞれもつ構成上の反復としての意味を論じた第5章は,先行研究には欠けていた新しい光をテクストの読みに投じている。 審査では,若干の用語の生硬さ,いくつかの分析についての再考の必要性が指摘されたが,全体として論旨は説得的で,近年文献が飛躍的に増大した『ペテルブルグ』研究の水準に照らしても十分に博士論文の資格を備えたものと判断できる。 |