序論/この論文は、ユーリイ・オレーシャ(1899-1960)の作品にみられる自己イメージの形成過程を記述することを目的にしている。作品の中で常に自分のことを「告白」しようとしたオレーシャは、自分自身を「弱い」ものとみなした。自分について語るオレーシャの作品や、彼の行動には、ナルシシズム的傾向をみることができる。 第1章「身体からの疎外」/オレーシャの作品の主人公たちがもつ疎外感は、自分以外の誰かが世界の事物を不当に「所有」しているのだという感覚である。こうした疎外感は、自分の身体にも及ぶ。オレーシャはその作品の中で、鏡によって自らの身体からの疎外感を表現している。『三人のふとっちょ』では、主人公たちが次々と変身し、自己の身体から疎外される。こうした疎外の原因は、「父」に帰せられる。 第2章「想像された他者」/オレーシャ『羨望』とドストエフスキイ『地下室の手記』では、アイデンティティを規定されることを恐れる主人公たちが、自己あるいは他者の像を、先行する文学作品を下敷きに形成していく。『羨望』では他者の像を規定が比喩を用いてなされるが、この行為は他者への支配欲の表れと解釈できる。『羨望』では他者の像を作り出すことで、かえって主人公の迫害恐怖が強まることになる。こうした被造物の反逆に対する恐怖感は、オレーシャの作品の基礎に存在している。 第3章「唯我論の夢想」/オレーシャ『リオムパ』では、事物と接触する際に異なる様式を用いる人物が三人、対比的に提示される。しかし、この三者は「迫害される者」という共通性をもっている。この小説で中心的に描かれるのは唯我論とその挫折であるが、この主題には迫害恐怖を読み取ることができる。唯我論的感覚はまた、オレーシャの作品の中では、幼年時代と関係している。こうした関心の持ち方は、ナボコフと共通するものだが、ナボコフが同一化しうる社会的理想像を確立し、作品の中で強さを示す一方で、オレーシャはそのような理想像の形成に失敗し、迫害恐怖を表現することになる。 第4章「「こども」と「父」」/ユートピア社会への関心は、故郷を求める「こども」の気持ちとして解釈することができる。『さくらんぼの種』が描く芸術と社会の対立は、「こども」と「おとな」の対立として解釈できる。この小説の主人公フェージャは、「こどもじみた」行為を行うことで、父権からの逃走をはかるが、それに失敗する。彼は父権に憧れているからだ。しかし、同時に彼は「父」を恐れている。この小説には去勢恐怖を読み取ることもできる。オレーシャは常に自分を迫害される「こども」として提示するが、そこには「こども」のイメージに対するオレーシャの囚われをみることができる。 第5章「風による変容」/『恋』は、主人公の自己イメージが変容する過程を、大気的想像力によって描いている。主人公に応答して幸福感をもたらす他者の姿には、主人公のもつ異なる性格が投影されている。主人公の他者との関係を通じて、彼の自己イメージが男性的なものから女性的なものへ変容するさまを読み取ることができる。 『預言者』も、『恋』と同様、大気的な夢想を描いている。しかし、主人公が受け取る自己の誇大化と顕示の欲求は、夢想の幻滅をもたらすことになる。 第6章「「彼ら」との同一化」/『さくらんぼの種』、『ザンドの死』、『厳格な若者』は、一つの構想の変形である。『ザンドの死』では、ロマン主義的な人物が共産主義者の中に不合理な精神を読み取り、彼と同一化しようとする。オレーシャは、この作品を執筆しながら、この二人の主人公に自己を同一化していく。その過程で、オレーシャは、若者と自己の同一化を始める。こうして完成した『厳格な若者』では、新しい世代と古い世代の、芸術と社会の和解が、同一化を基礎に成立している。 |