学位論文要旨



No 112164
著者(漢字) 岩本,和久
著者(英字)
著者(カナ) イワモト,カズヒサ
標題(和) 脆弱な「私」の肖像 : オレーシャの作品にみる自己愛と同一化
標題(洋)
報告番号 112164
報告番号 甲12164
学位授与日 1996.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第156号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 沼野,充義
 東京大学 教授 米重,文樹
 東京大学 教授 金沢,美知子
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 助教授 浦,雅春
内容要旨

 序論/この論文は、ユーリイ・オレーシャ(1899-1960)の作品にみられる自己イメージの形成過程を記述することを目的にしている。作品の中で常に自分のことを「告白」しようとしたオレーシャは、自分自身を「弱い」ものとみなした。自分について語るオレーシャの作品や、彼の行動には、ナルシシズム的傾向をみることができる。

 第1章「身体からの疎外」/オレーシャの作品の主人公たちがもつ疎外感は、自分以外の誰かが世界の事物を不当に「所有」しているのだという感覚である。こうした疎外感は、自分の身体にも及ぶ。オレーシャはその作品の中で、鏡によって自らの身体からの疎外感を表現している。『三人のふとっちょ』では、主人公たちが次々と変身し、自己の身体から疎外される。こうした疎外の原因は、「父」に帰せられる。

 第2章「想像された他者」/オレーシャ『羨望』とドストエフスキイ『地下室の手記』では、アイデンティティを規定されることを恐れる主人公たちが、自己あるいは他者の像を、先行する文学作品を下敷きに形成していく。『羨望』では他者の像を規定が比喩を用いてなされるが、この行為は他者への支配欲の表れと解釈できる。『羨望』では他者の像を作り出すことで、かえって主人公の迫害恐怖が強まることになる。こうした被造物の反逆に対する恐怖感は、オレーシャの作品の基礎に存在している。

 第3章「唯我論の夢想」/オレーシャ『リオムパ』では、事物と接触する際に異なる様式を用いる人物が三人、対比的に提示される。しかし、この三者は「迫害される者」という共通性をもっている。この小説で中心的に描かれるのは唯我論とその挫折であるが、この主題には迫害恐怖を読み取ることができる。唯我論的感覚はまた、オレーシャの作品の中では、幼年時代と関係している。こうした関心の持ち方は、ナボコフと共通するものだが、ナボコフが同一化しうる社会的理想像を確立し、作品の中で強さを示す一方で、オレーシャはそのような理想像の形成に失敗し、迫害恐怖を表現することになる。

 第4章「「こども」と「父」」/ユートピア社会への関心は、故郷を求める「こども」の気持ちとして解釈することができる。『さくらんぼの種』が描く芸術と社会の対立は、「こども」と「おとな」の対立として解釈できる。この小説の主人公フェージャは、「こどもじみた」行為を行うことで、父権からの逃走をはかるが、それに失敗する。彼は父権に憧れているからだ。しかし、同時に彼は「父」を恐れている。この小説には去勢恐怖を読み取ることもできる。オレーシャは常に自分を迫害される「こども」として提示するが、そこには「こども」のイメージに対するオレーシャの囚われをみることができる。

 第5章「風による変容」/『恋』は、主人公の自己イメージが変容する過程を、大気的想像力によって描いている。主人公に応答して幸福感をもたらす他者の姿には、主人公のもつ異なる性格が投影されている。主人公の他者との関係を通じて、彼の自己イメージが男性的なものから女性的なものへ変容するさまを読み取ることができる。

 『預言者』も、『恋』と同様、大気的な夢想を描いている。しかし、主人公が受け取る自己の誇大化と顕示の欲求は、夢想の幻滅をもたらすことになる。

 第6章「「彼ら」との同一化」/『さくらんぼの種』、『ザンドの死』、『厳格な若者』は、一つの構想の変形である。『ザンドの死』では、ロマン主義的な人物が共産主義者の中に不合理な精神を読み取り、彼と同一化しようとする。オレーシャは、この作品を執筆しながら、この二人の主人公に自己を同一化していく。その過程で、オレーシャは、若者と自己の同一化を始める。こうして完成した『厳格な若者』では、新しい世代と古い世代の、芸術と社会の和解が、同一化を基礎に成立している。

審査要旨

 本論文は20世紀前半にソ連で活躍した優れた作家ユーリイ・オレーシャの作品の全体を視野に入れながら、精神分析の知見を援用しつつ、彼の作品における自己イメージの形成過程について論じたものである。

 オレーシャの作品の登場人物には、しばしば世界の事物からの疎外感が見うけられるが、岩本論文はそれを、究極的には自分の身体から疎外された「私」の脆弱さに由来するものであるととらえ、その背景に「こども」と「父」の葛藤関係があることを指摘している。このような「脆弱な私」が唯我論的世界観の中に閉じ籠もることを許されず、他者や社会と向き合わざるを得なくなったとき、どのような危機を迎えることになるのかについて、岩本論文は考察を進めていく。そして、和解しがたい他者との関係の苦境からの出口を模索するオレーシャが最後に辿り着いた方法が、共産主義を信奉する若者という「他者」との自己同一化であり、これによってオレーシャは自分の芸術と社会の和解を目指した、と岩本論文は論証している。

 この岩本論文に対して、審査の過程では、(1)文学史・社会史的な文脈にもっと注意を払うことによって、論文の視野に広がりが出たのではないか、(2)自分の論旨に合わせるために、テクストの解読がやや粗雑になっている箇所がある、(3)論文で扱われている「私」の規定が曖昧である、といった批判も出た。しかし、先行研究の少ない重要な作家についての、総合的かつ緻密な研究であり、しかも精神分析などの斬新なアプローチによって作家像を鮮やかに描き出したという意味で画期的とも言える長所を持っており、博士号に十分に値する水準に達していると判断できる。

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