学位論文要旨



No 112168
著者(漢字) 望月,学
著者(英字)
著者(カナ) モチヅキ,マナブ
標題(和) 乳牛における蹄疾患発症物質としてのエンドトキシンに関する研究
標題(洋)
報告番号 112168
報告番号 甲12168
学位授与日 1996.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1721号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 澤崎,徹
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 助教授 西村,亮平
内容要旨

 近年、濃厚飼料の多給や多頭飼育など飼養管理の集約化の普及にともなって、乳牛の運動器疾患が全世界的に増加傾向にあり、新しい生産病として注目されるようになっている。牛の運動器病の多くは蹄疾患が原因といわれており、なかでも蹄葉炎は蹄の角質合成部位である蹄皮を侵し、異常な角質産生から他のさまざまな蹄疾患へ発展する原因疾患として最も重要視されている。また、従来の急性および慢性蹄葉炎に対し、臨床的な跛行を示さない潜在性蹄葉炎が広く乳牛に存在することが近年見いだされ、蹄病増加の一要因として大きく寄与しているものと考えられている。我が国においても乳牛の運動器疾患は死廃事故原因の第2位となるまでに増加しており、その経済的損失の大きさから早急な対策の必要性が叫ばれている。しかし日本における潜在性蹄葉炎を含む蹄疾患に関する詳細な調査・研究はほとんど行われておらず、その発生状況等は明らかになっていない。

 蹄葉炎の病態の本質は真皮層における循環障害を起点とした虚血病変であると推測されているが、循環障害の詳細な発生機序はいまだに判っていない。疫学的調査から全身性疾患、年令、産次、泌乳ステージ、肢勢、遺伝、栄養、牛舎構造、運動量、行動、環境などさまざまな発生要因の関与が挙げられており、いくつもの因子が複雑に絡み合って発症する多因子性の疾患であると考えられている。これらの因子のなかでも、盗食や分娩後などの濃厚飼料多給時に急性蹄葉炎が発生するという事実はよく知られており、栄養学的因子、特に炭水化物の大量摂取と蹄葉炎との関係が古くから注目されてきた。すなわち、濃厚飼料の多給によって第一胃内では乳酸発酵が優勢となり、ルーメンアシドーシスが惹起される。このとき第一胃内で生成される物質が蹄真皮の血管に作用し循環障害を引き起こすものと考えられ、乳酸やヒスタミンが候補としてあげられたが、いずれも蹄葉炎の原因物質として確定されるには至っていない。現在これらの物質の中で直接的あるいは種々のサイトカイン類を介して間接的に血管にさまざまな反応を引き起こすエンドトキシン(以下ET)が最も注目されている。馬においては、実験的な炭水化物の大量投与時に急性蹄葉炎が惹起されるとともに全身的なET血症が起きていることが報告されており、また牛においても実験的に作出された濃厚飼料多給時に第一胃内のET量が増加することが示されている。人やラットなどの実験動物では、消化管内の細菌もしくはETが消化管粘膜を貫通し循環血中に入るbacterial translocationとよばれる現象が証明されており、ショック時の多臓器不全などの原因となりうると考えられている。しかし複胃という独特の消化器官をもつ反芻獣におけるbacterial translocationに関する詳細な研究はいまだ見当たらない。

 以上の観点から、本研究では乳牛における蹄疾患の発生機序を明らかにすることを目的とし、我が国における乳牛の蹄葉炎の発生状況および蹄葉炎の原因物質としてのETの可能性について検討した。

実験1

 我が国の乳牛における蹄疾患の発生状況およびその発生要因を探ることを目的として、以下の二つの実験を行った。

 まず東京近郊の屠場においてホルスタイン種乳牛の45頭239蹄を無作為に採取し、蹄底の真皮層および表皮層の病理組織学的検索を行った。その結果、程度の差はあるものの真皮層では循環障害を主体とした病変が、表皮層では変性や角化の異常が広く認められた。これらの所見を角化の程度によりGrade1から5までの5段階に分類した。正常と判定されたGrade1はわずか11.9%しか存在せず、Grade3(23.9%)および4(5.4%)の病変は従来報告されている慢性蹄葉炎の組織像によく一致していた。これらの前段階に当たるGrade2は潜在性蹄葉を示す所見と考えられ、実に53.6%と半数以上の蹄を占めていた。また蹄底潰瘍を伴うGrade5も5.4%存在した。これらGrade1から5の所見は、潜在性蹄葉炎が他の蹄病へ進行する一連の病変の表れと推察され、日本の乳牛においてもかなり高率に潜在性蹄葉炎が存在することが示された。

 次いで蹄底潰瘍と診断され淘汰された乳牛8頭の蹄について、前実験と同様の病理組織学的検索を行いその結果を比較した。その結果、蹄底潰瘍を罹患した乳牛においては蹄底潰瘍の位置に関わらず全ての蹄で、正常な乳牛よりも高度な組織レベルでの病変が起きていた。後肢外側蹄における病変は他の蹄に比べて明らかに高度であったが、それ以外の蹄ではほぼ同じレベルであった。したがって、蹄底潰瘍のような高度の蹄疾患をもつ乳牛では、全ての蹄を均等に障害するような全身的な要因が存在しており、その存在下で後肢外側蹄のみ病変を進行させる別の局所的な要因が存在するものと考えられた。

実験2

 乳牛は高価でかつその飼育も容易でないため、取扱いの容易なヤギを用いてET投与による蹄葉炎の発症実験を行った。対照として比較するために左後肢外側蹄を外科的に切断した後、10、50、100g/kgのETを各3頭ずつのヤギに静脈内投与し、3日間の観察後に安楽死し蹄の組織を観察した。全てのヤギは体温上昇、下痢、震え、沈欝などの典型的な症状を示し、50g/kg群中の2頭および100g/kg群中の1頭は実験途中で斃死した。臨床的な蹄葉炎症状は観察されなかったが、組織学的には3群とも対照とした左後肢外側蹄では認められなかった出血、血栓および基底細胞の空胞変性が出現しており、蹄葉炎と同様の循環障害の存在が示唆された。

実験3

 ヤギにおいて実験的な炭水化物の過食状態を作成し、消化管内ETの吸収について検討した。あらかじめ第一胃にフィステルを、第一胃静脈および小腸静脈にカテーテルを装着したヤギ5頭(#1〜#5)に対し、正常摂食時の7日間および馬鈴薯デンプン22.5g/kg投与6日後まで24時間毎に第一胃液pHおよびET濃度、第一胃静脈血、小腸静脈血および頚静脈血中のET濃度を測定した。正常摂食時では第一胃液pHはほとんど変動せず、第一胃液中ET濃度もごく低いレベルで一定していた。5頭中の3頭では各血液中にETは検出されなかった。ヤギ#2の小腸静脈血およびヤギ#3の各血液中で各々1〜3回低いレベルのETが検出された。一方過食時では第一胃液pHは術後1〜2日目に急激に低下し、それに伴って第一胃液ET濃度は大きく上昇したが、そのピーク値は個体によって大きな幅があった。正常時と同じくヤギ#1、#4、#5の3頭では各血液中にETは検出されなかった。頚静脈血ではヤギ#2に、また小腸静脈血ではヤギ#3で正常摂食時とほぼ同じレベルのエンドトキシンが検出され、またヤギ#2および#3の第一胃静脈血ではきわめて高濃度のETが検出された。しかしながらこの2頭における各血液中のET濃度の変動パターンには、第一胃液中ET濃度との相関性は見いだせなかった。

 以上の結果から、ヤギにおいては炭水化物多給時に第一胃液内のET濃度が上昇し、消化管中のETが主に第一胃静脈から吸収され全身循環に入る可能性が示唆された。しかし過食時のみならず正常時にも吸収は起きていることが示され、その吸収の程度は第一胃液中ET濃度によって一意的に決まるものではなく、むしろ個体差によるところが大きいことが推測された。

実験4

 潜在性蹄葉炎や他の蹄疾患は分娩後3〜4か月後に多発することが知られており、分娩に伴う生理的な変化および分娩前後の飼養形態の変化がこれら蹄病の発生要因として考えられている。そこで分娩後の飼養形態が異なる2つの牛群、すなわち泌乳量に応じて濃厚飼料給与量を調節するA群と完全飼料を自由に摂取させるB群各5頭の乳牛について、分娩後2週間の第一胃液中および血中ET濃度の変動を検討した。分娩後40日間の平均乳量はB群の方が有意に高く、自由採食のため正確な量は不明だが、B群の牛ではA群より多量の濃厚飼料を摂取していたものと思われた。分娩後の濃厚飼料給与量の増加とともに第一胃内pHは両群で低下したが、B群の方がより低い傾向があった。またA群のなかでも高泌乳量のため多量の濃厚飼料を与えられていた個体(A-3)ではpHの低下は大きかった。第一胃液中ET濃度は分娩後の両群で間欠的な上昇を示した。A群では1頭(A-3)が高いピークを示したほかは全て低いレベルで推移したが、B群ではA群に比べて高値を示す個体が多かった。一方A群における頚静脈血中ET濃度は、5頭中2頭で分娩後にまた1頭では分娩前に各々1度だけピークを示した。B群でも同様に頚静脈血中ET濃度の間欠的な上昇が認められ、そのレベルはA群とほぼ同等であったが、ピークが出現する頻度はA群よりもきわめて高かった。両群とも第一胃液と頚静脈血中のET濃度の変動の間には明らかな関連性は認められなかった。以上の結果から、実際の搾乳牛においても、高泌乳量を追及するための濃厚飼料の多給によって分娩後に第一胃液pHが低下し、第一胃内ET濃度が上昇していることが示された。またこのとき全身血中にもETが増加していること、およびその頻度は飼料の量と関連があることが示唆されたが、第一胃液中と全身血中のET濃度の変動はかならずしも一致せず、内因性ETの移行経路や代謝についてさらなる研究が必要と思われた。

 以上の実験の結果を総合すると、1)我が国においても大部分の乳牛の蹄に潜在性蹄葉炎が存在する。2)反芻獣においてET投与によって蹄葉炎と同様の組織病変を惹起することが可能である。3)実験的にも実際の搾乳牛においても、濃厚飼料の多給後の第一胃液pH低下によって第一胃内のET濃度が増加する。4)移行経路は不明だが、消化管内のETが全身循環に入り蹄葉炎の発生に関与している可能性があることが示された。

審査要旨

 近年、日本を含め全世界的に乳牛の蹄病が増加傾向にあるが、蹄底潰瘍や蹄球びらんなどさまざまな蹄病の要因として臨床的な跛行を示さない潜在性蹄葉炎の存在が示唆されている。蹄葉炎は蹄真皮層における循環障害に伴う虚血病変であると推測されているが、その発生機序には、盗食や分娩後の濃厚飼料多給時に急性蹄葉炎が発生するという事実から、栄養学的因子、特に炭水化物の大量摂取によるルーメンアシドーシスが強く関連すると考えられている。馬では実験的な炭水化物の大量投与時に急性蹄葉炎が惹起されるが、その病態に全身的なエンドトキシン(ET)血症が関与することが報告されている。また牛においても実験的な濃厚飼料多給によって生じたルーメンアシドーシスを呈する第一胃内にET量の増加することが示されているが、その蹄病への関連や、ETの血中への吸収経路などはほとんど明らかにされておらず、さらに日本における潜在性蹄葉炎の調査はほとんど行われていない現状にある。本研究ではまず我が国における乳牛の蹄葉炎の発生状況を調査し、さらに蹄葉炎の原因物質としてのETの可能性について検討した。

 第一に東京近郊の屠場においてホルスタイン種乳牛の45頭239蹄を無作為に採取し、蹄底の真皮層および表皮層の病理組織学的検索を行った。その結果、真皮層では循環障害を主体とした病変が、表皮層では変性や角化の異常が広く認められた。正常と判定された蹄はわずか11.9%であり、慢性蹄葉炎の組織像を呈するものが29.3%に見られた。また、これらの前段階である潜在性蹄葉炎が、実に53.6%と半数以上を占めており、日本においてもきわめて高率に潜在性蹄葉炎が存在することが示された。

 次いで蹄底潰瘍と診断され淘汰された乳牛8頭の蹄について、同様の病理組織学的検索を行った。その結果これらの乳牛では、蹄底潰瘍のない蹄であっても、高度の組織学的異常を示したことから、蹄底潰瘍には全ての蹄を障害する全身的な要因が存在し、別の局所的な要因が蹄病の直接的な発生要因として関わっているものと推測された。

 第二に、実験モデルとしてヤギを用い、ETと蹄葉炎の関係を検討した。左後肢外蹄(対照群)の外科的切除後、10、50、100g/kgのETを各3頭のヤギに静脈内投与し、3日間の観察後に安楽死し蹄の組織を観察した。その結果、3群とも対照とした左後肢外側蹄では認められなかった出血、血栓および基底細胞の空胞変性が出現しており、蹄葉炎と同様の循環障害がETにより誘起される可能性が示唆された。

 次に、ヤギに実験的な炭水化物の過食によるルーメンアシドーシスを誘起し、消化管内ETの変動および吸収について検討した。すなわちヤギ5頭に対し、馬鈴薯デンプン22.5g/kgを投与し、その後6日間、連日第一胃液pHおよびET濃度、第一胃静脈血、小腸静脈血および頚静脈血中のET濃度を測定した。第一胃液pHは投与1〜2日目に急激に低下し、それに伴って第一胃液ET濃度は大きく上昇したが、そのピーク値は個体によって大きな幅があった。過食時の血中にETが検出された個体は2列であり、頚静脈血と小腸静脈血では低レベルであったが、第一胃静脈血ではきわめて高濃度であった。しかし過食時のみならず正常時にも血中ETの検出される例が存在したことや第一胃液ETと血中ET値がかならずしも相関した変動を示さないことから、ETの吸収量は第一胃液中ET濃度よりもむしろ何らかの個体差によるところが大きいことが推測された。

 以上の結果をもとに、飼養形態が異なる2つの牛群を対象とし、分娩後の第一胃液および頚静脈血中のET値の変化を2週間追跡した。A群(5頭)は泌乳量に応じて濃厚飼料給与量を調節して投与し、B群(5頭)では完全飼料を自由に摂取させていたが、分娩後40日間の平均乳量はB群の方が有意に高く、B群の牛がA群より多量の濃厚飼料を摂取していたものと思われた。

 分娩後の濃厚飼料給与量の増加とともに両群め第一胃液pHは生理的範囲内で低下したが、B群の方がより低い傾向にあった。第一胃液中ET濃度は分娩後の両群で間欠的な上昇を示したが、A群では1頭を除き低いレベルで推移し、B群ではA群に比べて高値を示す個体が多かった。一方頚静脈血中濃度は、各群ともに間欠的な上昇を示したが、その出現頻度はB群の方がA群よりもきわめて高かった。しかし、両群ともに第一胃液と頚静脈血中のET濃度の変動には明らかな関連性は認められなかった。以上の結果は、実際の搾乳牛においても、濃厚飼料を多給する分娩後に第一胃内ET濃度が上昇することを示唆しており、このことと蹄葉炎発生の関連の追及は意義あることと思われた。

 以上要するに、本論文は各種蹄病の主要因と考えられる潜在性蹄葉炎が日本においても高率に存在することを初めて明らかにし、さらにその発生には第一胃で産成されるエンドトキシンが大きな役割を果たしていることを示唆したものであり、今後この分野の研究に対し多大な貢献をするものと考えられる。よって審査員一同は博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54543