学位論文要旨



No 112171
著者(漢字) 宇野,重規
著者(英字)
著者(カナ) ウノ,シゲキ
標題(和) デモクラシーにおける「政治」の基盤と前提 : アレクシ・ド・トクヴィルの追究
標題(洋)
報告番号 112171
報告番号 甲12171
学位授与日 1996.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第134号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,毅
 東京大学 教授 平石,直昭
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 五十嵐,武士
 東京大学 教授 北村,一郎
内容要旨

 本稿は、アレクシ・ド・トクヴィルの諸著作や書簡を分析することを通じて、彼の「政治」概念を析出し、逆にこの「政治」の概念を中心として、彼の思想を再構成することをその主たる課題とする。その目的は、西洋政治思想史における「政治」の概念の理解のための一つの視座を提示し、その今日的意義を探ると同時に、あくまで具体的事例研究に徹したトクヴィルの思想的営為を総合的な視点から再検討することにある。

 トクヴィルは政治を単に権力や支配、あるいは単なる妥協や利益配分と同一視しなかった。彼の「政治」概念は、人間論・認識論・歴史哲学・倫理の問題から、制度論・習俗論・宗教論・社会分析に至るまで広い範囲を含むものである。本稿ではこれを「視座としての政治」と「システムとしての政治」の二つにに大別し、両者は同一の論理によって貫かれているものの、あくまで別個独立の存在であるとみなしている。

 第一章は「視座としての政治」を対象とし、「政治」を支える思考法や感情を検討する。その前提となるのが、トクヴィルが「デモクラシー」という名で呼んだ近代における人間的・社会的条件である。彼の「デモクラシー」とは、単に政体の分析ではなく、人々を平等化・原子化そして同質化していくプロセスのことである。このプロセスの結果、伝統的な社会関係が緩み個人と個人の紐帯が稀薄化していくとともに、個人の主観性にあらゆる認識が基礎づけられる結果、いかなる超越的・伝統的権威も自明の権威を失っていく。民主的時代に残る唯一の権威は多数の意見であり、この多数の権威への従属へと人々は導かれる(第一節)。このような趨勢に対し、トクヴィルが「政治」を支える人間精神の働きとして示したのが、判断と批判である。世俗の領域、あるいは人間の領域には、唯一絶対の解答や真理は存在しない。しかしすべて偶然で、まったく一般性に欠けているのでもない。この領域においてある程度の一般性があり、複数の人間によって合意が可能な公共的判断が生み出されなければならない。しかも、判断は特定の人間によってではなく、すべての平等な市民によってなされなければならない。これは純粋な理論と区別される、実践の知の領域であり、この知がすべての人々によって日々行使されることにこそ、「政治」の一つの核心があった(第二節)。また批判の視点も同様に理解することができる。批判とは絶対的な基準を振りかざして、個々の事例をなで切りにすることでもなければ、現状をあるがままに、ただ受け入れることでもない。つねに様々な社会を制度・習俗・社会状態といった角度から比較分析すると同時に、それを「政治」と「自由」という視点から解釈・評価していくことこそが、彼の方法論であった(第三節)。彼は「政治」を支えるのに、これらの思考だけでは十分ではないと考えた。彼が必要だと考えたのは、「デモクラシー」の社会において時間的にも空間的にも孤立し、狭い自己の内に閉じ込められがちな個人をそこから解放し、その視野を拡大させ、さらに他者との共同の基礎となる「真の確固とした情熱」であった。彼がその一例として構想したのが「反省的愛国心」である。それは、一方で個別の共同体における構成員のコミットメントを生み出しながら、他方であくまで普遍的な自由への愛と人間の権利への敬意に立脚する。この情熱により人々を政治的な公共圏へと導くことこそ、彼のねらいであった(第四節)。

 第二章は「システムとしての政治」を対象とし、「政治」を構成する社会的基盤及び、これと逆に「政治」を破壊する危険を検討する。「政治」は第一章で検討した人間の思考や感情によってのみ可能となるのではない。それとは独立して、一定の社会的基盤を必要とする。トクヴィルの考えでは、多元的な集団が、政治的自由の実践を通して互いの差異を保持しながら、かつ共同する場を持つことこそが、「政治」を支えるのであった。彼にとって差異性と共同性とは矛盾するものではなかったのである(第一節)。このような基盤に立脚することによってはじめて政治的公共圏は、その機能を十分に発揮する。トクヴィルは、これら差異ある存在をまとめあげ意味づけるものとしての「政治の集中」と、すべてを中央集権化された国家権力が統制する「行政の集中」を区別した。ところが、「行政の集中」なしに「政治の集中」を実現したイギリスとは違い、フランスでは「行政の集中」の力が強かった。その結果、「政治」の実践から切り離された形で「想像上のデモクラシー」が独り歩きすることになってしまった(第二節)。諸主体が、支配-服従という縦の関係においてではなく、相互に平等な関係において共同する空間を形成し、その空間において共通の諸問題を非暴力的に、議論によって処理することによって成り立つのが、「政治」的な秩序であるとすれば、このような「行政の集中」は個人と個人、集団と集団との横の関係を破壊し、すべての個人を国家に依存させる。しかも「デモクラシー」の時代においては、多数の意見やその背後にある「社会」こそが全能の権威を持つのであり、近代的な権力はこのような「社会」「人民」「人類」といったものを抑圧するのではなく、むしろそれを代表する形で自らを強大化させていく。トクヴィルはこのような「民主的専制」を近代に特有のものであると考え、この専制への危険からいかにして政治的公共圏を維持するかに腐心した(第三節)。また彼が生きた時代は、社会学や社会主義の生まれた時代でもあった。二月革命の思想的性格を「社会主義」と名づけた彼は、「社会」学とも異なった志向を持っていた。彼が目指したのは、「政治」を排除してすべてを「社会」の自律に委ねることでも、「社会」の必要を実現するものとして国家の機能と役割を強化することでもなかった。彼は国家、政治社会、市民社会の三つを区別し、市民社会における平等な諸個人の結びつきを前提に政治社会を強化し、この政治社会によって政治的コミュニケーションの回路を増幅させることで、国家への中央集権に対抗していこうとした(第四節)。

 しかしこのような構想をトクヴィルはどのように実現していこうとしたのか。彼は自らの構想を実現するうえで、ルソーのように「立法者」を要請することはしなかった。また彼は個人の徳や公共への献身を前提とはせず、またそれを直接涵養することを目指さなかった。それはおよそ彼の「政治」観に相反するものであったからである。そこからトクヴィルの長い模索の過程が始まる。第三章では、彼の取り上げた諸方策を一つひとつ再検討する。「デモクラシー」の時代においては、もはや個人に公共への献身を精神主義的に説いても意味がないと考えた彼が着目したのが、「正しく理解された自己利益」の概念である。利益は人の欲望を駆り立てるものであるが、しかしながら合理的な自己反省へも人を導く。利益のこの性格に注目したトクヴィルは、あくまで利益への人々の関心を利用して、これをより合理的かつ公共性に適った方向へと導こうとした(第一節)。彼は「デモクラシー」の時代において自由が維持される一つの鍵として、法曹家の役割にも期待を寄せる。法曹家が民主的時代には欠けた形式や秩序の尊重などの資質を持ち、この資質を人民の力と結びつけるからである。司法の政治的役割を強化するとともに、法を人々の身近なものとすることで、法曹家精神と自由への成熟した思慮を広く人々の間に普及させようとしたのである(第二節)。トクヴィルの政治的思考の最大の特質は、つねに個別具体的な事象への考察に専念しながらも、そこからある種の一般性を作りだそうとしたことである。彼の習俗への着目も同様である。習俗なしに政治は論じられないということが彼の信念であったが、さりとてただ各共同体に特殊な習俗を是認するわけにもいかなかった。そこで彼が選んだ立場は、習俗を自由という見地からのふるいにかけつつ、しかしあくまで個別の習俗を徹底的に観察・分析することによってのみ、「政治」を構築していくことであった(第三節)。伝統的な紐帯を失った個人と個人の間に、平等を前提にした新しい関係を生み出すことを重要な課題としたトクヴィルが最も重視したのが自治である。特に彼はコミューン・レベルでの自治、結社及び連邦制などを組み合わせることで、近代の諸条件の下に複数の政治的空間を実現し、それによって国家を相対化していこうとした(第四節)。

 トクヴィルの宗教観を論じる第四章は、以上の議論とはやや性格を異にするが、彼のすべての理論的営為の質を示唆する。トクヴィルはつねに絶対的なものの存在を信じ、超越性への緊張を維持し続けたという意味で、きわめて理念的な思想家であった。しかしながら、彼は信仰と世俗との間に明確な一線を引き、現世においては絶対的な「真理」の支配を認めなかった。むしろ絶対的な「真理」の不在を前提に、あくまで世俗の素材と論理とに徹し、実践的論議に沈潜したのである。つねに超越性との緊張をはらんだ彼の思考は、多様な社会状態・制度・習俗を比較分析するとき、けっして特定の共同体に閉じ込められることがなく、あくまで「人間の視点」に立ち続けた。その意味で超越性との緊張を保ち、しかしこの超越性を世俗の議論において直接持ちださないということが、彼の議論の原動力であり、かつそれによって単なる相対主義への頽落を回避したということができる。

 トクヴィルの「政治」は特定の「真理」をただ実現することでもなければ、単なる状況追随でもなかった。つねに人間の差異や個別性を重視しながら、これらを一般性と結びつけようとしたトクヴィルの思考法は、今日ますます大きな意味を持つはずである。

審査要旨

 本論文『デモクラシーにおける「政治」の基盤と前提--アレクシ・ド・トクヴィルの追究--』は、民主政における「政治」のあり方に対する強い理論的関心を持ちながら、十九世紀フランスの政治思想家トクヴィルの諸著作の中から、彼の「政治」概念を再構成しようとしたものである。

 序章において著者は、二十世紀におけるトクヴィル受容史、研究史を振り返りながら、トクヴィルの「デモクラシー」概念の理解を深める研究や、自由主義との関連でトクヴィルの意義を問う研究といった近年の流れを紹介し、そこで提起された諸問題が結局のところ、トクヴィル「政治」概念の問題につながっていくことを指摘している。その上で著者は、デモクラシーにおける「政治」の基盤と前提を明らかにするという関心から、トクヴィルの「政治」概念を総合的に再構成することが本稿の課題であるとし、その際、差異性(異質性)と「われわれ」意識、理論と実践、普遍性と特殊性、古典古代的な政治学との連続性と断絶性、といったような緊張関係のなかで「原理ある中間の道」を求めた思想家としてトクヴィルの「政治」概念を描き出そうとしている。全体は四章から成っているが、最初の二章は「政治」の担い手のあり方とそれと深く関係する仕組みの問題を取り上げ、後の二つの章は彼の考えるような「政治」を実現するための方策に焦点を当てている。

 第一章「視座としての政治」は「政治」を支える人間の感情や思考のあり方を解明することを目的にしている。第一節では、トクヴィルの「デモクラシー」概念の多義性への言及の後、個人の原子化現象としての「個人主義」の問題から議論を始める。そして著者は、利己主義と区別される「個人主義」においては外部世界や他者との関係が稀薄化し、記憶や伝統の拘束力が低下する結果、「人民」「人類」「人間性」といった一般概念への依存が増大し、やがて思考の画一化や同質化が進行すること、更にそれらのコロラリーとして「抽象的文学的な政治理論」が流通するようになるといった一連の事態を論じている。著者は、これらの結果としての中央権力の強大化と市民の政治的無力とが昂進されるという、「デモクラシー」の一つの政治的な帰結を示唆する。第二節は、トクヴィルが絶対的な真理に基づく「政治」という考え方を徹底的に排除する一方、他方で全ての人間行動を偶然と恣意のままに委ねることにも賛成しない立場に立っていたことを指摘した後、個別的状況と一般性(特殊と普遍)とを結び付ける実践の知としての公的判断にこそトクヴィルの「政治」概念の人間的基礎があることを明らかにしている。合理主義や中央集権、「デモクラシー」に対抗しつつ、他方で非合理主義にも対決するという、彼の立場がこうして確認されたが、著者はこの点でトクヴィルはアリストテレスの思慮(プロネーシス)を継承していると解釈している。第三節は判断力の重視と一体のものとしてのトクヴィルの歴史的事象に対する態度と比較についての視点を扱う。著者はトクヴィルのイギリス、アメリカ、フランスについての議論を素材にしながら、絶対的な基準を機械的に適用して個々の事象を裁断するのではなく、制度や習俗、社会状態の多様性を自由や「政治」の観点から考察しつつ、現在を判断し評価する思考力を養うことに、彼の歴史分析と比較の意義があったとしている。第四節では、人間の感情的な要素についてのトクヴィルの議論が検討され、「政治」を支えるためにはこうした思考力に加えて、自発的な政治活動に対する「真の確固とした情熱」が必要であるという彼の見解が抽出される。著者は人々を「個人主義」の枠から解放し、他者との共同的関係を築いていく情熱の一例として、トクヴィルの「反省的愛国心」を分析している。この愛国心は公民の熟慮と経験に裏付けを持つ点で本能的な祖国愛と区別されるものである。著者によれば、トクヴィルは、自由とは「個人主義」を越えた人間の相互尊重、相互連帯の中で実現可能な特別な生き方であり、自由への情熱という気概によって支えられなければならないものと考えており、それ故、「自由は教えられるものではなく、感じ取られるものである」というのがその終生変わらぬ信念であったと解釈している。

 第二章「システムとしての政治」では、「政治」を支え、あるいは破壊する社会的条件・基盤についてのトクヴィルの見解が分析される。第一節では、多元的な集団がその差異を保持しながら、しかも実践を通じて相互に協力し合う共同の場を持つことこそ「政治」の基盤であるという、トクヴィルの見解が確認される。これをうけて第二節では、アンシャン・レジーム下のフランスで政治的自由・実践から排除された集団によって「抽象的文学的な政治理論」と「想像上のデモクラシー」が一種の代償行為として発生したこと、「行政の集中」が日常的に政治的実践から人々を遠ざける点で極めて重大な帰結をもったこと、その結果、フランスではイギリスなどと比較して政治的公共圏が不安定で貧しかったこと、といったトクヴィルの興味深い指摘が分析される。第三節はトクヴィルの有名な専制論を扱う。「個人主義」の蔓延と社会的紐帯の切断、個人の孤立化、国家や行政への依存関係の深まり、中央集権と人民主権との結合、全能の権威を持つものとしての「社会」「人民」の登場、こうした中で「規則的で、柔和で、穏やかな」専制という新たな、そして危険な統治体制が生ずることになると、トクヴィルは考えたというのである。そして著者によれば、市民たちが互いの差異を認めつつ、共同の場を水平的に形成していく「政治」を擁護するトクヴィルにとって、専制は最大の脅威であった。第四節では自由主義において重要な役割を果たしてきた「政治」対「社会」という問題がトクヴィルにおいてどう取り扱われているかが論じられる。著者によれば、トクヴィルは「政治」を排除してすべてを「社会」の自律に委ねたり、社会問題の解決のために国家権力を強化、動員したりすることに反対し、特に、「社会」という概念につきまとう同質化と画一主義に強い警戒感を抱いた。トクヴィルは「社会」と「政治」との相違とその相互補完関係に着目し、市民社会を基礎に政治社会の水平的関係を強化し、国家権力の集中に対抗するという構想を持っていたという点が指摘される。

 以上、二つの章がトクヴィルの状況認識と問題の把握を扱ったものであるのに対し、以下の二章はトクヴィルが自らの唱える「政治」をどのようにして実現しようとしたかを取り上げる。著者は、この関係で宗教については独立の第四章をおき、先ず、第三章において「利益・法・習俗・自治」を扱う。第一節では先ず、極めて物質主義的な「デモクラシー」の状況を踏まえ、トクヴィルが人々の主観に効果的に訴えることを通して彼等の視野と関心を公共圏へと誘導しようとして動員した「正しく理解された自己利益」という概念が検討される。著者の見解によれば、この概念は、徳自体への強い嗜好を示すトクヴィルが、結果としてそれに近づく一種の迂回戦術として用いたものであり、それによって判断力の問題に一つの解答を与えようとしたものであるという。第二節は司法権や法律家の政治的役割を扱う。すなわち、司法権は人民主権に基づく権力行使を抑制し、法律家集団は諸情念の暴走を防ぎ、自由にとって欠かせない秩序と形式を可能にし、また、陪審制度は市民の判断力の向上と政治的視野の拡大にとって大きな役割を果たすのである。トクヴィルは法律・権利関係の運用といった場を媒介に意識と行動双方において自治の担い手としての条件を市民に具備させようとしていたと、著者は解釈している。第三節はトクヴィルが自由であり続けるために欠かすことのできないものとしてあげた習俗を取り上げる。習俗は元来、個別的なものであり、それに従うのみでは「政治」の一般性や合理性は危うくなるという関係にあり、こうした緊張関係を前提にしながら、トクヴィルは多様な習俗のうち自由と「政治」に貢献しうるものに鋭い視線を送ったという。第四節はより制度的な条件を取り上げる。トクヴィルによれば、中央集権的体制と対比される「政治空間の複層性」を可能にする連邦制、市民が直接政治に携わることを可能にした地方自治、市民の自由な結合体としての結社は、人々に「自由の技術」を習得させることによって「政治」の強力な基盤となるという。最後に著者は、トクヴィルがフランスを念頭においた制度構想において地方分権、二院制、三権分立を擁護し、大統領制に対して危惧の念を抱いていたこと、現実に第二帝政という「専制」によって政治的に自ら敗北したことを述べて、この章を結んでいる。

 第四章「宗教」は、宗教と「政治」との関係について多くの自由主義思想家とは明らかに異なった見解を表明したトクヴィルの意図と彼の思考の独自性を取り上げる。第一節では、政教分離の原則を前提にしながら、「宗教の精神」と「自由の精神」との結合を試みるトクヴィルの立論をルソーなどとの対比で論じ、第二節では宗教が、内面的不安に彩られている「デモクラシー」の時代の人々に「知性の健全な枠」を提供し、人々に共通の観念を抱かせて共同行動を促すとともに、多数の全能という「デモクラシー」の時代の独断的信念に超越的な観点から歯止めをかけることが指摘される。かくして、宗教は超越性の故に政治から区別されることを通して逆に市民の自治と自立に欠かせない精神的基盤を提供することになるという。また、著者によれば、トクヴィル自身、超越的世界に対する敏感な思考の持ち主として、特定の政治体に視野を限定することなく、「人間の視点」に立って自治を構築する視座を持ち続けたのであった。第三節は、宗教にしろ習俗にしろ、トクヴィルが「政治」の基盤として析出したものが、あらゆる権威を覆す「デモクラシー」の条件の下で、それ自体、失われていくべき運命にあり、そうであるとすればここにトクヴィルの「アポリア」があるのではないかという問題を扱っている。著者は、制度や習俗、宗教、さらには「正しく理解された利益」といったものが相互依存したり、あるいは代替関係にあるものと認識されていたことを指摘し、トクヴィルをこうした資源を活用して常に自由や「政治」のための可能性を模索した思想家として特徴づけている。

 結語において著者は改めて全体を要約するとともに、トクヴィルが序章で指摘したさまざまな二項対立の間で微妙なバランスを取り続けたことを指摘して全体を結んでいる。

 以上が本論文の要旨である。

 本論文の長所としては、次の諸点をあげることができる。第一に、トクヴィルの「政治」概念の再構成という学界において新しい試みを粘り強い努力によって実現したことがあげられる。トクヴィルの強みは著者も論じているように極めて具体的な事象についての含蓄ある論述にあり、それを一度通り抜ける作業がなされた上でなければ本論文のような作業はできないのであって、この点で明らかに先行研究に負いつつも、それらには見られない独自の境地を開いたものと評価できる。換言すれば、これまでの諸研究を総合するような新しい観点の確立に挑戦し、成果をあげたといえよう。第二に、こうした試みを行った背景には著者の政治理論一般への強い関心があり、そのことが極めて積極的な成果をもたらしたことがあげられる。すなわち、そうした関心が偏った、あるいは独断的な分析につながることなく、トクヴィルの多面的な思考のニュアンスを丹念に辿ることによって、敢えていえば、トクヴィル風にトクヴィルを描き出すことにかなりの程度、成功したことである。そうした背景があるために本論文は従来の多くの思想史の論文とはやや傾向を異にしているが、それが本論文の大きな特徴になっている。第三に、文章と論旨は平明であり、しかも、単にトクヴィル研究に止まらない広い分野における先行研究への目配りが効いており、論文全体に説得力と信頼性を与えている。

 しかし、本論文にも問題がないわけではない。第一に、トクヴィルの「政治」概念の再構成に際し、彼の極めて具体的な議論から何を、どこまで採用するかという作業について、なお、工夫の余地があり、また、素材を十分に生かし切っていない面も残っている。第二に、訳語について改善すべきところが見られ、過度に一般化された文章や断定的な表現など言葉使いに気になるところがある。第三に、当時のフランスの政治的・思想的状況などについてもっと注意が払われるならば、本論文は更に一層、厚みのあるものになったと思われる。

 こうした問題点や要望はあるものの、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文の切り開いた視点は、トクヴィル研究のみならず、政治理論研究にとって新しい刺激を与えるものであり、学界に対する重要な貢献であると評価することができる。したがって、本論文は博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。

UTokyo Repositoryリンク