本論文『デモクラシーにおける「政治」の基盤と前提--アレクシ・ド・トクヴィルの追究--』は、民主政における「政治」のあり方に対する強い理論的関心を持ちながら、十九世紀フランスの政治思想家トクヴィルの諸著作の中から、彼の「政治」概念を再構成しようとしたものである。 序章において著者は、二十世紀におけるトクヴィル受容史、研究史を振り返りながら、トクヴィルの「デモクラシー」概念の理解を深める研究や、自由主義との関連でトクヴィルの意義を問う研究といった近年の流れを紹介し、そこで提起された諸問題が結局のところ、トクヴィル「政治」概念の問題につながっていくことを指摘している。その上で著者は、デモクラシーにおける「政治」の基盤と前提を明らかにするという関心から、トクヴィルの「政治」概念を総合的に再構成することが本稿の課題であるとし、その際、差異性(異質性)と「われわれ」意識、理論と実践、普遍性と特殊性、古典古代的な政治学との連続性と断絶性、といったような緊張関係のなかで「原理ある中間の道」を求めた思想家としてトクヴィルの「政治」概念を描き出そうとしている。全体は四章から成っているが、最初の二章は「政治」の担い手のあり方とそれと深く関係する仕組みの問題を取り上げ、後の二つの章は彼の考えるような「政治」を実現するための方策に焦点を当てている。 第一章「視座としての政治」は「政治」を支える人間の感情や思考のあり方を解明することを目的にしている。第一節では、トクヴィルの「デモクラシー」概念の多義性への言及の後、個人の原子化現象としての「個人主義」の問題から議論を始める。そして著者は、利己主義と区別される「個人主義」においては外部世界や他者との関係が稀薄化し、記憶や伝統の拘束力が低下する結果、「人民」「人類」「人間性」といった一般概念への依存が増大し、やがて思考の画一化や同質化が進行すること、更にそれらのコロラリーとして「抽象的文学的な政治理論」が流通するようになるといった一連の事態を論じている。著者は、これらの結果としての中央権力の強大化と市民の政治的無力とが昂進されるという、「デモクラシー」の一つの政治的な帰結を示唆する。第二節は、トクヴィルが絶対的な真理に基づく「政治」という考え方を徹底的に排除する一方、他方で全ての人間行動を偶然と恣意のままに委ねることにも賛成しない立場に立っていたことを指摘した後、個別的状況と一般性(特殊と普遍)とを結び付ける実践の知としての公的判断にこそトクヴィルの「政治」概念の人間的基礎があることを明らかにしている。合理主義や中央集権、「デモクラシー」に対抗しつつ、他方で非合理主義にも対決するという、彼の立場がこうして確認されたが、著者はこの点でトクヴィルはアリストテレスの思慮(プロネーシス)を継承していると解釈している。第三節は判断力の重視と一体のものとしてのトクヴィルの歴史的事象に対する態度と比較についての視点を扱う。著者はトクヴィルのイギリス、アメリカ、フランスについての議論を素材にしながら、絶対的な基準を機械的に適用して個々の事象を裁断するのではなく、制度や習俗、社会状態の多様性を自由や「政治」の観点から考察しつつ、現在を判断し評価する思考力を養うことに、彼の歴史分析と比較の意義があったとしている。第四節では、人間の感情的な要素についてのトクヴィルの議論が検討され、「政治」を支えるためにはこうした思考力に加えて、自発的な政治活動に対する「真の確固とした情熱」が必要であるという彼の見解が抽出される。著者は人々を「個人主義」の枠から解放し、他者との共同的関係を築いていく情熱の一例として、トクヴィルの「反省的愛国心」を分析している。この愛国心は公民の熟慮と経験に裏付けを持つ点で本能的な祖国愛と区別されるものである。著者によれば、トクヴィルは、自由とは「個人主義」を越えた人間の相互尊重、相互連帯の中で実現可能な特別な生き方であり、自由への情熱という気概によって支えられなければならないものと考えており、それ故、「自由は教えられるものではなく、感じ取られるものである」というのがその終生変わらぬ信念であったと解釈している。 第二章「システムとしての政治」では、「政治」を支え、あるいは破壊する社会的条件・基盤についてのトクヴィルの見解が分析される。第一節では、多元的な集団がその差異を保持しながら、しかも実践を通じて相互に協力し合う共同の場を持つことこそ「政治」の基盤であるという、トクヴィルの見解が確認される。これをうけて第二節では、アンシャン・レジーム下のフランスで政治的自由・実践から排除された集団によって「抽象的文学的な政治理論」と「想像上のデモクラシー」が一種の代償行為として発生したこと、「行政の集中」が日常的に政治的実践から人々を遠ざける点で極めて重大な帰結をもったこと、その結果、フランスではイギリスなどと比較して政治的公共圏が不安定で貧しかったこと、といったトクヴィルの興味深い指摘が分析される。第三節はトクヴィルの有名な専制論を扱う。「個人主義」の蔓延と社会的紐帯の切断、個人の孤立化、国家や行政への依存関係の深まり、中央集権と人民主権との結合、全能の権威を持つものとしての「社会」「人民」の登場、こうした中で「規則的で、柔和で、穏やかな」専制という新たな、そして危険な統治体制が生ずることになると、トクヴィルは考えたというのである。そして著者によれば、市民たちが互いの差異を認めつつ、共同の場を水平的に形成していく「政治」を擁護するトクヴィルにとって、専制は最大の脅威であった。第四節では自由主義において重要な役割を果たしてきた「政治」対「社会」という問題がトクヴィルにおいてどう取り扱われているかが論じられる。著者によれば、トクヴィルは「政治」を排除してすべてを「社会」の自律に委ねたり、社会問題の解決のために国家権力を強化、動員したりすることに反対し、特に、「社会」という概念につきまとう同質化と画一主義に強い警戒感を抱いた。トクヴィルは「社会」と「政治」との相違とその相互補完関係に着目し、市民社会を基礎に政治社会の水平的関係を強化し、国家権力の集中に対抗するという構想を持っていたという点が指摘される。 以上、二つの章がトクヴィルの状況認識と問題の把握を扱ったものであるのに対し、以下の二章はトクヴィルが自らの唱える「政治」をどのようにして実現しようとしたかを取り上げる。著者は、この関係で宗教については独立の第四章をおき、先ず、第三章において「利益・法・習俗・自治」を扱う。第一節では先ず、極めて物質主義的な「デモクラシー」の状況を踏まえ、トクヴィルが人々の主観に効果的に訴えることを通して彼等の視野と関心を公共圏へと誘導しようとして動員した「正しく理解された自己利益」という概念が検討される。著者の見解によれば、この概念は、徳自体への強い嗜好を示すトクヴィルが、結果としてそれに近づく一種の迂回戦術として用いたものであり、それによって判断力の問題に一つの解答を与えようとしたものであるという。第二節は司法権や法律家の政治的役割を扱う。すなわち、司法権は人民主権に基づく権力行使を抑制し、法律家集団は諸情念の暴走を防ぎ、自由にとって欠かせない秩序と形式を可能にし、また、陪審制度は市民の判断力の向上と政治的視野の拡大にとって大きな役割を果たすのである。トクヴィルは法律・権利関係の運用といった場を媒介に意識と行動双方において自治の担い手としての条件を市民に具備させようとしていたと、著者は解釈している。第三節はトクヴィルが自由であり続けるために欠かすことのできないものとしてあげた習俗を取り上げる。習俗は元来、個別的なものであり、それに従うのみでは「政治」の一般性や合理性は危うくなるという関係にあり、こうした緊張関係を前提にしながら、トクヴィルは多様な習俗のうち自由と「政治」に貢献しうるものに鋭い視線を送ったという。第四節はより制度的な条件を取り上げる。トクヴィルによれば、中央集権的体制と対比される「政治空間の複層性」を可能にする連邦制、市民が直接政治に携わることを可能にした地方自治、市民の自由な結合体としての結社は、人々に「自由の技術」を習得させることによって「政治」の強力な基盤となるという。最後に著者は、トクヴィルがフランスを念頭においた制度構想において地方分権、二院制、三権分立を擁護し、大統領制に対して危惧の念を抱いていたこと、現実に第二帝政という「専制」によって政治的に自ら敗北したことを述べて、この章を結んでいる。 第四章「宗教」は、宗教と「政治」との関係について多くの自由主義思想家とは明らかに異なった見解を表明したトクヴィルの意図と彼の思考の独自性を取り上げる。第一節では、政教分離の原則を前提にしながら、「宗教の精神」と「自由の精神」との結合を試みるトクヴィルの立論をルソーなどとの対比で論じ、第二節では宗教が、内面的不安に彩られている「デモクラシー」の時代の人々に「知性の健全な枠」を提供し、人々に共通の観念を抱かせて共同行動を促すとともに、多数の全能という「デモクラシー」の時代の独断的信念に超越的な観点から歯止めをかけることが指摘される。かくして、宗教は超越性の故に政治から区別されることを通して逆に市民の自治と自立に欠かせない精神的基盤を提供することになるという。また、著者によれば、トクヴィル自身、超越的世界に対する敏感な思考の持ち主として、特定の政治体に視野を限定することなく、「人間の視点」に立って自治を構築する視座を持ち続けたのであった。第三節は、宗教にしろ習俗にしろ、トクヴィルが「政治」の基盤として析出したものが、あらゆる権威を覆す「デモクラシー」の条件の下で、それ自体、失われていくべき運命にあり、そうであるとすればここにトクヴィルの「アポリア」があるのではないかという問題を扱っている。著者は、制度や習俗、宗教、さらには「正しく理解された利益」といったものが相互依存したり、あるいは代替関係にあるものと認識されていたことを指摘し、トクヴィルをこうした資源を活用して常に自由や「政治」のための可能性を模索した思想家として特徴づけている。 結語において著者は改めて全体を要約するとともに、トクヴィルが序章で指摘したさまざまな二項対立の間で微妙なバランスを取り続けたことを指摘して全体を結んでいる。 以上が本論文の要旨である。 本論文の長所としては、次の諸点をあげることができる。第一に、トクヴィルの「政治」概念の再構成という学界において新しい試みを粘り強い努力によって実現したことがあげられる。トクヴィルの強みは著者も論じているように極めて具体的な事象についての含蓄ある論述にあり、それを一度通り抜ける作業がなされた上でなければ本論文のような作業はできないのであって、この点で明らかに先行研究に負いつつも、それらには見られない独自の境地を開いたものと評価できる。換言すれば、これまでの諸研究を総合するような新しい観点の確立に挑戦し、成果をあげたといえよう。第二に、こうした試みを行った背景には著者の政治理論一般への強い関心があり、そのことが極めて積極的な成果をもたらしたことがあげられる。すなわち、そうした関心が偏った、あるいは独断的な分析につながることなく、トクヴィルの多面的な思考のニュアンスを丹念に辿ることによって、敢えていえば、トクヴィル風にトクヴィルを描き出すことにかなりの程度、成功したことである。そうした背景があるために本論文は従来の多くの思想史の論文とはやや傾向を異にしているが、それが本論文の大きな特徴になっている。第三に、文章と論旨は平明であり、しかも、単にトクヴィル研究に止まらない広い分野における先行研究への目配りが効いており、論文全体に説得力と信頼性を与えている。 しかし、本論文にも問題がないわけではない。第一に、トクヴィルの「政治」概念の再構成に際し、彼の極めて具体的な議論から何を、どこまで採用するかという作業について、なお、工夫の余地があり、また、素材を十分に生かし切っていない面も残っている。第二に、訳語について改善すべきところが見られ、過度に一般化された文章や断定的な表現など言葉使いに気になるところがある。第三に、当時のフランスの政治的・思想的状況などについてもっと注意が払われるならば、本論文は更に一層、厚みのあるものになったと思われる。 こうした問題点や要望はあるものの、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文の切り開いた視点は、トクヴィル研究のみならず、政治理論研究にとって新しい刺激を与えるものであり、学界に対する重要な貢献であると評価することができる。したがって、本論文は博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。 |