半導体超薄膜構造(量子井戸構造)の工学的応用の多くは、キャリア密度変調により電子物性を制御することで達成されている。特に,量子井戸構造の光デバイス応用では、キャリア密度を変調することによりバンドギャップ近辺の吸収係数や屈折率を制御し、光の変調や非線形応答を得ることができる。この種のデバイス応用では、量子井戸内で1011cm2から1012cm2のキャリア密度を変調することが必要である。特に、全光学式交換器などへの応用では、キャリア密度を光で変調することが望ましい。キャリア密度は、バンドギャップより大きいエネルギーの光子の照射で変調できるが、電子・ホール対の再結合時間が1nsのオーダであるので、通常の量子井戸でのキャリヤ変調には、30W/cm2程の強度の光を要する。しかし、励起光によって生成される電子・ホール対を空間分離して再結合時間を大きくすると、弱い光でもキャリヤ変調が可能となる。そこでこのようなキャリヤの空間分離を実現するための材料として、二重量子井戸構造やタイプ2と呼ばれる量子井戸を含む構造、さらにnipi構造などが用いられてきた。 本研究では、光励起で得られるキャリアの空間的分離をよりよく達成するための構造として、電荷移動二重量子井戸構造(charge transfer double quantum well,CTDQW)を対象として調べる。この構造は、低くて厚い障壁(middle barrier,MB)に隔てられた二つの量子井戸からなり、その外側に、MBよりも高い障壁(external barrier,EB)が設けられている。(図1参照)。CTQWでは、量子井戸層と垂直に電界を加えることにより、光励起で作られた電子及びホールを、異なる井戸へ緩和させ、キャリアの空間的な分離を行うことができる。この構造では、MB層の作用で二つの井戸の最低準位の間でキャリアがトンネルするのを防いでいる。また、EBは、光で作られたキャリヤの中で、MBより高いエネルギーに励起されたものを構造内に閉じ込める役割を果たす。 図1:CTDQW構造と光励起キャリアの空間的分離の過程CTDQWにおけるキャリアの空間分離は、電界や励起光の波長によって制御できる。さらに、赤外光でのサブバンド間励起により空間的に分離されたキャリアを移動させて再結合を誘導することもできる。こうした理由のため、CTDQWにおける光励起キャリアの様々な振る舞いはこれまでにない新しく興味深い光電子物性を含んでいる。 第2章は「CTDQWにおける光励起キャリアの空間的分離過程」と題し、CTDQWにおけるキャリアの空間的分離過程を解明をするために発光スペクトルを、様々な外部電界・格子温度・励起波長の下で調べた研究を述べている。CTDQWではMB層が井戸間のトンネル過程を抑圧するため、キャリアの空間的分離過程においては、キャリヤの緩和過程が重要となる(図1参照)。従って、緩和過程を解明する必要がある。緩和過程の解明は、サブバンド間光励起に伴う井戸間の電子の移動やこれ利用したデバイスを理解することにも役立つ。 光励起された電子・ホール対が電界によって空間的に分離されると、デバイスの発光強度が減少する。図2には、MBよりも高い光子エネルギーの光をCTDQWに照射し、様々なバイアス電圧をに印加したときの、左と右の量子井戸(LW,RW)からの発光強度を8.5K及び40Kで測定した結果を示す。電圧が1Vの付近でのRWからの発光の急峻な減少は、印加した電界によりキャリアの分離が効率よく起こることを示している。一方、LWからの発光強度は、電圧=1V付近の構造に加えて、温度により変化する振動を示した。この現象は、MBよりも高いエネルギーを持つ複数の量子状態のエネルギー差や波動関数の形が電界で変化することに起因している。従って、CTDQWにおけるキャリアの分離過程では、単純な緩和過程のみならず、量子準位の詳細で定まる散乱/緩和過程が重要な役割を果たすことが分る。 空間的に分離された、電子・ホール間には逆電界が生じ、印加電界を遮蔽する。そこで、様々な励起光強度における発光スペクトルのシュタルクシフトを解析することにより、励起キャリア密度を求めた。その結果、光励起強度が1.4W/cm2の時、単位構造あたり8.4×1011cm-2のキャリアが蓄積されることと、空間分離されたキャリアの寿命は約4msになっていることがわかった。 図2:CTDQW構造における発光強度のバイアス電圧依存性 第3章は「サブバンド間遷移で誘導された発光」と題し、CTDQW構造において波長10m、パルス幅約100nsの中赤外光を照射し、サブバンド間励起を行ったときの発光スペクトルに関する研究について述べている。中赤外光を照射すると、空間分離されたキャリアが移動して、発光再結合を誘導する現象を見出した。強い赤外光パルスを照射すると、定常的な発光強度に対し20倍以上の強度での発光が生じる。この現象は、電子を蓄積している量子井戸RWの基底サブバンド内の電子が、中赤外光照射により励起状態へ移り、その後ホールの蓄積している他方の井戸LWの基底状態へ緩和することにより生じる。この効果を以下ITIL(Intersubband transition induced luminescense,)と呼ぶ。CTDQWにおいては電子・ホール対の空間分離の結果、キャリアの寿命が数msとなり、可視光を止めた後、数msはキャリアを保持している。そのため、ITILは、可視光を止めた後でも観測される(図3)。 図3:CTDQWにArレーザパルスを照射して15ms後中赤外光パルスを照射して観測される発光の時間依存性 図4は、可視光(Arレーザ光)パルスを停止後、tだけ遅らせて中赤外光(CO2レーザ光)パルスを照射した時の、ITIL強度を示している。t<0においては、可視光の照射時間を増すに伴いキャリア密度が増加し、可視光の照射を止めたt>0においては、キャリア密度が減少するが。これらに伴うITILの変化が観測された。図4から、CTDQWにおけるキャリア寿命が52usであることが分かった。 ITILの強度は、中赤外光の照射により電子が一方の井戸から他方の井戸へ遷移する時間ttransに反比例している。ITIL強度と中赤外光の強度の関係を調べることにより、実験で用いた試料では、中赤外光の強度がICO2=20kWcm2のとき、ttransが約200nsであることが分かった。さらに、試料構造の最適化すればttransは80psまで小さくなることを示した。 図4中赤外光をtだけ遅らせて照射した時のバンド間発光の強度のt依存性。 第4章は「赤外線照射に伴う光電流応答」と題し、波長10mのパルス状の中赤外光をCTDQW構造に照射した時に観測される光電流応答に関する研究について記している。この光電流は、第3章で述べた赤外光照射に伴う発光(ITIL)と同時に観測され、キャリアの空間的分離過程やITILを生じる機構と密接な関係がある。CTDQW構造においては、単位構造あたり1011cm2程度の電子ホール対が空間的に分離して蓄積されている。そのため、外部からの印加電界に対して発生している遮蔽電界は、数十kVcm-1に達する。従って、赤外光パルスを照射した際に電子が他の井戸に移りホールと再結合するならば、面と垂直方向の大きな光電流が発生することが期待される。観測された光電流の符号や時間応答を考察したところ、予測された成分つまり電子の遷移によりホールと再結合し、内部電界が変化することに起因する電流成分の他に、逆符号を持つ速い電流成分と遅い成分が観測された。これらの成分は、赤外光の照射による電子温度の上昇に伴う電流の増加や電子とホールの密度が一様でないために生じる電流を表していると考えられる。 第5章では「空間分離された光励起キャリアによるサブバンド間吸収の制御」と題し、CTDQW構造に光励起で生成されるキャリアによるサブバンド間吸収に関する実験的研究について述べている。図5は、可視光の励起強度がIAr=1W/cm2の時に様々なバイアス電圧の下で測定したサブバンド間吸収スペクトルを示す。スペクトルの半値全幅は6meVであり、試料の品質が高いことを示している。理論的な振動子強度の値を用い、観測された吸収量から電子密度Nsを評価すると、NS=2.2×1012cm-2であることが分かった。さらに、CTDQW構造を最適化すればサブバンド吸収量を約2桁増加できること、可視光の励起によりサブバンド間の吸収を効率よく変調できるので、デバイス応用の可能性があることを示した。 図5:光励起CTDQWのサブバンド間吸収スペクトル 第6章においては、本研究で得られた結論をまとめている。まずCTDQW構造においてフォトルミネッセンスを詳しく計測し、これからバンド間で光励起されたキャリアの緩和や空間分離などの過程を調べ、弱い光でも高いキャリア密度を達成可能であることを示した。続いて、空間分離された光励起キャリアの再結合過程を中赤外光の照射下で調べ、波長10mの中赤外光によって制御できることを示している。特に、中赤外光をパルス的に照射するとバンド間のパルス発光を誘起できることを示した。さらに、光で作られた電子によるサブバンド間吸収スペクトルを測定し、CTDQWが中赤外光の変調器に応用可能であることを示した。 |