学位論文要旨



No 112178
著者(漢字) 姜,玉楚
著者(英字)
著者(カナ) カン,オクチョ
標題(和) A.グラムシ思想における南部問題の位置
標題(洋)
報告番号 112178
報告番号 甲12178
学位授与日 1996.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第90号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京外国語大学 教授 上村,忠男
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 助教授 石田,勇治
内容要旨

 本稿は、A.グラムシ(Antonio Gramsci1891-1937)思想におけるイタリア南部問題がもつ意味についての包括的論究である。これまでグラムシ研究において主要論題であった知識人論、ヘゲモニーと市民社会論、国家論などに比べ、南部問題に関する議論は、どちらかというとマイナー・テーマだったといえよう。しかし、彼の知的・人格的形成の原点にあったイタリア南部の体験とそこからの問題意識は、後の『獄中ノート』で実る思想的発展の重要な土台として、これまで評価されてきた以上の意義を持っているように思われる。「グラムシと南部」についての従来の取り扱いは、伝記的接近と理論的接近の二つの面に分けることができる。そしてイタリア南部は、グラムシの成長環境と政治的コミットメントの背景という伝記的側面では重要視され、ある程度共通の認識が保たれている反面、グラムシの思想的発展の契機という側面では、原論的次元ではその意義が認めらているものの、緻密な理論的分析の対象となることは稀だった。

 これまでグラムシ研究の最大の争点の一つは、彼の思想を、レーニン主義の延長線上に位置づけるか、それとも西欧マルクス主義の始祖とするかという問題であった。すなわち、彼の思想をレーニン主義の創造的継承として受け止めるトリアッティ流の解釈と、反対にレーニン主義からの逸脱として位置づける西欧左派の見方との対立である。グラムシの思想的成熟において、統一戦線への転換を呼び掛けた晩年のレーニンの直観が重要なきっかけであったのは確かである。しかし、レーニンの直観からその理論的含蓄を全面化し、マルクス主義の一大革新へ推し進めることができた、グラムシ独自の思想的構えを解明することこそ、肝心である。これは、グラムシの「非マルクス主義的要素」を深く掘り出すことを意味する。まず考慮すべき要素は、グラムシがマルクス主義に深くコミットする前に摂取していたクローチェ思想である。だが、晩年のレーニンの影響を強調するにせよ、初期のグラムシに強かったクローチェ的問題意識の再浮上を指摘するにせよ、国外滞在期から顕著になるグラムシの思想的発展は、発達した市民社会を抱える西欧社会における革命理論の模索として総括するだけで十分であろうか。さらに、レーニンから刺激を受けながら、レーニン主義を乗りこえ得たグラムシの思想的土台は、ヘゲール主義あるいはクローチェ思想の影響として理解されることで十分であろうか。

 この問題については、多様な接近が必要であろうが、筆者としては、これまで集中的に議論されてこなかった、イタリアの南部主義(meridionalismo)との関連で、グラムシ思想の発展過程を究明することを提起したい。イタリア南西部の島サルデーニャ生まれ(1891年)のグラムシは、北部主導の統一(1860年)以来、深刻になっていた南北間の格差の解消および南部の復権を求めるイタリア独特の思想および政治運動としての南部主義から強い影響を受けた。若きグラムシの南部主義の傾向は、マルクス主義とのかかわりが深まるなかで、克服されていくが、南部主義のいくつかの要素は、彼の生涯を貫き、マルクス主義の革新の土台となる。つまり、南北間の地域的不均衡をイタリア社会の最大の矛盾の一つと見て、その解決には南部の主体的参加を不可欠とする主張である。これが、本稿で明らかにしようとする「グラムシ思想における南部の視点」の主な側面である。勿論、この視点は、基本的にはサルデーニャでの出生と成長に基づいているが、一つの思想としての急進的南部主義を媒介として確立されたものであった。

 したがって、本稿では、グラムシにおける南部の視点、なかでも南部主義的要素が、グラムシの思想的発展にどのような役割を果たすのかを解明することを課題としている。従来の解釈においては、グラムシにおいてマルクス主義との出逢いによる南部主義の克服という側面が強調され、両者の関係の複合的性格が十分現れなかった。しかし、両者の関係は、一方的、あるいは一直線的なものではなく、相互的で、いくつかの段階を経ているので、それを考慮する新しい区分が必要と思われる。本稿では、グラムシの思索と活動の拠点が、南から北へ、また西から東へ、地理的、空間的に移動することを契機に、こうした融合がどう深まっていくのかに留意し、発展の諸段階を分けてみた。

 まず、第1章では、グラムシの南部問題認識に影響を与えた南部主義の諸議論を検討し、西欧マルクス主義者としては例外的なこの知的体験が、トリーノ移住(1911年)後、彼の革命家としての形成に深く関わることを明らかにしたい。ここで社会主義的南部主義者G.サルヴェーミニとの接点は重要である。グラムシが社会主義運動のなかで、それまでの彼の南部主義を克服していくことは基本的な事実であるが、サルヴェーミニから吸収し、それ以降の自らの模索の永続的要素としていく南部主義的要素は何かを確かめる。

 第2章では、トリーノの工場評議会運動(19-20年)および、社会党から分離・結成(21年)される初期の共産党におけるグラムシの活動を対象とする。この時期は、南部問題に関するグラムシの直接の言及が少ないため、南部問題との関連ではあまり論じられなかった。だが本稿では、共産党創設への参加は、グラムシにとってトリーノの地域運動の限界を超える契機となり得たにもかかわらず、彼の思想の質的発展があまり見られないという事実を重視し、これを南部問題との関連で探ってみた。新生共産党は、北部の労働者に基盤をおくという点では、社会党の限界を再生産しており、こうした状況ではグラムシにおける南部主義的要素とマルクス主義との融合が本格化しないことを確かめる一方、南部の視点の相対的後退がグラムシの理論の全般的限界とどうかかわったのかを考察したい。

 第3章では、南部の視点の創造的展開を制約していたイタリア革命運動の限界を、グラムシが明確に意識するようになる、モスクワおよびウィーン滞在期(22年5月-24年5月)を取り扱う。この時期に、ファシズムの台頭と最晩年のレーニンの思想、コミンテルンの統一戦線戦術への旋回などが介在し、以後、グラムシは、イタリア革命運動に農民を統合する問題および、階級問題に還元できない地域問題を深く考慮するようになる。強調したいのは、ここでグラムシが出逢ったレーニンをはじめとするコミンテルン指導者たちは、ロシア革命後の国内外での諸困難に直面し、労農同盟の問題を再考する段階を迎えていたこと、そしてこれが、グラムシにとって、南部主義の観点を生かす後押しとなるという点である。こうして、北部を基盤とする革命運動の最中、グラムシにおいて比較的に後退していた南部の視点が再考されはじめ、それが従来のマルクス主義の理論の枠を乗りこえる拠点として活用されることを明らかにしたい。

 第4章では、ウィーンからの帰国(24年5月)以降、ローマでイタリア共産党の書記長として反ファシスト闘争を指導するグラムシの活動を対象とするが、統一戦線路線の実践のための彼の模索は、南部農民との同盟という領域で顕著な進展を見せることを確かめる。とくに南部農民の組織化をめぐる努力と行き詰まりは、「南部問題…に関する覚え書き」(26年秋)における知識人論を練り上げる主な背景となる。この論稿の理論的発展はもちろん、その政治的含意を吟味し、国外滞在期から顕著になる南部の視点が、グラムシの政治的、理論的跳躍を支えていたことを明らかにする。さらに労農同盟の問題は、同じ時期にソ連共産党内に現れるスターリン主義の兆しとグラムシの模索とを分ける分岐点の一つでもあったことを考察する。

 第5章では、「南部問題…に関する覚え書き」に見られた南部と知識人をめぐる思索の糸が、トーゥリ監獄における省察に持ち込まれ、『ノート』の構想および初期の執筆を触発することを考察する。投獄前の模索と獄中の省察をつなぐ初期のノート(とりわけQ1)は、のちに推敲されてリソルジメント論の核心的覚え書きを含むが、これらの覚え書きがいかに南部の視点に基づいているのかを明らかにする。また、リソルジメントとフランス革命との比較で提起される、都市と農村との同盟を指導する政治勢力としてのジャコバン概念は、イタリア知識人に対する批判的考察の軸となり、ここで『ノート』の知識人論の礎石が置かれることを確かめる。

 以上の考察を通じて、グラムシが彼の時代のイタリアの独特の歴史的状況、つまり西欧のなかの周辺という位置、そしてそのような位置と結び付いた諸矛盾から目を背けず、それを理論的格闘の対象としたことこそ、彼が従来のマルクス主義の革新を成し遂げる源泉となったとすれば、このような読解から現れるいささか新しいグラムシ像から、われわれはいかなる示唆点を引き出せるのか。一国的にも、世界的にも、これまで犠牲と不平等を強いられてきた「南」側の挑戦がますます激しくなっている今日、「北」側の指導的集団が自らの同業組合的利益の譲歩を前提としてヘゲモニーを発揮しない限り、破局的抗争からの出口はないように見える。だとすれば、今世紀の前半に、「南」から見た「北」への批判的観点にもとづいてマルクス主義理論の革新をもたらしたグラムシの思想的格闘は、いまなお吟味してみる価値があるのではなかろうか。筆者としては、このような観点でグラムシ思想の今日的意義を認めたい。

審査要旨

 本研究は、現代の政治思想に強い影響を及ぼし続けているイタリアの思想家A.グラムシの思想形成の過程において、イタリアの南部問題に関する認識がきわめて大きな位置を占め、その政治理論の中心的部分の基盤となったことを、彼の政治活動と思索の発展過程を検討する中で検証しようとする試みである。従来のグラムシ研究においても南部問題が有した重要性自体は指摘されてきたが、それが彼の政治理論にとっていかなる意味をもったかについての緻密な研究は十分になされてこなかったし、グラムシの南部問題論の検討は1926年に執筆された「南部問題およびそれに対する共産主義者、社会主義者、民主主義者の態度に関する覚え書き」という有名な論考に集中し、それに至る思想発展の過程での南部問題の位置、さらにその直後に投獄されてから彼が記した『獄中ノート』での創造的思考と南部問題論との内在的関連は、本格的研究の対象となってこなかった。現在の非西欧世界でのグラムシへの関心の高まりなども視野に入れつつ、初期の『獄中ノート』までのグラムシ思想における南部問題の位置を綿密に検討した本論文は、そのようなグラムシ研究の流れに一石を投じる有益な研究である。

 本論文は、序、第1章から第5章までの本論、結びとから成る。序における問題提起と研究史の批判的検討の後、第1章から第4章まででクロノロジカルな経緯にそってグラムシの政治活動と思想形成に関する議論が行われ、第5章では『獄中ノート』第1冊(Q1)の分析がなされる。さらに結びは、本論をまとめ、現在の世界での本論文のテーマの意味を再確認して終わっている。以下、それぞれの部分の概要を紹介する。

 「序」では、グラムシの世界観における「南部の視点」を明らかにしようとする著者の問題意識が提示され、従来のグラムシ研究でその点の究明が不足していたことが示される。

 サルデーニャで育ったグラムシが1911年にトリーノ大学に入学してから第一次世界大戦末頃までの時期を対象とする「第1章サルデーニャからトリーノヘ」では、グラムシの南部問題認識に影響を与えた南部主義の諸議論が検討される。従来グラムシと南部主義の関連については、彼が既存の南部主義の限界をいかに乗り越えたかという点が強調されることが多かったのに対し、著者はさまざまな南部主義の潮流から彼がいかなる啓発と刺激を受けたかという面に着目し、グラムシ思想の底流にある「非マルクス主義的要素」をここから摘出する。その際特に重視されるのが、南部問題解決の鍵として南部農民の役割を強調したサルヴェーミニの影響であるが、同時にそれとは肌合いの異なる南部主義の諸論者からもグラムシが多くを吸収したことも指摘される。そして出身地サルデーニャからトリーノへ移ってからのグラムシの社会主義者としての成長、「サルデーニャ的」グラムシから「国民的」グラムシへの転換の要因として、マルクス主義の影響とならんで南部主義の影響が強かったことが論証される。

 「第2章トリーノでの革命運動と南部問題」では、第一次世界大戦後トリーノにおける工場評議会運動でグラムシが主導的役割を演じた時期と1921年の共産党結成期が取り上げられる。ここで著者が指摘するのは、この時期のグラムシにおける「南部の視点」の相対的な後退であり、工場評議会運動の中で労農同盟論が提起されるに当たっても、それが南部問題への省察と十分に連関しない抽象的な次元にとどまっていたこと、社会党から分かれて創設された共産党が、それまでの社会党同様南部問題についての具体的なプログラムをもたない中で、グラムシ自身も初期共産党の地域的限界性を克服しえなかったこと、が論じられる。

 「第3章モスクワおよびウィーンでの「転換」と南部問題」では、1922年半ばから23年末までのグラムシのモスクワ滞在期、さらに24年5月までのウィーン滞在期が扱われる。この時期のグラムシについては「西欧革命理論家」としての著しい思想的発展が指摘されることが多いが、そこで従来軽視されてきた問題として、イタリアを離れたグラムシが、西欧的側面と非西欧的側面、近代的性格と前近代的性格を共に有するイタリアの特殊性への認識を深めていった点、すなわち「南部の視点」の再浮上に、著者は着目する。その際、ボルシェヴィキの指導者たちによる労農同盟問題の提起やコミンテルンの統一戦線への転換が、グラムシにおける南部主義的要素とマルクス主義理論との融合を刺激し、[周辺型国家]としてのイタリアの特殊性の考察を促した、と論じられる。グラムシは、そのようにして獲得した視座から労働者と農民の連邦共和国という新たなスローガンを提起するなど、南部の視点を取り入れた労農同盟を共産党の第一の指導理念として打ち出しつつ、イタリア共産党での指導権をボルディーガ派から奪っていった。

 「第4章ローマでの党指導と南部問題」は、イタリア帰国後共産党書記長として活動するグラムシの投獄までの時期の検討に当てられ、その第3節で「南部問題……に関する覚え書き」の分析が行われる。従来この時期の研究においては1926年1月の第3回党大会で承認されたリヨン・テーゼがグラムシ指導下の共産党のファシズム観を示すものとして注目されてきたが、著者の視点からは、むしろ大会後にグラムシの「周辺型国家」分析が急速な深まりを見せ、それが「南部問題……に関する覚え書き」での思想的跳躍になったと、論じられる。「覚え書き」に至るこの年のグラムシの思索と活動をたどった上で、著者は「覚え書き」が、これまでの大方の評価にあるような「未完」の論稿ではなく、北部労働者と南部農民の同盟を可能にするための知識人の役割をえぐり出し、『獄中ノート』での知識人概念やヘゲモニー概念の形成のきっかけとなる一定の完結性を備えた論稿である、との再評価を行っている。

 「第5章トゥーリの獄で:『獄中ノート』と南部問題」では、それまでのグラムシの思想的模索がノート第1冊の内容の中にどのように結晶化したかが、A稿(後に推敲される原稿で、かつて広く参照されたプラトーネ編集になる旧版『獄中ノート』では省略されていたもの)に力点を置く形で検討され、南部の視点が、ヘゲモニー論や知識人論といった『ノート』におけるグラムシの独創的提起の根底にあったことが抉出される。そして、グラムシの思想の核に南部問題をめぐる一連の考察が確固として存在していたことが強調され、「西欧革命の理論家」としてのグラムシを「南」あるいは「周縁」を見据えた理論家として捉え直すべきである、と論じられる。

 [結び]では、以上の考察をまとめた上で、ラテンアメリカなど非西欧世界で興隆している新たなグラムシ研究が、本稿のような視点を取り入れることによりさらに発展する可能性をもちうるとの主張がなされている。

 以上が、この論文の概要である。この論文の意義としては、以下の諸点があげられるであろう。

 まず何よりも、著者は、グラムシの著作の綿密な読解を通じて、グラムシの思想形成過程を貫く「南部の視点」を洗い出すことにかなりの程度成功している。その際、グラムシの諸論考の分析を中心にすえつつ、彼の政治活動の様相がその思想形成の営為にいかに関わっていたかという点に注意を払い、伝記的研究と思想・理論研究の具体的な架橋を論文全体で図っている点は重要である。その試みの中で、南部問題への直接の言及が少ないため、これまで南部問題との関連ではあまり検討されてこなかったトリーノ工場評議会運動期の位置が示されるなど、グラムシと南部問題の関わりを統一的に把握するための視座が打ち出されている。

 さらに、南部主義の諸潮流をグラムシがいかに吸収し自己の思想として鍛えていったかという点の検討を通じて、グラムシ思想の基盤の広さが明らかにされると同時に、彼の思想の複合性・重層性をとらえるための堅固な立脚点も提供されている。通説化している「西欧的」マルクシスト・グラムシという像に代わる、「南」の視点、「周縁」の視点を備えつつ西欧社会の変革に取り組んだ思想家としてのグラムシ像は、グラムシ研究に新しい局面を開くものであり、とりわけ非西欧世界でのグラムシ思想の受容にとって大きな意味をもつと考えられる。

 また本論文は、南部からの視点に着目することによって、『獄中ノート』の旧版の限界と新版がもつ意味を改めて浮き彫りにし、グラムシ思想研究の最も重要な素材である『獄中ノート』の新たな読解の試みとなっている。本論文での『ノート』の分析は第1冊に集中しており、『ノート』の全体における「南部の視点」の解明は今後の課題として残されているが、その方向性は本論文によってよく示されている。

 このように、本論文はグラムシ研究の一つの新たな可能性を開くものとして、積極的な意味を有している。ただし、本論文には不十分な点もいくつか存在する。南部問題を対象とし、南部農民を変革主体として重視するという論点を出しながら、南部の民衆の具体像とグラムシによるその認識の関連性があまり論じられていないこと、グラムシの思想形成を南部の視点に引きつける問題意識が強いがために、労農同盟論における農民問題を南部問題に直結させすぎていること、などである。また、グラムシの思想と実践の中での工場評議会運動の位置づけについては、議論の余地がある。

 このように、なお分析を精緻にする余地はあるものの、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

UTokyo Repositoryリンク