本研究は、現代の政治思想に強い影響を及ぼし続けているイタリアの思想家A.グラムシの思想形成の過程において、イタリアの南部問題に関する認識がきわめて大きな位置を占め、その政治理論の中心的部分の基盤となったことを、彼の政治活動と思索の発展過程を検討する中で検証しようとする試みである。従来のグラムシ研究においても南部問題が有した重要性自体は指摘されてきたが、それが彼の政治理論にとっていかなる意味をもったかについての緻密な研究は十分になされてこなかったし、グラムシの南部問題論の検討は1926年に執筆された「南部問題およびそれに対する共産主義者、社会主義者、民主主義者の態度に関する覚え書き」という有名な論考に集中し、それに至る思想発展の過程での南部問題の位置、さらにその直後に投獄されてから彼が記した『獄中ノート』での創造的思考と南部問題論との内在的関連は、本格的研究の対象となってこなかった。現在の非西欧世界でのグラムシへの関心の高まりなども視野に入れつつ、初期の『獄中ノート』までのグラムシ思想における南部問題の位置を綿密に検討した本論文は、そのようなグラムシ研究の流れに一石を投じる有益な研究である。 本論文は、序、第1章から第5章までの本論、結びとから成る。序における問題提起と研究史の批判的検討の後、第1章から第4章まででクロノロジカルな経緯にそってグラムシの政治活動と思想形成に関する議論が行われ、第5章では『獄中ノート』第1冊(Q1)の分析がなされる。さらに結びは、本論をまとめ、現在の世界での本論文のテーマの意味を再確認して終わっている。以下、それぞれの部分の概要を紹介する。 「序」では、グラムシの世界観における「南部の視点」を明らかにしようとする著者の問題意識が提示され、従来のグラムシ研究でその点の究明が不足していたことが示される。 サルデーニャで育ったグラムシが1911年にトリーノ大学に入学してから第一次世界大戦末頃までの時期を対象とする「第1章サルデーニャからトリーノヘ」では、グラムシの南部問題認識に影響を与えた南部主義の諸議論が検討される。従来グラムシと南部主義の関連については、彼が既存の南部主義の限界をいかに乗り越えたかという点が強調されることが多かったのに対し、著者はさまざまな南部主義の潮流から彼がいかなる啓発と刺激を受けたかという面に着目し、グラムシ思想の底流にある「非マルクス主義的要素」をここから摘出する。その際特に重視されるのが、南部問題解決の鍵として南部農民の役割を強調したサルヴェーミニの影響であるが、同時にそれとは肌合いの異なる南部主義の諸論者からもグラムシが多くを吸収したことも指摘される。そして出身地サルデーニャからトリーノへ移ってからのグラムシの社会主義者としての成長、「サルデーニャ的」グラムシから「国民的」グラムシへの転換の要因として、マルクス主義の影響とならんで南部主義の影響が強かったことが論証される。 「第2章トリーノでの革命運動と南部問題」では、第一次世界大戦後トリーノにおける工場評議会運動でグラムシが主導的役割を演じた時期と1921年の共産党結成期が取り上げられる。ここで著者が指摘するのは、この時期のグラムシにおける「南部の視点」の相対的な後退であり、工場評議会運動の中で労農同盟論が提起されるに当たっても、それが南部問題への省察と十分に連関しない抽象的な次元にとどまっていたこと、社会党から分かれて創設された共産党が、それまでの社会党同様南部問題についての具体的なプログラムをもたない中で、グラムシ自身も初期共産党の地域的限界性を克服しえなかったこと、が論じられる。 「第3章モスクワおよびウィーンでの「転換」と南部問題」では、1922年半ばから23年末までのグラムシのモスクワ滞在期、さらに24年5月までのウィーン滞在期が扱われる。この時期のグラムシについては「西欧革命理論家」としての著しい思想的発展が指摘されることが多いが、そこで従来軽視されてきた問題として、イタリアを離れたグラムシが、西欧的側面と非西欧的側面、近代的性格と前近代的性格を共に有するイタリアの特殊性への認識を深めていった点、すなわち「南部の視点」の再浮上に、著者は着目する。その際、ボルシェヴィキの指導者たちによる労農同盟問題の提起やコミンテルンの統一戦線への転換が、グラムシにおける南部主義的要素とマルクス主義理論との融合を刺激し、[周辺型国家]としてのイタリアの特殊性の考察を促した、と論じられる。グラムシは、そのようにして獲得した視座から労働者と農民の連邦共和国という新たなスローガンを提起するなど、南部の視点を取り入れた労農同盟を共産党の第一の指導理念として打ち出しつつ、イタリア共産党での指導権をボルディーガ派から奪っていった。 「第4章ローマでの党指導と南部問題」は、イタリア帰国後共産党書記長として活動するグラムシの投獄までの時期の検討に当てられ、その第3節で「南部問題……に関する覚え書き」の分析が行われる。従来この時期の研究においては1926年1月の第3回党大会で承認されたリヨン・テーゼがグラムシ指導下の共産党のファシズム観を示すものとして注目されてきたが、著者の視点からは、むしろ大会後にグラムシの「周辺型国家」分析が急速な深まりを見せ、それが「南部問題……に関する覚え書き」での思想的跳躍になったと、論じられる。「覚え書き」に至るこの年のグラムシの思索と活動をたどった上で、著者は「覚え書き」が、これまでの大方の評価にあるような「未完」の論稿ではなく、北部労働者と南部農民の同盟を可能にするための知識人の役割をえぐり出し、『獄中ノート』での知識人概念やヘゲモニー概念の形成のきっかけとなる一定の完結性を備えた論稿である、との再評価を行っている。 「第5章トゥーリの獄で:『獄中ノート』と南部問題」では、それまでのグラムシの思想的模索がノート第1冊の内容の中にどのように結晶化したかが、A稿(後に推敲される原稿で、かつて広く参照されたプラトーネ編集になる旧版『獄中ノート』では省略されていたもの)に力点を置く形で検討され、南部の視点が、ヘゲモニー論や知識人論といった『ノート』におけるグラムシの独創的提起の根底にあったことが抉出される。そして、グラムシの思想の核に南部問題をめぐる一連の考察が確固として存在していたことが強調され、「西欧革命の理論家」としてのグラムシを「南」あるいは「周縁」を見据えた理論家として捉え直すべきである、と論じられる。 [結び]では、以上の考察をまとめた上で、ラテンアメリカなど非西欧世界で興隆している新たなグラムシ研究が、本稿のような視点を取り入れることによりさらに発展する可能性をもちうるとの主張がなされている。 以上が、この論文の概要である。この論文の意義としては、以下の諸点があげられるであろう。 まず何よりも、著者は、グラムシの著作の綿密な読解を通じて、グラムシの思想形成過程を貫く「南部の視点」を洗い出すことにかなりの程度成功している。その際、グラムシの諸論考の分析を中心にすえつつ、彼の政治活動の様相がその思想形成の営為にいかに関わっていたかという点に注意を払い、伝記的研究と思想・理論研究の具体的な架橋を論文全体で図っている点は重要である。その試みの中で、南部問題への直接の言及が少ないため、これまで南部問題との関連ではあまり検討されてこなかったトリーノ工場評議会運動期の位置が示されるなど、グラムシと南部問題の関わりを統一的に把握するための視座が打ち出されている。 さらに、南部主義の諸潮流をグラムシがいかに吸収し自己の思想として鍛えていったかという点の検討を通じて、グラムシ思想の基盤の広さが明らかにされると同時に、彼の思想の複合性・重層性をとらえるための堅固な立脚点も提供されている。通説化している「西欧的」マルクシスト・グラムシという像に代わる、「南」の視点、「周縁」の視点を備えつつ西欧社会の変革に取り組んだ思想家としてのグラムシ像は、グラムシ研究に新しい局面を開くものであり、とりわけ非西欧世界でのグラムシ思想の受容にとって大きな意味をもつと考えられる。 また本論文は、南部からの視点に着目することによって、『獄中ノート』の旧版の限界と新版がもつ意味を改めて浮き彫りにし、グラムシ思想研究の最も重要な素材である『獄中ノート』の新たな読解の試みとなっている。本論文での『ノート』の分析は第1冊に集中しており、『ノート』の全体における「南部の視点」の解明は今後の課題として残されているが、その方向性は本論文によってよく示されている。 このように、本論文はグラムシ研究の一つの新たな可能性を開くものとして、積極的な意味を有している。ただし、本論文には不十分な点もいくつか存在する。南部問題を対象とし、南部農民を変革主体として重視するという論点を出しながら、南部の民衆の具体像とグラムシによるその認識の関連性があまり論じられていないこと、グラムシの思想形成を南部の視点に引きつける問題意識が強いがために、労農同盟論における農民問題を南部問題に直結させすぎていること、などである。また、グラムシの思想と実践の中での工場評議会運動の位置づけについては、議論の余地がある。 このように、なお分析を精緻にする余地はあるものの、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |