学位論文要旨



No 112179
著者(漢字) 佐伯,学行
著者(英字)
著者(カナ) サエキ,タカユキ
標題(和) 宇宙線反ヘリウムの流束における新しい制限
標題(洋) A New Limit on the Flux of Cosmic Antihelium
報告番号 112179
報告番号 甲12179
学位授与日 1996.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3119号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 蓑輪,眞
 東京大学 教授 牧島,一夫
 東京大学 助教授 奥野,英城
 東京大学 教授 湯田,利典
 東京大学 教授 木舟,正
内容要旨

 反物質の存在は,1930年代の初頭にディラックによって初めて提案された。それはスピンを持つ点状粒子,すなわち電子に対して相対論的量子力学を適用させる試みから導かれた.それはまた世の中にある全ての種類の粒子がそれに対応した反粒子を持つことを示唆していた.これに続いて1932年に陽電子,1955年に反陽子が発見され、現在では全ての素粒子がその反粒子を持つことが広く知られており、加速器では反陽子と反中性子から反デューテロンが作られている.

 ところで最近のビッグ・バン宇宙による考察から,宇宙創生の初めには同量の物質と反物質が存在したと考えられている.もしこれを受け入れると,地球が電子と陽子で構成されているのは偶然のように思われてくる.さらに進めて,宇宙に陽電子と反陽子から成る星が存在することも全く可能である.よって,反ヘリウムや反炭素が宇宙線中に観測されないのは不思議である.

 これに対し,近代的な大統一理論(GUTs)においては,物質-反物質非対称、すなわちバリオン-反バリオン非対称は、通常初期宇宙におけるX-粒子とその反粒子の崩壊の性質の違いとして説明されている.大統一理論では〜1016Gev程度のエネルギーで3つの相互作用,すなわち電磁相互作用,弱い相互作用,強い相互作用の実効結合定数が同じ値となり,これらの相互作用は統一される.X-粒子とはこの統一を数学的に記述する群におけるゲージ場,すなわちクオークとレプトンの間で力を伝達するボソン粒子としてその存在が予言されている.もしインフレーションの最後で宇宙がX-粒子を生成するのに十分なほど熱かったとすると,宇宙が冷えた時にXは2つのクオーク(q+q)かクオークとレプト(+l)に崩壊する.q+q (+)への崩壊の割合をr()と定義すれば,CとCPの破れがあるため,r≠となる.よってr>とすれば、クオークは反クオークより多く生成され,qとの対消滅は光子を生成する.残ったqとlの少量の過多が現在の宇宙の物質を形作り,これが物質-反物質非対称性を説明する.

 上述の理論は,宇宙進化の理論として最も一般に受け入れられているものである.しかし,ブラウンとシュテッカー,佐藤勝彦はスカラー場の自発的対象性の破れによる弱いCPの破れを仮定し,ビッグ・バンと大統一理論に矛盾しないバリオン-反バリオン対称の模型を提案した.この模型では,宇宙初期の時間tuでCP対象性の破れが起き,CPの破れは(tu×光速)の大きさの領域(ドメインと呼ぶ)ごとに無作為に違った符合を持つため,各ドメインは分離された物質-反物質領域を形成する.しかしドメインの大きさは,CPがどのように破れるかによるため予言できない.

 この理論の実験的検証として,現在の宇宙での物質と反物質の分離された距離に関する制限が線天文学から得られる。すなわち,物質と反物質が接触している場合,それらは対消滅して線を発生するが,現在の線の観測結果から少なくとも10Mpc以内に反物質領域が存在しないと結論される.よって、バリオン-反バリオン対称性は,このスケール以上の大きさで存在することが可能である.

 この理論を直接検証する実験的方法は,宇宙線中で反原子核あるいは反粒子の探索を行なうことである.宇宙線中の陽電子や反陽子は素粒子間の通常の相互作用でも2次的に生成されるが,反ヘリウムは関しては,このような2次生成反ヘリウムの/Heへの寄与は10-11より低いと考えられる.現在の観測技術の感度は/He〜10-5であるため,反ヘリウムの検出は反物質領域や超電導宇宙紐など,宇宙における非常に特異な現象の存在を意味する.ヘリウムに対する反ヘリウムの比の最も信頼できる制限は,(1〜20)GVの硬度領域で/He9×10-5,(1〜2)GVの硬度領域で/He2.2×10-5であり,図1に現在知られている/Heの制限を要約した.しかし、これらの制限は理論を検証するのに十分ではない.

 を,ヘリウムに対する存在比で/He〜10-6まで探索するため,"超伝導磁石硬度スペクトロメータによる気球実験(BESS)"と命名された新しい気球実験が幾つかの新しい概念に基づいて設計された.その概念とは(1)薄肉の磁超伝導ソレノイドを使った硬度スペクトロメータによる精密な運動量測定,(2)大立体角を持った大体積の飛跡検出装置の使用,などである.その測定器の製作と入念な動作試験の後,1993年に初めて宇宙線の観測が行なわれた.この初飛行の結果に基づき測定器の更なる最適化を行なった後,94年と95年に,再び2回の飛行に成功した.

図1:現在知られている/Heの制限.(BESSの実験結果を太線で示す.)

 これらの気球実験から得られたデータにより,宇宙線中でのの探索を行なった.解析では飛跡検出装置の中にただ1つの飛跡をもつイベントが選ばれ,ヘリウムと反ヘリウムの粒子識別は磁気硬度,粒子の速度,dE/dXの測定に基づいて行なわれた.選別されたヘリウムと反ヘリウムのイベントはさらに飛跡検出装置の中の飛跡の精度について詳しく調べられ,他の全ての検出器の反応との整合性が確かめらた.注意深い探索の後,硬度が16GVより下の領域において反ヘリウム候補は見つからなかった.測定器の効率と,ヘリウムと反ヘリウムの大気あるいは測定器内での吸収を考えにいれて,95%confidence levelの/He流束比の上限として2.0×10-6(1〜16GVの硬度領域)を得た.この結果は,図1に示したようにこれまでより45倍厳しい/He流束比の上限を与えた.

審査要旨

 本論文は8章からなり、第1章は序章、第2章は実験装置の記述、第3章はデータ収集の実際、第4章は測定方法、第5章は反ヘリウムをどのようにして探すかについて記されている。、第6章でヘリウム流束に対する反ヘリウム流束の割合が導出され、第7章では結果に対する議論がなされており、最後の第8章が結論となっている。

 物質の構成要素である素粒子にはその各々について荷電共役対称の関係にある反粒子が存在する。電子や陽子・中性子で構成されるものを「物質」と呼び、その反粒子である陽電子や反陽子・反中性子で構成されるものを「反物質」と呼んでいる。

 しかし、地球や近傍の星は電子と陽子・中性子という物質のみで構成されており、宇宙線中にも反ヘリウムや反炭素といった反物質は観測されていない。もし、宇宙全体にわたって物質のみが存在し、反物質は存在しないというようになっているとすれば対称性の観点からは不自然なことである。

 一方、最近の宇宙論ではビッグ・バン宇宙モデルと素粒子の大統一理論の枠組の中で物質-反物質対称のモデルが提案されている。これによると、宇宙の進化の過程でドメインと呼ばれる因果的非接続領域がいくつか構成され、このドメイン内では物質と反物質が混在しないが、物質のドメインと反物質のドメインがランダムに別々に存在することが予測されている。

 この物質と反物質の分離に関しては、これまで線天文学の枠組の中で制限が与えられてきた。もし物質と反物質が接触している場合それらは対消滅して線を発生するからである。これにより少なくとも100Mpc以内には反物質ドメインが存在しないと結論されている。

 著者は本論文において、この理論を検証するために宇宙線中の反原子核のうち反ヘリウムの探索を行った結果を報告している。宇宙線中の反ヘリウムおよびそれより重い反原子核は,物質-反物質対称性が成り立っているか、あるいは非常に特殊な仮定の下でしか存在しない。反ヘリウムに関しては陽子・陽子衝突から生成される確率は〜10-10と非常に低い。一方、同じ反粒子といっても陽電子や反陽子は素粒子間の通常の相互作用でも生成されうる。反ヘリウムは反物質ドメインでも最も豊富な原子核であろうから、従って反ヘリウムを宇宙線中で探すことが最も現実的でかつ明らかな物質-反物質対称宇宙の検証となる。

 これまでに測られたヘリウムに対する反ヘリウムの割合の最も信頼できる制限は、rigidityが(1〜20)GVの領域で/He9.0×10-5、(1〜2)GVの領域で/He2.2×10-5であるがこれらの制限は理論を検証するのに十分に満足のいくものではない。

 著者は、を流束の比/Heで〜10-6まで探索するため、"超伝導磁石硬度スペクトロメータ(硬度=rigidity)による気球実験(BESS)"という新しい気球実験を行なった。その実験の特徴は、(1)薄肉の超伝導ソレノイドを使った硬度スペクトロメータによる精密な運動量測定,(2)大立体角を持った大体積の飛跡検出装置の使用、などである。これらの特徴は既存の同目的の検出器の性能を革命的に改善するものであった。

 気球は1993年、1994年、1995年の三回、CanadaのManitoba州Lynn Lakeから放たれ、毎回有効時間にして約8時間のデータ収集が行なわれた。この気球実験から得られたデータにより宇宙線中でのの探索が行なわれた。解析では,飛跡検出装置の中にただ1つの飛跡をもつ事象が選ばれ、ヘリウムと反ヘリウムの粒子識別は磁気硬度、粒子の速度,電離エネルギー損失率dE/dXの測定に基づいて行なわれた。選別されたヘリウムと反ヘリウム・サンプルはさらに飛跡検出装置の中の飛跡の精度について詳しく調べられ,他の全ての検出器の反応との整合性が確かめらた。この結果、硬度が16GVより下の領域において反ヘリウム候補は見つからなかった。反ヘリウムの大気あるいは測定器内での対消滅による損失を考えにいれて、著者は1から16GVの硬度領域において流束比/Heの95%confidence levelの上限として2.0×10-6を得た。

 この結果は、前述のこれまでの最良の制限を10〜45倍改善するものである。これから宇宙のドメイン構造に対する制限を導出するには宇宙のモデルに対するいくつかの仮定が必要であり、一義的な結論はすぐには出せないが、著者は銀河外宇宙空間の磁場が10-20G以下であり銀河外宇宙線と銀河内宇宙線の流束比が10-3程度であると仮定すると、1Gpc以内にはドメイン構造は存在しないと結論している。

 以上、本論文は宇宙のドメイン構造に制限を与えるという動機に基づきこれまでにない高性能の検出器により気球で観測を行ない宇宙線中の反ヘリウムの流束に世界最高の強い制限を与えて、宇宙線物理学および宇宙論の研究に大きく貢献するものである。従って、審査員一同は、本論文が博士(理学)の学位論文としてふさわしく、合格であると判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53943