20世紀後半は、伝統的秩序を追い出してきた近代的秩序への反省と、世界秩序のイデオロギー的統合を目指してきた冷戦秩序が崩壊され、新しい秩序への転換を求めようとする地殻変動の時期であるといえる。P.F.Drucker[1993]はそのような変動の時期を「一つの歴史の終わり」として表現した。変化の勢いが我々に与えたのは、世界秩序の再編成という課題と、21世紀の新しい世界像に対する期待と不安である。しかし、世界秩序の再編成は旧秩序の中に隠れてきた民族を中心としたナショナリズム秩序に還元されているように見えている[Rosenau1990、Huntington1993、Mayall1990、Micheline R.Ishay1995、加藤一夫1993、関根政美1994、梶田孝道1992、上田昌野1994]。 民族秩序に伴った問題は、民族的独立の正当性の問題、国家的統合の正当性の問題、国家を基にする地域統合の問題、エスニシティの自立性の問題、地球的レベルでの諸利益の相互共有の問題、民族的理念に代わる普遍的価値の創出の問題などに関わっている。今日、民旅的独立と利益を基にする民族間の紛争と葛藤は、民族的自立という民族間の暗黙の了解によってその正当性を認めざるをえないことになるが、現実において民族問題を解決する究極的な手段として考えるにはもの足らない。 現代ナショナリズムの問題は単純に先進国と第三世界との対立だけではなく、対立領域が限定されていないのが特徴である。つまり、民族間の対立また国家間の対立そして国家の内部でのエスニシティ間の対立、リージョンとリージョンとの対立として現れたのである。まさにそれは「民族闘争の宣言」ともいえる時代になったことである。民族間の葛藤の中で新しく出てくる問題は葛藤単位としての民族から共存単位としての脱民族に転換しようとする認識と動きである。民族をめぐる葛藤は民族による支配化と自立化の相互作用の結果となるものの、民族によってその葛藤関係を解決するには限界があるのである。ここで葛藤的な民族秩序に代わるものはないのか、という根本的な問題を問わなければならない。そのような問いに対する答えは「ナショナリズム」から「脱ナショナリズム」へ転換すること、と敢えて提言する。本稿の目的はその「脱ナショナリズム」(POSTNATIONALISM)を具体化することにある。 論文の展開は次の通りである。第一にはナショナリズムの特徴とナショナリズムを乗り越えようとしてきた疑似脱ナショナリズムを設定しそれを考察する。つまり、ナショナリズムの属性を考察した上でナショナリズムの克服理論としてコスモポリタニズム(COSMOPOLITANISM)、アナキズム(ANARCHISM)、インタナショナリズム(INTERNATIONALISM)、グローバリズム(GLOBALISM)を疑似脱ナショナリズム(QUASI-POSTNATI0NALISM)として位置づけて理論的特徴を検討する。ナショナリズムを乗り越えるために疑似脱ナショナリズムから脱ナショナリズムへの転換を求めることにする。 第二には脱ナショナリズムの構想のため、ネーションの対立概念として脱ネーション(POST-NATION)概念を導入し、その概念の含意を具体化した上で、脱ナショナリズムの性質や社会諸領域との関係を提示する。「POST」という言葉の意味は「PARA」と「ECDYSIS」との合成語として使いたい。「PARA」というのは「prepare to defense against」として「保護」という意味であり、「ECDYSIS」は「動物が成長しながら古い表皮またクチクラ層を脱ぎ捨てる」という意味としての「脱皮」である。「POST:ポスト」とは「保護と脱皮」を指している。「脱ネーション」は「ポスト」と「ネーション」との結合から出てきた言葉である。ここで「脱ネーション」また「ポストネーション」(POSTNATION)とは「ネーションから保護と脱皮」することを意味する。つまり、ネーションという境界的で排除的な秩序から保護また脱皮することである。 第三には脱ナショナリズムの分析対象として日本とアメリカと韓国におけるネーションの形成と強化過程を考察した上で、脱ネーションの胎動を提示する。つまり、韓国と日本とアメリカにおける脱ナショナリズム(POSTNATIONALISM)の事例として反核・反戦・経済転換運動・人権運動を中心に把握する。日本における脱ナショナリズムは水爆実験禁止運動から80年代以降の「非核平和宣言運動」とそれの世界的連帯の状況、アメリカにおける脱ナショナリズムとしては反核運動とその具体的実現運動として「軍事産業から平和経済への経済転換運動(MD計画)」を中心に検討する。韓国における脱ナショナリズムの事例としては反核運動と「基督教人権運動」とそれの世界的連帯の状況などを分析する。 第四には日米韓の脱ナショナリズムの一致点(convergence)と相違点(divergence)を比較し、今後の課題を提示する。日本とアメリカと韓国において脱ナショナリズムをめぐる一致点は次の通りであるといえる、一には脱ナショナリズムはネーションと脱ネーションとの分離によって遂行されていることである。二には草の根及び草の根思想である。その論理はネーションの方向性と一致してきたネーション構成員として市民がネーションを中心とした諸思想や方向性と対立することで、成り立った「草の根として市民」「草の根思想として市民思想」である。草の根思想とは市民レベルでの平和作り思想である。三にはネーションによるナショナリズムと脱ネーションによる脱ナショナリズムとが対立していることである。四には「プロテクト・アンド・サーバイブ:protect and survive」ではなく、「プロテスト・アンド・サーバイブ:protest and survive」である。日米韓の脱ナショナリズムの相違点は反核運動に限ってみると、次の通りになるといえる。一には反核運動の性質を規定する歴史的環境が異なっているのである。日本において反核運動の性格は「歴史的使命感」に基づいた運動である。アメリカにおいて反核運動は「歴史的反省」に基づいた反核運動として、核の開発及び生産構造を変える運動にまでつながっている。韓国において反核運動は「民族の平和的統一意識」に基づいた運動である。二には反核運動を実現する方法論は各々異なっている。 今後の課題としては脱ネーションによる脱ナショナリズムは「反核運動」「反戦運動」「人権運動」に限られているのではなく、非国家的組織の領域がオープンされているように脱ナショナリズムの領域もオープンされている。その一例である脱ナショナリズムとして反核運動は草の根や思想に基づいた世界新秩序作り運動として様々な非国家的組織による諸運動と切り離しては考えられない。その意味でネーションから分離・対立し、脱皮しようとする非国家的組織による社会諸運動は脱ナショナリズムに収斂する親和性があるといえる。しかし、非国家的組織の中ではネーション危機を空洞化するメカニズムの構築という広範な認識に基づいているにも関わらず、社会諸領域において個人の利益や地域の利益と平和作りとの葛藤、また市民グループでは市民の利益と平和作りとの利害関係に深く関わっているものの、その合意した行動や組織の構築が限定されている面がある。その意味では国家の利益と非国家の利益との対立、公益と私益との対立、世界観と民族観と個人観との対立をどのように克服するかがこれから脱ナショナリズムが乗り越えなければならない課題であるといえる。つまり、そのような問題群を乗り越えるメカニズムの構築のため普遍的価値を創出し、市民による非国家的組織の国際化と国際市民法の設定を通じて新国際的秩序を作ることである。それはネーションによって「管理される平和」から「解放される平和」へ転換することであり、それがナショナリズムから脱ナショナリズムへの転換の出発点であり、終着点であるといえる。 |