学位論文要旨



No 112227
著者(漢字) 王,融
著者(英字)
著者(カナ) オウ,ユウ
標題(和) 超薄膜における面内選択性分子変換の光電気化学研究
標題(洋) Photoelectrochemical Studies on an In-Plane Selective Molecular Conversion System in Ultrathin Films
報告番号 112227
報告番号 甲12227
学位授与日 1996.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3770号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤嶋,昭
 東京大学 教授 御園生,誠
 東京大学 教授 工藤,徹一
 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 助教授 橋本,和仁
内容要旨 【序】

 情報化時代といわれる現在、莫大な量の情報を小型化して保存する高密度情報記録が新しい研究分野を作っている。この研究の発展は、新しい分子記録媒体と新しい記録モードに基づくものと考えられる。本研究は、アゾベンゼン誘導体薄膜においてシスートランス光異性化反応とアゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン酸化還元反応のハイブリッド型分子変換系に対し、直線偏光照射による光電気化学反応の面内選択的制御を目的としている。まず、走査型原子間力顕微鏡(AFM)による分子像観察とFTIR測定による膜内分子配列構造を明らかにした。Langmuir-Blodgett(LB)膜を用いて、異なる方向の直線偏光を連続照射し、特定の面内配向分子のみ光異性化することに成功した。この面内選択的光異性化過程を分光学的方法と、AFMを用いた微視的な薄膜構造変化によって直接確認した。さらに、シス体-ヒドラゾベンゼンの電気化学的分子変換においても、偏光照射を併用することによって面内選択的光電気化学反応を確認した。また、このハイブリッド型分子変換系を詳細に理解するために、各種in situ分光学的測定を行った。

【実験】1.膜の作製

 LB法を用いてアゾベンゼン誘導体4-octyl-4’-(5-carboxy-pentamethylene-oxy)-azobenzene(ABD)の単分子膜あるい累積膜をCaF2基板上あるいはSnO2基板上に作製した。SA膜は、新たに合成した10-(4-phenylazo)phenoxydecyl-1-thiol(AzoC10)の1mMエタノール溶液に金蒸着ガラス基板を12時間以上浸漬して得た。

 

2.AFMの観察

 分子レベルのAFM像により、膜の構造を解析した。非偏光UV照射と偏光UV照射下、膜のモルフォロジー変化によって、面内選択的な光異性化反応を評価した。

3.偏光吸収スペクトル

 偏光UV照射後の膜の偏光吸収スペクトルより、光異性化反応の面内選択性を評価した。また、面内選択的な光電気化学過程を検討するため、3電極式の分光電気化学セルを使用して、in situ偏光吸収差スペクトルを測定した。このセルには、ABD分子の単分子膜を修飾したSnO2電極を作用極として、白金線を対極として、銀・塩化銀電極を参照極として用いた。

4.フーリエ変換赤外(FTIR)スペクトル

 分子配列の情報を得るため、偏光FTIRスペクトルを測定した。電気化学in situ測定により、アゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン分子変換過程を検討した。

5.サイクリックボルタモグラム(CV)

 シス体の選択的還元およびヒドラゾベンゼンの酸化再生過程を偏光UV照射を併用したサイクリックボルタンメトリーによって定量的に評価した。

【結果と考察】1.膜構造の解析図1.AFM分子像とフーリエ変換像。(a)ABDのLB膜(b)AzoC10のSA膜。

 本研究に最適な成膜手段を選択するために、ABDのLB膜とAzoC10のSA膜の構造解析を行った。図1に、分子レベル解像度のAFM像を示す。このデータから、分子の平均占有面積は、ABDのLB膜の場合30.4±0.5Å2、AzoC10のSA膜の場合18.7±0.5Å2と計算された。SA膜中の分子のパッキング密度はLB膜中のパッキング密度より高い。パッキング密度が高い場合には、膜中分子はほとんど膜の法線方向に配向する。光電気化学反応において偏光制御する場合に、アゾベンゼン基の長軸方向の遷移モーメントが大きな面内投影成分をもつ必要がある。偏光FTIRスペクトルの解析から、LB膜中のABD分子は膜の法線に対して平均37°±2°傾斜していることが示された。この大きい傾斜角度を持つABD分子のLB膜は、光電気化学分子変換の偏光制御が期待される。

2.偏光照射による面内選択的光異性化反応

 ABD分子のLB膜を用いて、偏光UV照射による光異性化過程を検討した。偏光UV照射前後での偏光吸収スペクトルを図2に示す。まず、累積方向に対して平行な偏光面をもつ偏光吸収スペクトルの吸光度が直交する方向の吸光度より大きいことから、面内においてアゾベンゼン分子長軸は累積方向に若干配向していることがわかる(図2aの1回目偏光UV照射前)。アゾベンゼンのトランス体からシス体への光異性化反応は、340nmに現れるトランス体の分子長軸方向に遷移モーメントをもつ-*遷移の吸収帯の減少によって特徴づけられる。このLB膜の累積方向に直交する偏光面をもつUV光を照射した後のLB膜の偏光吸収スペクトルをみると、累積方向に平行な偏光吸光度は変化しなかったのに対して、直交方向の吸光度の減少が観察された(図2a)。さらに、引き続き偏光面を累積方向に対して平行にして2回目の偏光UV照射を行った場合、累積方向に平行な偏光に対して340nmの吸光度が減少したのに対して、直交方向の吸光度は変化しなかった(図2b)。これは膜中の同じ場所に、異なる直線偏光を続けて照射することによって、面内にほぼ等方的に配向するアゾベンゼンのうち、分子長軸が偏光面に配向した分子のみが選択的に光異性化したものと考えられる。

図2.偏光UV照射前後の偏光吸収スペクトル。(a)第1回照射(b)第2回照射

 アゾベンゼン長鎖誘導体においては、トランス体が密に配列したLB膜を形成するのに対し、シス体ではねじれたコンホメーションをとるために膨張型となり、分子占有面積が増大することが知られている。これより、面内選択的光異性化過程においてモルフォロジー変化を直接観察することが可能である。図3に非結論できる。

3.偏光照射における面内選択的光電気化学反応

 シス体は熱的逆異性化反応を起こすため、連続的偏光UV照射により誘起されたトランス体とシス体の面内分布を長時間保持することは困難である。そこで、電気化学的な分子変換が必要となる。

 図6aは、偏光制御下の分子変換の一例を示すCVである。R11は、累積方向に平行な偏光面をもつ偏光UVを照射後、電気化学的に還元した場合の還元電流である。R12は、偏光面を直交させて第2の偏光UV照射を行った後、還元したときの還元電流である。電気化学的還元によってシス体から生成したHABは、+0.2V以上のアノード分極により可逆的に酸化され、トランス体に変換された(O11とO12)。偏光UV照射を直交する二つの方向で連続的に行い、共にHABに還元した後(R11とR12)、トランス体に酸化するとO11とO12を足し合わせたアノード電気量(O1)が検出された。以上のことは、選択的な光異性化によって生じたシス体からHABへの還元過程、さらにHABからトランス体への再酸化過程が定量的に起こることを示唆している。電位を印加した状態で、ABD分子の単分子膜のin situ偏光吸収差スペクトルを測定した結果からも、この光化学と電気化学のハイブリッド型分子変換系が偏光UVによる面内選択的制御が可能であることが確認された。

図6.ABD単分子膜の偏光UV照射処理(b)とその後のサイクリックボルタモグラム(a)。
4.アゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン分子変換のin situ観察

 薄膜中の面内選択的光電気化学反応において、ヒドラゾベンゼンの安定性及びアゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン電気化学的分子変換の再現性が重要である。そこで、in situ FTIR反射(FTIRRA)スペクトルの測定により、単分子膜中のヒドラゾベンゼンの挙動を検討した。反射スペクトルを得るため、金基板上に成膜したAzoC10のSA膜を用いた。

 図7には、単分子膜に-0.6Vあるい+0.25Vの電位を印加した時のin situ差FTIRRAスペクトル(初期状態のスペクトルに対する相対変化)を示した。-0.6Vに分極した場合、1514cm4に偏光UV照射前後で膜中の同じ場所を観察したAFM像を示す。照射によってすべてのグレインがほぼ等方的に大きくなった。これはアゾベンゼンのトランス体からシス体への光異性化反応が面内等方的に起きること示唆している。

図7.AzoC10のSA膜に-0.6Vあるい+0.25Vの電位印加におけるin situ差FTIRRAスペクトル。図3.非偏光UV照射前(a)後(b)ABDLB膜のAFM像("constant force" in non-contact mode)。

 一方、累積方向に平行な偏光面をもつUV光を照射した膜のAFM像を図4に示す。偏光照射後、あるグレインが大きくなったのに対して、あるグレインはほとんど変わらなかった。この観察より、偏光UV照射による光異性化過程の面内選択性が直接確認された。この偏光制御による面内選択的光異性化過程は図5に示すように解釈される。すなわち、グレインは数個の反応単位となるドメインで構成され、偏光UV照射によって、偏光面とほぼ平行なドメインにのみ光異性化が選択的に起きる。各ドメイン中の分子配向が、偏光UV照射による光異性化反応を膜面内で選択的に誘起したものと新しい吸収帯が現われた。この吸収帯は還元種のヒドラゾベンゼンのN-H変角振動に帰属された。また、CPh-O-CRの逆対称伸縮振動帯は1252cm4からl258cm4にシフトするとともに強度が低下した。シフトの原因は、アゾベンゼンの還元によりエーテル基付近の電子密度が増加するためである。強度の変化はアゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン間分子変換において分子配向の変化と考えられる。この還元された膜は、+0.25Vの分極により定量的に初期状態に戻ることが明らかとなった。分極電位を-0.6Vと+0.25Vに繰り返し変化させた時の差スペクトルの変化から電気化学的アゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン分子変換の再現性と膜の安定性が確認された。

図4.偏光UV照射前(a)後(b)ABDLB膜のAFM像("constant height" in contact mode)。累積方向に垂直な方向に照射偏光面を設定。図5.ドメイン構造を考慮した偏光照射による面内選択的光異性化過程。
【結言】

 膜構造の詳細な評価と、偏光UV照射による面内選択的な光異性化反応を検討した。この過程は分光学的モニターに加えて、AFM測定による構造変化として直接確認した。この光化学と電気化学のハイブリッド型分子変換系においては、偏光UV照射を直交する二つの方向で連続的に行い、トランス-シス-HABへの分子変換がそれぞれの方向に沿って誘起された。本分子変換システムは、偏光照射による微小領域の光電気化学反応の面内選択性を与え、分子情報の記録密度の多重性が可能である。情報密度は光照射の空間分解能と偏光の角度分解能で決定される。したがって、この偏光電気化学的分子変換システムは高密度化も含めた新規な分子情報記録モードとして期待される。

審査要旨

 本論文は、七章より構成されており、機能性分子の薄膜において、異なる直線偏光照射による光電気化学ハイブリッド型分子変換の面内選択的制御が述べられている。第一章では問題の設定と研究の方向づけとがなされ、それに続く五つの章で具体的な研究成果が示されている。最後の章は全体の総括である。

 第一章は序論であり、本研究の目的及び光化学活性と電気化学的活性の両方を有しているアゾベンゼン誘導体を用いた意義について述べられている。特にアゾベンゼン誘導体の光異性化反応と電気化学反応のハイブリット系の考え方がまとめられている。さらに、偏光照射により誘起された選択的光異性化反応の原理と最近行われだ研究例が整理されている。これまでの研究では単一な直線偏光照射のみが使われており、異なる方向の偏光照射により、特定の面内配向分子を選択的に光異性化する系はまだ報告されていないことが指摘されている。さらに、シス体アゾベンゼンの不安定性による、電気化学的分子変換の必要性が述べられている。

 第二章では、Langmuir-Blodgett(LB)とSelf-assembly(SA)の成膜法によりアゾベンゼン誘導体薄膜が作成され、この二種類の膜の構造は、原子間力顕微鏡による分子像、吸収スペクトル及びフーリエ変換赤外スペクトルにより解析された。膜の法線に対して、LB膜中分子の平均傾斜度はSA膜中の平均傾斜度より高いことから、アゾベンゼン基の長軸方向の遷移モーメントが大きな膜面内投影成分を持つことが明らかにされ、このLB膜は光電気化学反応において偏光制御に最適と指摘された。また、これらアゾベンゼン膜の光化学活性も比較検討され、LB膜中の分子の活性がSA膜中の分子より高いことが明らかにされた。

 第三章では、LB膜を用いて、膜中の同じ場所に異なる直線偏光を続けて照射することによって面内にほぼ等方的に配向するアゾベンゼンのうち、偏光面に分子長軸が配向した分子のみが選択的に光異性化することが明らかにされた。この面内選択的光異性化過程が分光学的方法と、原子間力顕微鏡を用いた微視的な薄膜構造変化によって直接確認されている。すなわち、アゾベンゼン長鎖誘導体において、トランス体が密に配列したLB膜を形成するのに対して、シス体ではねじれたコンホメーションをとるために膨脹型となり、分子占有面積が増大することより、面内選択的光異性化過程においてモルフォロジー変化を直接観察することができる。偏光照射による光異性化の選択性が非偏光照射による光異性化の等方性と比較することで、この現象の機構が解明されている。すなわち、各ドメイン中の分子配向が、偏光照射による光異性化反応を膜面内で選択的に誘起したものと結論されている。

 第四章では、まず、シス体アゾベンゼンは熱的逆異性化反応を起こしやすいため、連続的偏光照射により誘起されたトランス体とシス体の面内分布を長時間保持することが難しいのに対して、シス体アゾベンゼンの電気化学的還元生成物であるヒドラゾベンゼンの安定性が述べられている。次に、シス体アゾベンゼンとヒドラゾベンゼンの電気化学的分子変換において、偏光照射を併用することによって面内選択的トランス体-シス体-ヒドラゾベンゼンの光電気化学反応がサイクリックボルタモグラムとin situ分光電気化学測定によって確認されている。さらに、この面内選択的分子変換系は、情報記録素子への応用の一つとして、膜中の同じ場所に異なる直線偏光により多重記録が可能となることが示唆されている。

 第五章では、長時間の偏光照射の場合、偏光面に分子長軸が配向した分子のみが選択的に光異性化することと共に分子は偏光面と垂直の方向に再配向することが明らかにされている。この再配向の機構としては、長時間照射より異性化反応する分子の数が多いこと、シス体はトランス体より分子占有面積が大きいことなどにより、膜全体に高い立体障害が誘起されることになり、分子の再配向が起こるものと説明されている。

 第六章では、in situフーリエ変換赤外スペクトルとin situ吸収スペクトルの測定により、SA単分子膜中のアゾベンゼン-ヒドンゾベンゼンにおける電気化学的分子変換の挙動が検討されている。分極電位をカソード電位とアノード電位に繰り返し変化させた時の差スペクトルの変化から、可逆的電気化学反応によるアゾベンゼン-ヒドラゾベンゼン系の相互変換とともに、可逆的分子再配向も誘起されたものと考察されている。

 第七章は、全体の総括である。

 以上述べたように、本論文ではアゾベンゼン誘導体の膜構造の詳細な検討に基づいて、異なる偏光照射による微小領域の光電気化学反応の面内選択性という新しい概念が提出されており、新規な分子変換システムが構築された。このシステム及び関連した知見は物理化学や界面科学の分野への今後の発展に寄与するものと認められる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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