学位論文要旨



No 112228
著者(漢字) 梶原,秀夫
著者(英字)
著者(カナ) カジハラ,ヒデオ
標題(和) 低温結晶中の酸素および窒素分子の光励起と緩和過程
標題(洋)
報告番号 112228
報告番号 甲12228
学位授与日 1996.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3771号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 小宮山,宏
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 講師 大久保,達也
内容要旨

 固相中での励起分子の反応過程を調べることは基礎研究、開発研究の両側面から重要であるが、気相反応に比べて未解明な部分が多く残されている。これは固相が多体問題を含む複雑な系であるため計算からのアプローチが難しく、また実験手法も限られていたことによる。不安定分子を希ガス等の低温固相中に単離し安定化させるマトリックス単離法は、これまで多くの研究に用いられてきたが、励起分子の固相中の動力学や定量化についての研究は未だ少ない。

 本研究では励起小分子(O2,N2)の固相中での動的な挙動の追跡やその定量化を目的とした。励起源としてはレーザー光を用いた。レーザー光の単色性やパルス性は動力学解明に有力である。媒体となる固相としては希ガスやN2の自立型結晶を用いた。自立型結晶は従来のマトリックス単離法に用いられてきた薄膜状の固相と異なり、1辺が約1cmの立方体状結晶であり真空チャンバー中に自立した形で存在させることが出来る。自立型結晶の特徴は、光散乱が少ないこと、光路長が長いこと、結晶粒度が大きいことである。これらの特徴を持った自立型結晶は吸収スペクトル測定に適しているため固相中の分子の定量を行うのに有利であり、また体積が大きいため新規な固相反応媒体として用いることも可能と思われる。具体的には、N2結晶中での多光子誘起による励起N原子の生成機構の解明、N2、Ar、Kr結晶中または水素(H2,D2)固相中のO2の光ダイナミクスの解明をおこなった。なお、H2、D2固相は融点が非常に低く自立型結晶を作成することが難しいため薄膜状固相を用いた。

 低温固相におけるN2の活性化については、X線、線、電子線照射や、気相試料ガスへの放電による研究が報告されてきた。これらの励起方法は与えるエネルギーが不確定であり、励起機構の解明が困難である。一方、レーザー光による励起は与えるエネルギーが正確であるので励起過程の解明には有力であるが、N2の結合エネルギーが非常に大きく紫外部に吸収帯をもたないため、レーザー光励起による研究例は報告されていなかった。本研究ではレーザー多光子励起によるN2結晶の活性化を試みた。

 248nmのレーザー光を15Kに保持されたN2結晶に集光して照射すると励起N原子からの発光が観察された。原子発光強度はレーザー光の照射を続けることによって増加し、増加速度はレーザー光強度の約3次に比例した。結晶からの発光スペクトル中には励起N2からN原子へのエネルギー移動を示すバンドも観察された。励起N原子生成について以下のような光励起機構を提案し妥当性を確認した。すなわち、結晶中のN2は248nmの光の2光子吸収によって励起N2を生成し、一部のN2は3光子吸収によって解離しN原子を生成する。励起N2と基底N原子の間にエネルギー移動が起こり励起N原子が生成する。励起N原子は発光緩和して基底N原子となり再びエネルギー移動を受けて励起される。このサイクルがレーザー光照射中は繰り返される。本研究ではレーザー光によるN2結晶の活性化が可能であることを確認し、光励起の機構について解明した。また光励起によって生成したN原子は固相中に長時間保持され光エネルギーのリザーバーとして機能することがわかった。

 次にO2の光ダイナミクスについて述べる。低温固相中の電子励起O2の緩和過程については精力的な研究がなされてきた。N2や希ガス固相中に単離されたO2が紫外光によって励起された場合、A’→Xという発光緩和をすることが知られている。

 微量のO2をドープした15KのN2結晶に対し240-260nmのレーザー光を照射し発光を測定したところA’→X発光が観察された。試料結晶の温度を30K付近まで上昇させると従来のA’→X発光の強度が減少し、同時に、より長波長に新たな発光バンドが現れることを見いだした。この新たな発光バンドをc→a遷移によるものであると同定しN2固相中でのO2のa状態の分子定数を決定した。A’→Xとc→aの2つの発光バンドに対応する励起スペクトルには差異が認められず、2つの発光とも光励起過程における上位状態はA’状態であることがわかった。これは光励起されたO2が上位状態での緩和の途中にA’状態とc状態とに分岐することを意味する。励起パルス光直後の発光の時間分解測定をしたところ、A’→X発光は単調減少し、c→a発光は増加したのち減少することがわかった。A’→X発光の失活速度とc→a発光の立ち上がり速度は結晶温度上昇に伴って増加した。以上の実験結果から次のように考察した。すなわち光励起されたO2はA’状態で振動緩和し、振動準位(v’=0,=3)から発光するものと、隣接するc状態の振動準位(v’=2)へ項間交差したのち発光するものとに分岐する。項間交差の速度は温度に対し正の依存性を持つ。N2結晶中のO2の発光は温度によって波長の変化する発光媒体としての応用可能性があると思われる。

 続いて発光緩和した後のO2について調べた。O2の電子励起状態や発光の挙動についての報告例はあるが基底状態の振動緩和については調べられていない。基底状態の振動緩和が遅いとすれば振動励起状態が結晶中に蓄積することも考えられる。本研究では紫外吸収法により振動励起O2の挙動を観察することを試みた。また振動励起O2からの吸収スペクトルを測定することにより励起状態のポテンシャルについての知見も得られることが期待される。

 約0.1%のO2をドープしたAr結晶に248nmのレーザー光を照射し、同時に重水素ランプ光を光源として結晶の紫外吸収を測定した結果、スペクトル中に多数の吸収線が観察された。これらの吸収バンドをO2の基底状態の高振動励起準位からB状態の振動準位への遷移と同定した。同位体O2を用いた実験による同位体シフトの測定や、フランクコンドン因子とスペクトル中のピーク強度分布との比較などから正確な同定を行い、これまで報告されてきたB状態の振動量子数を一つ大きい値に訂正した。Kr結晶についても同様な測定をおこない、やはり振動量子数を訂正した。振動量子数の訂正の結果、希ガス結晶中のO2のB状態は気相に比べ大きく安定化しており、安定化はAr結晶中よりもKr結晶中の方が大きいことがわかった。安定化は溶媒和効果によるものと思われる。本研究によって決定したエネルギー値を用いて、ポテンシャル曲線を計算した結果、希ガス結晶中のO2のB状態のポテンシャルは気相のものに比べ幅が狭まり解離エネルギーも大きくなっていることがわかった。B状態におけるO2は核間距離が大きく、まわりの格子希ガス原子からの反発力が強いためにポテンシャル曲線が大きく変化したと思われる。

 吸収スペクトルの吸収強度およびその時間変化の観察から、結晶中の励起O2の定量化と挙動の追跡を行った。試料結晶に対するレーザー照射を続けると吸収スペクトル中の吸収線の強度は増加し、15分程度で定常状態に達した。これは結晶中に振動励起O2が蓄積していることを意味する。吸光度の実験値と振動子強度の文献値とから結晶中に蓄積した振動励起O2の定常濃度を見積もった結果、振動励起O2の定常濃度は結晶中に存在する全O2の約0.1%と見積もられた。定常状態濃度はレーザー光の強度の約1次に比例した。すなわち振動励起O2の生成過程は1光子によるものであり、消失過程は光には無関係に起こることが示唆された。

 レーザー光照射を中断した後の吸光度の減少を測定し、振動励起O2の緩和挙動を追跡したところ、振動緩和は低い振動準位ほど遅く100秒に近い寿命を持つことがわかった。緩和モデルとして振動準位が一つずつ減少していくという仮定を立てプロセスの定量的解釈を試みた。その結果、励起光である248nmの光に対するO2の吸収断面積が3x10-23cm2と求められ、結晶中でのO2の全プロセスに対する定量化を行うことが出来た。すなわち248nmの励起光1パルスによって結晶中の全O2のうち100万分の1の量のO2が電子励起状態(A’)に励起される。O2はA’状態で素早く振動緩和したのち発光緩和し、基底状態の振動励起準位に分布する。基底状態の振動緩和が非常に遅いために振動励起O2が蓄積し、その濃度は全O2の1000分の1程度まで高まる、という描像が得られた。本研究は固相中の励起分子の動的挙動を定量的に調べた数少ない例と言える。

 固体のH2やD2は量子固体としてのユニークな性質を持つため、近年注目を集めている。H2およびD2固相中のO2の光ダイナミックスをLIF法を用いて調べた。

 O2を微量ドープしたH2およびD2固相に紫外レーザー光を照射すると、H2固相では発光が観察されなかったが、D2固相中ではA’→X発光が観察された。O2の発光の偏光についての解析から、D2固相中ではO2がfccサイトに分子軸が[1,1,1]方向に固定されてトラップされている場合に光励起が起こり発光が観察され、一方H2固相中ではhcpサイトにO2がトラップされるために光励起が起こらず発光が観察されないということが示唆された。

 低温結晶中におけるO2、N2の光励起と緩和過程を分光学的手法によって詳細に追跡し、効率的なエネルギー移動、結晶温度に依存する項間交差による発光の変化、高エネルギー中間体の結晶中への蓄積、ポテンシャル曲線の変化、トラップされるサイトの効果等、固相特有の性質が分子の挙動に及ぼす影響について明らかにした。

審査要旨

 本論文は「低温結晶中の酸素および窒素分子の光励起と緩和過程」と題し、多体問題を含む複雑な系であるために未解明の部分が多く残されている、固相中でのエネルギー移動や緩和過程を検討し、励起分子の固相中の動力学の解明やその定量化について検討をおこなったものである。このため、具体的な対象として励起小分子(酸素、窒素)の希ガス固相中での動的な挙動の追跡やその定量化を、レーザー励起と詳細な分光学的、速度論的な方法論によって試みている。

 本論文は8章よりなる。第1章は緒論であり、低温固相中の光励起の研究の背景を述べている。マトリックス単離法を中心とする従来の研究は、低温度で固相中に安定化された不安定化学種の分子構造解明を目指したものが主で、固相中の分子の反応や、エネルギー移動などの動的な挙動の研究が不十分であることを述べている。その上で、分子の動的な挙動を追跡するのに自立型の低温結晶を用いることの利点を示した。本研究では、希ガスや窒素の自立型結晶中にドープされた酸素、窒素を主要な対象として、紫外レーザー光励起による挙動を解明することを目的とすると述べている。

 第2章では低温窒素結晶に対して248nmのエキシマーレーザー光を集光して照射したとき、励起窒素原子からの発光が観察でき、その発光強度は照射とともに直線的に増加すること、またその増加速度は励起レーザー光強度のほぼ3次に比例することを示し、多光子過程によって励起窒素分子と窒素原子が生成し、さらに窒素原子は励起窒素分子からのエネルギー移動によって繰り返し励起されることを明らかにしている。基底状態にある窒素原子は光エネルギーのリザーバーとして長時間、固相中に保持できることを述べている。

 第3章では低温の窒素結晶中にドープされた酸素分子に240-260nmの光を照射し、その結果、異なる2つの電子励起状態の酸素分子からの発光が見られることを示している。いずれも準安定励起状態であるが、発光挙動の解析によって、これら電子状態間の項間交差と振動緩和の進行過程に、有効な相互作用が働くことを述べている。

 第4章では低温アルゴン結晶中にドープした酸素に対し248nmエキシマーレーザー光を照射し、同時に直交する方向において紫外吸収スペクトルを測定した結果を述べている。広い波長範囲に渡って、鋭い吸収スペクトルが認められるが、これは振動励起された基底状態の酸素分子から、B状態への遷移であると同定している。B状態の振動量子数を、同位体シフト測定を含む詳しい実験と解析により決定し、さらに吸収強度に基づいて、採用したレーザー励起条件下では0.1%にも及ぶ高濃度の励起酸素分子が、固相中に捕捉されていることを明らかにしている。

 第5章では低温のアルゴン、およびクリプトン結晶にドープされた酸素分子、および同位体酸素分子に対し、248nmエキシマーレーザー光照射条件下での紫外吸収スペクトルの測定結果を示している。第4章と同様に解析を進め、B状態の振動量子数の同定を行い、さらにB状態のポテンシャルを決定し、固相中の安定化が気相に比べ、アルゴン、クリプトンの順でかなり大きく進むことを明らかにしている。

 第6章では低温のアルゴン結晶において振動励起酸素分子が、レーザー照射中断の後、どのような時間的変化を示すかを紫外吸収法を用いて追跡し、振動緩和時間が100秒にも及ぶ非常に遅いプロセスであることを明らかにしている。振動緩和における振動数変化に関しても検討を行い、低温希ガス固相中の遅い緩和過程に対し、可能なメカニズムに関して議論している。

 第7章では重水素マトリックス中における酸素分子の吸収スペクトルの追跡を行い、励起状態の成分準位の同定について、従来の気相での解釈を変更すべきことを推奨している。さらに酸素を囲む周辺固相中において、重水素分子のもたらす非等方性の場の性質やその動的な挙動についてもスペクトルの解析から議論を進めている。

 第8章は総括の章である。第2〜7章の結果を総括し、特に酸素に対してエキシマーレーザー光を用いた励起の後の電子状態、振動状態の緩和の挙動を広く統一的に解明できたこと、さらに低温固相の場が、高いエネルギーを有する原子、分子種をかなり長く保持できることなどを強調している。そして低温固相の場が、選択的な反応の場としても応用可能ではないかという点から、今後の課題と展望を述べて章を閉じている。

 以上要するに、本論文は、低温固相中にドープされた酸素、窒素を主要な対象として、レーザー励起後の挙動を追跡することにより、電子状態緩和、振動状態緩和などにおいて低温固相に特徴的ないくつかの挙動を見いだした。これを定量的に検討することにより、高いエネルギーを有する化学種の長時間の保持、それらの反応場としての展開の可能性を明らかにし、化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53945